菊地さんがお書きになる文章のなかで、「友達」……いやここはカッコつけた表現だとしても「ダチ」の関係を取り扱ったものは、ちょっとどうしようと思わざるを得ないほど生々しく美しい感触をいつも備えており、私は文字通り「天使も踏むを恐れるような」気持ちでそれらを読ませていただいておりました。 中でも、『服は何故音楽を必要とするのか?』所収のジョン・ゴズリングへのインタビューは、「ダチ」の関係性の美しさを収めた文章として最も美しい文だと確信しています。ショーの協働者であるリー・アレクサンダーとジョンが、前者の一種横暴さを眼前で見せられつつも後者はむしろより一層魅かれ・その天才を確信し・なおかつダチであり続けた事実は、本当に信じ難いほどだと思います(なぜ信じ難いかというと、リーのような「天才」性を取り沙汰される人物だと、その周りに集まる人々は単に付き合いきれなくて離れたり/または高い報酬払ってくれるからいいやとビジネス関係だけの人付き合いに固定されたりと、いずれにしても孤独を深める結果が想定されるからです。 “現代ほど「友達」という言葉を軽んじている社会はない” 、本当にその通りです。結果的にリーはあのような最期を選びましたが、それでもゴズリングのようなダチがひととき付き添っていたおかげでリーの苦痛は少しでも軽くなったと私は信じています)。そして彼に取材する菊地さんの前で、ゴズリングは何度もリーの天才性について語り、そこに居ない人の背中をずっと見ているかのようだけども、しかし取材の場では菊地さんと直に向き合っていて、同じ音楽家としての連帯を持ちながら勢いよく話している。という状況が折り畳まれたあのテキストは、未だにその存在を思い出すだけで嗚咽せずにはいられません(お察しの通り、この段落の文を打つ間だけでも相当な水分量が眼窩や鼻腔から漏出してゆきました。)『N/K』に収録されなかった佐藤孝信さんの、マイルスとの「真の友情」のインタビューについては、もし読んでしまったら目が潰れてしまうほど美しかったかもしれないので、掲載されずによかったとすら思っています。 「友情と電気」にまつわる今回の記事を読みおえた直後、私の脳裏を占めていたのはマーク・ボランでした。「エレクトリック」といえばいつもヘンドリックスなのですが、今回はなぜか T.Rex だったのです。たぶん私がいまミック・ロックのドキュメンタリー映画を就寝前に少しずつ観ているからだと思われ、そこではいかにも20世紀の英国らしい、見目麗しいスターたちの「ホモソーシャル」な世界が明かされています。そのことに思いを致しながら、ひとつ気付きました。同様の「ホモソーシャル」な世界の楽しさを無邪気に映すことで世界的な好評を得た21世紀英国の映画監督ことエドガー・ライトは、『ベイビー・ドライバー』で初めて同じ年頃の男女の麗らかな愛を描くにあたって(その前にも『スコット・ピルグリム』で同様の試みがありましたが、あれは明らかな失敗作です)、『Electric Warrior』として「帯電」する前の・フォーク期の Tyrannosaurus Rex の音源を使う必要があったのだと。サイモン・ペグ&ニックフロストという「ホモソーシャル」大好き客層に間違いなくアピールするキャスティングを捨て、「ホモソーシャル」な力にあずかることをひとまずやめたエドガーは、「通電」する前のマーク・ボランの力を借りることで女性と付き合おうとした、つまり「電気以外の方法で繋がろうとした」のかもしれないと。 これと『ベイビー・ドライバー』内の諸モチーフ群(ガソリン車、デジタル音源プレイヤー、磁気テープ編集装置など)がどう関連するのかはまだ解りませんが、同時に私は今、女性にも「ホモソーシャル」な関係性がもたらすうまみがあり・それを活用して闘ったり依存的になったりすることもあるのだろう、とも思わされています。男性だけの関係性をよしとする男性も/女性だけの関係性をよしとする女性も、あるいは女性だけの関係性をよしとする男性も/男性だけの関係性をよしとする女性も(古めかしい表現を敢えて使えば、前者は百合好きの男性/後者はBL好きの女性ということになるでしょうが)、それぞれ自分が接続される人間関係(それには架空のものも含まれる)から実際的な力を得たり逆にダウンしたりもするわけですが、男性のそれのみが称揚されたり/批判されたりするとすれば、それは我々がまだ「前時代的」な過渡期にいるからで、これから必ず女性の「ホモソーシャル」な関係の、政治性込みでの美しさと力強さなども認識されるようになるでしょう。ペドロ・アルモドバルの映画は、ホモセクシュアリティとレズビアニズムの共闘意識を経過して、いずれはユースの女性たちの真の意味での「ホモソーシャル」をも描くようになる、というかもう描いているのかもしれません。 以上になんとか筋道立てた固有名が私の思考に並ぶには、文字通り雷鳴のように断裂的な一瞬しか必要としませんでした。「ダチ」にまつわる新たな菊地さんの文章を読んでいるうちに落ちてきた思考の雷は、それを処理するまでの過程で卒倒しそうなほどの心身的興奮を与えてくださいました。 このコメントを書くまでのあいだ、私は住居から駅まで歩いて電車に乗っていま目的地に着きましたが、ここ九州北部では昨晩よりの大雨が降り続いていて、駅までの道中でも大きな雷鳴が轟きました。が、書き終わろうとする今ではもはや傘すら要らないほどに静まっています。 もしかすると電力は、火や原子や太陽光など本来無関係なヤカラたちとつるみながら自分を発電させ続ける、地球史上稀に見るほどの色悪なのかもしれません。ともすれば我々は、住居内におとなしく通されている電力ですら本来は自然のものであることを忘れがちです。それら電力が可能とするすべての営みに幸がありますように。文字通り痺れるような文章を本当にありがとうございました。
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菊地さんがお書きになる文章のなかで、「友達」……いやここはカッコつけた表現だとしても「ダチ」の関係を取り扱ったものは、ちょっとどうしようと思わざるを得ないほど生々しく美しい感触をいつも備えており、私は文字通り「天使も踏むを恐れるような」気持ちでそれらを読ませていただいておりました。
中でも、『服は何故音楽を必要とするのか?』所収のジョン・ゴズリングへのインタビューは、「ダチ」の関係性の美しさを収めた文章として最も美しい文だと確信しています。ショーの協働者であるリー・アレクサンダーとジョンが、前者の一種横暴さを眼前で見せられつつも後者はむしろより一層魅かれ・その天才を確信し・なおかつダチであり続けた事実は、本当に信じ難いほどだと思います(なぜ信じ難いかというと、リーのような「天才」性を取り沙汰される人物だと、その周りに集まる人々は単に付き合いきれなくて離れたり/または高い報酬払ってくれるからいいやとビジネス関係だけの人付き合いに固定されたりと、いずれにしても孤独を深める結果が想定されるからです。 “現代ほど「友達」という言葉を軽んじている社会はない” 、本当にその通りです。結果的にリーはあのような最期を選びましたが、それでもゴズリングのようなダチがひととき付き添っていたおかげでリーの苦痛は少しでも軽くなったと私は信じています)。そして彼に取材する菊地さんの前で、ゴズリングは何度もリーの天才性について語り、そこに居ない人の背中をずっと見ているかのようだけども、しかし取材の場では菊地さんと直に向き合っていて、同じ音楽家としての連帯を持ちながら勢いよく話している。という状況が折り畳まれたあのテキストは、未だにその存在を思い出すだけで嗚咽せずにはいられません(お察しの通り、この段落の文を打つ間だけでも相当な水分量が眼窩や鼻腔から漏出してゆきました。)『N/K』に収録されなかった佐藤孝信さんの、マイルスとの「真の友情」のインタビューについては、もし読んでしまったら目が潰れてしまうほど美しかったかもしれないので、掲載されずによかったとすら思っています。
「友情と電気」にまつわる今回の記事を読みおえた直後、私の脳裏を占めていたのはマーク・ボランでした。「エレクトリック」といえばいつもヘンドリックスなのですが、今回はなぜか T.Rex だったのです。たぶん私がいまミック・ロックのドキュメンタリー映画を就寝前に少しずつ観ているからだと思われ、そこではいかにも20世紀の英国らしい、見目麗しいスターたちの「ホモソーシャル」な世界が明かされています。そのことに思いを致しながら、ひとつ気付きました。同様の「ホモソーシャル」な世界の楽しさを無邪気に映すことで世界的な好評を得た21世紀英国の映画監督ことエドガー・ライトは、『ベイビー・ドライバー』で初めて同じ年頃の男女の麗らかな愛を描くにあたって(その前にも『スコット・ピルグリム』で同様の試みがありましたが、あれは明らかな失敗作です)、『Electric Warrior』として「帯電」する前の・フォーク期の Tyrannosaurus Rex の音源を使う必要があったのだと。サイモン・ペグ&ニックフロストという「ホモソーシャル」大好き客層に間違いなくアピールするキャスティングを捨て、「ホモソーシャル」な力にあずかることをひとまずやめたエドガーは、「通電」する前のマーク・ボランの力を借りることで女性と付き合おうとした、つまり「電気以外の方法で繋がろうとした」のかもしれないと。
これと『ベイビー・ドライバー』内の諸モチーフ群(ガソリン車、デジタル音源プレイヤー、磁気テープ編集装置など)がどう関連するのかはまだ解りませんが、同時に私は今、女性にも「ホモソーシャル」な関係性がもたらすうまみがあり・それを活用して闘ったり依存的になったりすることもあるのだろう、とも思わされています。男性だけの関係性をよしとする男性も/女性だけの関係性をよしとする女性も、あるいは女性だけの関係性をよしとする男性も/男性だけの関係性をよしとする女性も(古めかしい表現を敢えて使えば、前者は百合好きの男性/後者はBL好きの女性ということになるでしょうが)、それぞれ自分が接続される人間関係(それには架空のものも含まれる)から実際的な力を得たり逆にダウンしたりもするわけですが、男性のそれのみが称揚されたり/批判されたりするとすれば、それは我々がまだ「前時代的」な過渡期にいるからで、これから必ず女性の「ホモソーシャル」な関係の、政治性込みでの美しさと力強さなども認識されるようになるでしょう。ペドロ・アルモドバルの映画は、ホモセクシュアリティとレズビアニズムの共闘意識を経過して、いずれはユースの女性たちの真の意味での「ホモソーシャル」をも描くようになる、というかもう描いているのかもしれません。
以上になんとか筋道立てた固有名が私の思考に並ぶには、文字通り雷鳴のように断裂的な一瞬しか必要としませんでした。「ダチ」にまつわる新たな菊地さんの文章を読んでいるうちに落ちてきた思考の雷は、それを処理するまでの過程で卒倒しそうなほどの心身的興奮を与えてくださいました。
このコメントを書くまでのあいだ、私は住居から駅まで歩いて電車に乗っていま目的地に着きましたが、ここ九州北部では昨晩よりの大雨が降り続いていて、駅までの道中でも大きな雷鳴が轟きました。が、書き終わろうとする今ではもはや傘すら要らないほどに静まっています。
もしかすると電力は、火や原子や太陽光など本来無関係なヤカラたちとつるみながら自分を発電させ続ける、地球史上稀に見るほどの色悪なのかもしれません。ともすれば我々は、住居内におとなしく通されている電力ですら本来は自然のものであることを忘れがちです。それら電力が可能とするすべての営みに幸がありますように。文字通り痺れるような文章を本当にありがとうございました。