Dr.U のコメント

うさぎです

 小林先生、倉山満と討論されるのですね。

 先週のSPA(1月17日号)の倉山氏の記事、皆様があちこちで批判をされていたように、ツッコミどころが満載でした。倉山氏は次のように主張しています。

「変わらず続いている伝統こそ、皇室の本質である。では、一度の例外が無く続いている伝統とは何か。皇位の男系継承である。」

 やれやれ、です。倉山氏は、美智子様が「伝統には表に現れる型と,内に秘められた心の部分」があるとおっしゃっていたこと、まったく理解できないんでしょうね。一言で言えば、形式主義者。ある存在の価値を評価するのに、その形式、外面的要素の一つにしか目がいかない。

 こういうタイプの人は、たぶん明治維新のときには、ちょんまげがなくなったら、帯刀しなくなったら、武士の魂は完全に失われると騒いでいたに違いありません。同様に、かつて天皇が仏教に帰依してその支援者になったときや、壇ノ浦で三種の神器の一つ「草薙剣」が失われたときや、明治維新で皇族が東京に移住して衣食住に洋風を取り入れたときも、天皇の本質が失われると騒いでいたに違いありません。

 実際には、美智子さまが仰ったように、武士的な精神性は形を変えて現代日本にも受け継がれていますし、天皇と皇室は人々の敬愛を受け続けています。

 しかし、倉山氏によると「皇位の男系継承」だけは別らしいです。どうしてそんなことが分かるのでしょうか。

 ポイントは、倉山氏の論法は、すべて後付けの結果論だということです。彼は言います。「草薙剣が失われた、しかし、天皇という存在は存続した。だから、草薙剣は天皇の本質ではない。」 その論法でいくなら「男系継承」だって、それを無くしてみて結果を観察しなければ、それが「本質」であったかどうかなんて分からないことでしょう?

 実際のところ、「男系継承」がなくなって、将来、愛子さまのお子様が即位なされたとしても、それによって天皇と皇室に対する人々の敬愛が薄れることはないでしょう。そんなことは、これまでの皇室のみなさまの姿を見てきた大多数の日本人にとっては自明のことなのですが。

 結局、倉山氏は美智子様がおっしゃる、伝統における「内に秘められた心の部分」がまったく分かっていないのでしょう。その考えの浅さが如実に表れているのは、倉山氏が「三種の神器」と同じような外面的要素として「祈り」を挙げているところです。倉山氏は次のように述べています。

「天皇の本質は「祈り」にあるとする論者もいる。しかし、祈っていない天皇は何人もいる。幼帝は祈れないし、数え歳2歳で即位された第79代六条天皇などは、大嘗祭で泣きだしてしまったほどだ。…また祈りたくても儀式が途絶えて祈れなかった天皇も何人もいる。」

 なんとも表面的な理解ですね。おそらく彼は「祈り」を「宮中祭祀」とほとんど同じ意味で理解しているのでしょう。しかし「祈り」とは、ただ祭壇の前で、祝詞をあげて拝礼することだけを指すものではないはずです。「祈り」とは、この世の健やかなること、国民と国土の健やかなることを、高き存在に向けて祈願し、しかも、その思いを、様々な形で行動として表現することではないでしょうか。

 「高き屋にのぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」という仁徳天皇の御製、これこそまさに天皇による「祈り」であり、ここに表現されているものこそ天皇という伝統的存在の「内に秘められた心の部分」ではないでしょうか。古代から天皇という存在は、国民と国土の健やかなることを招来するという神聖な使命をもって、自らの本質としてきた存在なのではないでしょうか。無論、その「心」の部分は、時代の状況によって、十分に形として行動として表現できなかったこともあったでしょう。しかしだからといって、それによって天皇という存在の「心の部分」が完全に失われるわけではないのです。

 この世の健やかなること、それを祈る存在として、天皇は時代に応じて少しずつ「形」を変えながら、今日まで存続してきた。そういうことではないでしょうか。そして、現在の皇室のみなさまは、見事にこの天皇の伝統における「心の部分」を「形」として表現なさってくださっていますし、幼い頃より、御祖父母やご両親はじめ皇族の皆様の薫陶を受けてお育ちになった愛子様がこの「心」を引き継いでくださるであろうことに、国民の大多数は何の疑いも持っていません。

 🐇🐇🐇…
 
 ねぇ、倉山さん、そりゃあ2歳の六条天皇は、とつぜん儀礼の場に連れ出されて泣いたりしたでしょうよ。でもね、そのときだって後白河上皇や二条天皇をはじめ周囲の方々が「まつりごと」は行っていたわけでしょう? 天皇という存在は、その周囲の人々の存在も含めて、様々な要素の複合からなる歴史的存在なわけですよね? それがね、ただ一つの外面的要素が無くなったり、一時的に不在になったからといって、決定的にその本質が損なわれてしまうなんてことはないんですよ。

 倉山さん、記事の中で、自分でも言っているじゃないですか。

「三種の神器も祈りも大事だが、絶対ではない。第102代御花園天皇は…在位中に三種の神器を盗まれている。しかし、学識に優れ信望厚く、応仁の乱に至る室町の大動乱の中で民との絆を繋ぎ、その正統性を疑う者など誰もいなかった。」

 そういうことですよ。もちろん、時代状況の中で、様々な理由によって、自らの聖なる務めを十分に全うできなかった天皇もいたかもしれません。それでも天皇という存在への信頼が揺るがなかったのは、大きな眼で見れば、長い目で見れば、天皇という存在は、この世で大切な役割を果たす方であるという民衆の思いがあったからでしょう? 違いますか? 

 倉山さん、「形」だけでなく「心」を見ましょうよ。

 うさぎより

No.174 21ヶ月前

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