菊地成孔(著者) のコメント

菊地成孔 菊地成孔
(著者)

>>25

「お知り合いの若いミュージシャンの方々」の一人からコメントが入りましたので、それの対応を優先し、お待たせしました笑(トオイくん、君を悪いと言ってるのではないよ笑)

お知り合いの若いミュージシャンの方々も含め、みなさん、音楽にとってSNS的なあれこれはどうでもいいと思っておられるということで、俄然、次の「踊れるバンド」が楽しみになりました。

 ↑ ありがとうございます!お楽しみに!

お返事を読んでから『次の東京オリンピックが来てしまう前に』を読んでいて思ったのですが、296ページ1行目、下から2文字目の「。」は、「、」が正しいのではないでしょうか?もしそうなら、あの部分の文章は、この世界が100人なら、3人の利口を97人の馬鹿が支えているという、馬鹿にとって自分の死を直視するのと同じくらいキツい現実を、SNSを使用することで見ざるを得ないのに、SNSによる「発言の自由」という大義に忠実でなければならないという超自我の命令に自我を従わせる無意識的なすり替えによって、人はSNSを使用し続け、自我への拷問を続けている、というような意味になるかと思います。あの部分、読点のせいでちょっと意味が分からなかったのですが、なんとなく理解できました。

 ↑ いや〜そのご指摘は鋭いですね。僕は句読点に関して、かなり意識的にやってます。区切りはとても重要なので、ですのでこの件は、僕が、校閲の方とのやり取りの中で、ちょっと雑にしてしまったもしれませんね。仰ることはよくわかります。


同じページの、「自我と環境を激しく汚染させ」の「環境」とは、自我にとっての環境、社会システム論のニクラス・ルーマンっぽく言えば、自我に対するコミュニケーションの環境のことを指すのでしょうか?それこそ、Twitterの使用がそのまま正義の表明に直結させられるようなコミュニケーション環境は、何の観察も理解も無い、ただの肥溜めだと思います。

 ↑ ルーマン式、あるいはヴィトゲンシュタイン式のコミュニュケーション論(ヴィトゲンシュタインは言語ゲーム派なので、ルーマンとは全く違いますが)としての「環境」というよりは、僕は敢えてものすごく即物的に、スマホは電力を消費するし、街ゆく人々の脳内での言語のあり方は、エコロジストの言う「環境」へ、直接影響を及ぼすと考えています。もちろん、正義の競い合い。と言った不毛が、ルーマン式の、自我に対するコミュニュケーション環境にとっては、肥溜めだと僕も思います。そんなことは前提なので、敢えて、具体的、即物的な「環境」が汚染される。としました。


同じエッセイで、今のニューヨークは次の日本。的な妄言を拡散するような馬鹿リベラルがもたらす社会的な害について触れられていて、それは一見、菊地さんが馬鹿を社会派的に糾弾されているようにも見えますが、私には、フロイディアンの倫理に忠実に、自我の強化の必要性を説いておられるだけのようにも思われます。

 ↑ はい、もう全然その通りです。エッセイは社会的な発言たり得ません。僕はアメリカなんかには掃いて捨てるほどいる、フロイド派のエッセイストですよ。


 SNSを使って自分が97人の馬鹿だという現実を見続けるのはやめた方がいい、というのも同種の自我への配慮で、Twitter国訪問も同様かと思いますが、そのことが、小鳥たちには上から目線で説教されているようしか見えないのかと思います(話が横道に逸れますが、ぺぺの「小鳥たちのためにⅡ」という曲名について、こうした文脈から言及されているのを見かけたことがないのですが、書名からの引用という菊地マナーの中でも特に素晴らしいなと思いました。聴いた時の印象にもぴったりのタイトルで、大好きな曲です)。

 ↑おっしゃる通りです。自我の強化をSNSは阻む傾向があり、要するに、どんなに苛立っても、どんなに情報を取っても、自我は強化されません。 アドラーは、自分を傷つけるものとは離れられない、それは生きる実感を得れるので。と言いました。傷つけられることが生きる実感と直結し、日常化したら、双極性に於いて、鬱期がリアルだと思うのは当然の帰結で、自我の弱体化を意味しています(悪し様に言っているのではなく、ご理解いただけると思いますが、自我の強化としては偏っている。と言う意味です)。

 Twitter使用者は、マウントを取られること=説教を忌み嫌う傾向があります。僕は、マウントを取られることにさほどの抵抗もありませんし、説教は一方的に見えても対話なので、説教されるのは好きです。しかし説教は苦手ですので、本人の意識としては、していません。ただ、相手のデリカシーをどこまでも忖度すれば、「ばかだなあお前笑」と書いても、最悪自殺される可能性まで、今のツイッターは含んでいると思われ、僕のエッセイ(ツイート)が、痛いところを突き、反省を促すように読まれてしまっても仕方ないな。というリスクまでは、一応考えた上で、リスクヘッジしない。というパーソナルなポリシーを遂行しました。

 「小鳥たちのために」に望外なご高評賜りましてとても嬉しいです。あの曲は作曲家の小田朋美さんと二人で作ったもので、小田さんはバッハの市井の研究家レヴェルですが、ケージの当該書は読んでいませんでした。なので、まずは「ケージに、こういう名前の対話集があるのだ」という話をしただけで、作曲に入りました。いささか長いですが、ぺぺの時には読み上げない、デュエット用に書いた、曲への導入MCがあるので、貼り付けます。


<ありがとうございます。さて、次の曲は、「小鳥たちのために」という曲で、私と小田さんで、1と2、連作で2曲つくりました。共作というのは、どちらがどこを作ったとか、どちらがどこを直したかとか、作った本人たちは、ざっくり覚えているとしても、演奏するときは完全に一つになってしまう。小鳥のさえずりに似ています。

小鳥たちは、どこの木でどの小鳥がさえずっているか、聞き分けてはいないでしょう。一見、合唱のようですが、でも合唱ではありません。小鳥の群れ、そのさえずりに満ち満ちている美しく、そして途轍もない自由は、ひょっとしたら、我々人類にとって、永遠の憧れなのかも知れません。小鳥のさえずりは、いうまでもなく、トゥイタリングと言います。そしてトゥイタリングする者のことは、トゥイターと言います。ツイッターですね。我々人類が、鳴き声ではなく、言葉でさえずると、まあ残念ながら、あまり美しいとは言えないようですね(笑)。

さて、1970年10月、ザ・ビートルズがすっきり解散できずにこじらせ、法廷沙汰になる2ヶ月前のことです、パリ国際音楽週間で企画された「ジョン・ケージの日々」にて、現代音楽のスター、ジョン・ケージは、フランスの音楽学者、ダニエル・シャルルと対談そして公開討論を行いました。

のちに1970年末から71年初頭にかけて、2人は、奇しくもザ・ビートルズの解散が法律上正式に決定する過程と足並みを揃えるようにして、対話を続け、その記録を1冊の本にしました。もちろん、このお話とザ・ビートルズは何の関係もありません。私はそうですね。ドライヴ・マイ・カーが一番好きですが。小田さんはどうですか?(「あまり聞いたことがないです」)そうですか(笑)。


ケージの音楽論や芸術論、自作の評価、思想、フランスでの彼に対する批判への反論などが語られている、その、非常に豊かな本の名前は

「小鳥たちのために」

と言います。

書名はジョン・ケージが考えたもので、自分の名前を使った言葉遊びです。ケージの姓である "Cage" は、英語とフランス語のいずれにおいても「鳥籠」を意味したからです。美しいタイトルですね。

そして、美しいのはタイトルだけではありません。二人が語り合った内容、それは、この本の章立て、索引にもなっているわけですが、どの言葉も非常に美しい、試しに、小田さんが弾く、美しいピアノの上で読み上げてみましょう(イントロが始まる。それに乗せて)

構造と素材 / 方法と形態 / 若い時代の作品/ 沈黙の役目 / 偶然の使用と時間の解放 / 瞬間、持続、反復 / エレクトロ・アコースティック技術と〈ライヴ・エレクトロニック・ミュージック〉アナーキーと有用なもの /無秩序への意志 /フラーと3という数 / 存在するものすべてに対する責任 / 自由と実在/ 声による音楽 / 作曲における自己の排除 / コンピューターにかけられたモーツァルト /経験を選り分けることはできない/ 水族館 / 音楽における他者の存在 /自我を超えた多数のために / フランスでの状況について / 麻薬と同胞愛/ 日本と日本の音楽 / リズムと非整合性/ ノーマン・ブラウンの重要性 / セックスの問題 / アンリ・プッスールに改良主義について / 革命とシナジー / 愛と落着き

いかがでしょうか?大変に美しい、まるで小鳥のさえずりのようです。それでは、まずは我々がやってみせますので、それから皆さんが、そして、いつの間にか誰も彼もなく、すべての存在が、美しくさえずり始めるきっかけになりますよう。お楽しみくださると幸いです。「小鳥たちのために」


 なんで君は泣くの?小鳥のように綺麗な声で
 五月になれば 花が咲けば 春が来るのに
 僕の全てを 奪ったものも 神様が出した難問のわからない答えも
 宝物も 全部捨てた後
 僕は歌う 世界中の 恋人たちは 小鳥の声で 
 愛し合いたがっていると>


 
『次の東京オリンピック〜』の木澤佐登志という方の書評で、長年菊地さんのファンだったが、菊地さんはリベラルをガチで批難するような人になってしてしまって残念だ。というのが町山さんとの騒動の時にTwitterでバズっているのを見ましたが、そのような見方は前述の菊地さんのフロイディアン的な穏当さへの不理解からくるものであって、菊地さんのファンであってもフロイトを理解するのは難しい、ということを証明しているようにも思いました。

 ↑ おうむ返しでは芸がありませんが、全くその通りです笑。「スペインの宇宙食」に烙印を押されている方の多くが、非常にナイーブでセンチメンタルですので、あの本からそこを中心に吸収していると思われます。僕が違う面を見せると、「あいつは変わってしまった」という人々が必ず存在し、それはパニック障害を精神分析療法で直した時にもいましたし、今回の騒動でも多くいらっしゃると思いますが、僕は一貫しています。というか、どんどんむき出しにな理、老いて行っているだけです。


私自身、2000年頃から菊地さんを追っていて、最初はその書評者と同じく、理解できていなかったのですが、ある時を境に理解できるようになった気がします。何がきっかけだったのかは自分でも分かりませんが。

 ↑ なんでしょうね。夜電波かもしれないし、著作の何かかもしれませんね。


コミュニケーション環境の汚染、匿名批評家の増殖、という事態をまざまざと見せられたのがSNSの10年だとして、このような事態を菊地さんは怖いとおっしゃられている一方で、自分に自信を持てば大丈夫、ともおっしゃられています。自信を持つとは、フロイト的に言い換えれば、自我をエスに近づけるという意味に近いかと思います。

 ↑ 全くその通りです。フロイドのジャーゴンを使うと反感を買いますが、「自分自身を理解する」ということは、自我をエスニ近ずけ、自分に自分を支配、操作させぬように強化するということになりますね。


Twitter定着以前に上梓された『ユングのサウンドトラック』まえがきで、アーカイブの完成後は、欠損を表明することに価値が付与されることに言及されていて、この話は20世紀的な批評家が上、素人が下、の構造の転倒につながり、そこから得られるフレッシュさ、後ろめたさの解消、といった話に繋がっていくかと思います(スーパーフラットの可能性はこうした部分に関わるのかと思います)。同じくTwitter以前の『記憶喪失学』で提示されたコンセプト、というか直観?がそれに先行されていたのかと推測します。最近のエッセイでもブルータスに対してヤケドするぞと冗談を言われながら言及されていましたが、菊地さんのあの時期の作品群は、自我の、エスの飼いならし、社会的な環境への恐怖への順応、双方の鍛錬に関する、今こそ旬と言える内容が盛りだくさんなのではないかと感じています。

 ↑ いやあ何というか、僕がもう理解されないと諦めていたことを解釈して頂き、シンプルに嬉しいです笑。全部を「衒学的なネタ」「テキ屋のホラ話」とするのが、権威思考で自分を省みない読者にとって一番楽なので、そう解釈されても良いや。と思っているのですが、前段にある通り、僕は一貫しており、それはいつも予兆的になります。嫌咳権がコロナを予兆していた!なんて大味な話ではなく。


あと、誰も触れてないのでこの際だから言いたいのですが、今回のTwitterの、町山さんの信者は半沢直樹の見過ぎでは?という部分がめっちゃ面白かったです。

 ↑ あそこウケなかったですねえ笑。地上波テレビの影響力ですから、SNSとは関係ない、ということだったのでしょうか。糾弾(悪の存在)と、土下座(謝罪の極限値)の往復は、歌舞伎の愁嘆場であって、実際あれは歌舞伎役者を使っています。庶民の溜飲を下げるエンタメは素晴らしいと思いますが、そこだけ独立して発達すると病的だと思いますね笑。僕は合意の元の不倫がすっぱ抜かれても、当事者以外に謝罪する必要性は全くないとする派です。

No.33 44ヶ月前

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