希蝶 のコメント


 しゃべくりでも、Q&Aでも取り上げられている綽名のことについても触れておきます。

 確かに言葉には悪意をこめていう場合があり、同じ言葉でも人によって違った意味になり、いじめになってしまうことも多いのですが、今のそれは行き過ぎで、状況に応じて、それぞれの判断をすれば良い、というだけのものでしょう。「坊ちゃん」など、明らかにルール違反になります。

 自分の学生時代の綽名は「水くらげ」で、それは中学の生物の先生がつけたものでした。その先生は、生徒に変な綽名をつけるのが好きで、それが生徒への親愛のしるしでもあったのですが、同じようなことを自分がかつて塾の講師をしていた際にしたら(授業の際に例え話で、〇〇くんがこうして、××くんがこうしたらという話をしたら)、いじめだ、差別だ、Aさん・Bさんにしろ、というふうに言われました。その時は仕方なくそういうふうに訂正しましたが、結局生徒からは完全に嫌われ、その塾からの仕事は自然消滅しました。時代がかわったとはいえ、一体何なのか、いや、時代の問題ですむのか、と感じました。なんて不便な世の中なんだろう。赤いシリーズで、三浦友和が山口百恵を救うために、医師を殴って叱咤激励するような場面は、今では暴力にしかならないのか、人と人のふれあいって、そんな程度のものなのか。

 ちなみに、自分のほかの綽名を述べると、「ユダヤ人」「おかま」「身体障害者」「言語障害者」というのもあるのですが、かつて「紳士協定」という洋画(薬師丸ひろ子の映画ではありません)で、ユダヤ人に扮してユダヤ人差別を探ろうとした記者が、息子が学校でそのためにいじめられた際に、「ユダヤ人と言われて傷つくのは、ユダヤ人を差別している証拠だ」というようなことを言うのです。その時はなるほど、と思ったものですし、状況によっても異なる話ですが、一考する要はあるもしれません。私も、水くらげ滅びろ、ユダヤ人よ、いなくなれとまでは思ってはいません。(でも、「ユダヤ人」と当時呼ばれて、純然たる日本人の自分は嫌な気持ちになりました。そういう気持ちも分かります)。

 ちなみに学校の国語の時間でこういう話を習ったことがあります。作者の名前は忘れてしまいましたが(阿蘇山の火口の上を歩く話を書いた人だったと思う)「西村少年」(だったかな)という話で、政子という女生徒と仲の良かった転校生の少年を「頼朝」と名づけたクラスの少年たちの話なのですが、かつては男尊女卑で、女は「メス」扱いされたこともあったのか、それに女性の側から「あんたたちはオスだ」と反論したら、人間である男を動物扱いするのはどのようなものか、という一方的な意見がまかり通る時代もあったのか、とは思いました。これは明らかに差別でしょう。

 最後に、自分のクラスメートに(名前を出してもいいのかな、いちおうカタカナにします)「トコロさん」という人がいて、英語で「BY THE WAY」と呼ばれていました。ちょうどその熟語をならったところで、印象深かったのですが、こういう綽名もあるのだから、一概に綽名は駄目、はやはりおかしいでしょう。
 状況に応じて大まかに判断する、実際、そういういじめで自殺する人もいるのだろうし。でも、綽名のない世界もやはり変だ、相手への親愛の情をこめたものは容認すべきだ、そう思います。

No.74 49ヶ月前

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