Mythe et poeme のコメント

明治維新における「国家」成立の問題については、司馬遼太郎が繰り返し繰り返し考察している。『司馬遼太郎が考えたこと』全15巻のメインテーマの一つだと言ってよい。

司馬は、日本人が<国家>という形而上学的な存在を列島の人間が理解できないまま「明治」という時代がはじまってしまっていることを繰り返し述べている。
人にとって「国家」とは何なのか?それが実はよく分からないままに、日本という「国家」はスタートした。そして、国際社会における「国家」としての振舞い、つまり<外交>ということが分からないままに進んで行ったのである――滅亡へと。

ハイデッガーは、ナチだと批判されるが、それでも、本居宣長のように神話で国体を語りはしていない。存在の根本的な源泉は民族だと言ったわけであり、神話ではなく歴史な成り立ちにおいて国家を考察したのだった。そもそも、ドイツは、ヘーゲルからニーチェへの道のりにおいて、「国家」そのものを思想の対象として考え抜いている。

日本は、ドイツから軍事は学んだが、ヘーゲルの国家論やハイデガーの存在論はおろか、クラウゼヴィッツの『戦争論』にもさしたる注意を払っていなかったように見える。石原莞爾の『戦争論』における世界最終戦争論にしてからが、政治と外交の延長上に戦争があるという発想が欠如している。石原の本を読んでいるとバカの壁の恐ろしさに身震いがする。

今でもそうだが、すぐに経済的な結果を産み出さない基礎理論に価値を置かないこの国の国ぶりは、にわか作りの木と紙の家を作るようにしてすぐにできるのだが、持続可能な共同体を産み出すことが苦手だ。持続可能な共同体を構築するには忍耐と努力と理性的な判断に基づくヴィジョンの共有が必要だが、そういうパブリックの構築ということについての経験も智慧もなおこの列島には蓄積されていない。

「百年河清を待つ」という諺があるが、政治家に何かを求めているうちは、この国はよくはならない。
今、政治も不在、官僚も右往左往し、なおかつ、日本は動いている。
つまり、政治家も官僚も、今のような人たちであれば不必要な上澄みに過ぎないということが顕在化している。
日本は彼らを必要としていないののである。
日本という国家を事実上動かしているのは、名もない庶民の日々の労働にほかならないからだ。


No.7 86ヶ月前

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