たけのこの「ふるさと」
高畑勲監督は『かぐや姫の物語』の前に一度、かぐや姫を画面に登場させている。
前作『ホーホケキョとなりの山田くん』での1シーンだ。
『となりの山田くん』はアヴァンタイトルでキャラクターの紹介を済ませると早々に、父たかしと母まつ子の結婚式から始まる、通称“ボブスレー編”の開幕となる。
“ボブスレー編”は、いしいひさいちの原作に寄らず、ビジュアルのおもしろさを盛り込むことを主題にした一連のシーンのことだ。ここでまず描かれるのは、山田家がいかにできあがってきたかの過程である。
ウエディングケーキをボブスレーでさっそうと滑り降りていったたかしとまつ子は、海を乗り越え、キャタピラカーでやがて一面の畑へとさしかかる。畑に植わったキャベツから取り上げられているのは、赤ん坊だ。空を見上げれば、コウノトリも赤ん坊を運んでいる。どちらもヨーロッパの伝承に基づいた描写だが、たかしとまつ子はここでは赤ん坊を授からない。二人はヨーロッパ人ではないからだ。
二人が子供を授かるのは、川と竹林だ。
カットが変わり、たかしとまつ子は水墨画で描かれた川を小舟で下っている。すると川上から、大きな桃が流れてくる。たかしが刀で切ると、そこから赤ん坊ののぼるがでてくる。続けて、小舟は水に浸された竹林の中を進み、その中に竹が一つ光っている。その竹を切ってみれば、その中には、妹のの子が十二単にくるまれてほほえんでいる。
昔話になぞらえて語られる、家族の歴史。親から子供、子供からその子供へと語り継がれてきた昔話は、我々の中に刻み込まれアイデンティティーの一部となっている。
「ふるさと」とは単なる生まれ育った土地をだけを言うのではない。
こうした「世代を越えて語り継がれてきた昔話」もまた、人々の中に「ふるさとの光景」として息づいている。
『かぐや姫の物語』は、ふるさとをめぐる映画だ。もう少し正確にいうなら、それは「ふるさとの喪失」を主題に展開していく映画といえる。
『かぐや姫の物語』の「今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつゝ、萬づの事に使ひけり。名をば讃岐造麿となむいひける」と原作の冒頭を媼役の宮本信子が読み上げて始まる。
翁は、成長したタケノコの中から、輝くほど美しい女の子を見つけ、媼とともに育て始める。普通の子供よりも速い速度で成長する女の子は、たけのこと呼ばれ、ほどなく村の子供たちと里山の自然の中を駆け巡るようになる。
竹から生まれた女の子がどうやって成長したのか、『竹取物語』では、わずか1行足らず、「三カ月くらい経つ頃には人並みほどの背丈になった」と書かれているだけだ。だが、この映画はそこに、山の季節の移り変わりを丁寧に店ながら時間を割いて描いていく。それはたけのこという少女の中に、ふるさとが刻み込まれていく過程を観客に共有してもらうためだ。
この風景は実はたけのこだけのふるさとではない。この里山は「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが」で始まる、あらゆる昔話の舞台になりうる場所だ。そういう意味で、この風景はたけのこのとってのふるさとであると同時に、昔話を知る人間にとっても広くふるさとなのだ。たけのこが過ごす子供時代は、観客がそこをふるさとだと思い出すための時間でもある。
だが、この幸せな時間は長くは続かない。
たけのこに続き、竹の中から金を手に入れた翁は、彼女を立派な姫に育てることこそ、たけのこを遣わされた自分の使命と考えるようになる。そして都に居を構えるため、山の村を後にする。たけのこは、幼なじみの捨丸に別れも言えないまま、都で暮らすことになる。
この後、たけのこは、高貴な姫としてふさわしい教育を受けさせられ、名前も「なよ竹のかぐや姫」と改められる。そして、一旦は「私らしくいてはダメなのか」と拒否をするものの、最終的には眉を抜き、お歯黒で歯を染めることを受け入れて、表面上は型どおりの姫へと“美しく”変わっていく。ふるさとを捨てさせられたたけのこは、かぐや姫となるため、自分も捨てさせられそうになるのだ。
たけのこのふるさとの喪失だが、興味深い点が二つある。
一つは、ふるさとの喪失が翁の善意によって起きている点だ。
翁は、たけのこのことを大切には思っている。だが、それ以上に、自分に遣わされた不思議な女の子を立派な姫へと育てることこそ、自らの役目だと強く信じている。たけのこが自分の娘でないために、翁は「役目」こそがたけのことをつなぐ縁だと考える。それゆえに翁は、さらに“姫の幸せ”を目指して邁進することになる。そこにあるのは『夕鶴』の与ひょうとつうの関係にも通じる、ディスコミュニケーションだ。
こんな翁を愚かと笑ったり、無神経だと憎むことは難しい。
翁は、どんぐりまなこで、いつもおたおたおろおろしている。都に普請した邸宅に住んでも、鴨居や長押に烏帽子を引っかけてしまうなど、どうにも貴族風の暮らしが板につかない。たけのこを見つけなければ、善良な竹取として一生を終えたであろう男が、姫のために一生懸命背伸びをしている姿は、よくいって滑稽、あしざまに言えば無様だ。翁もそれを自覚はしている。だから、翁の判断基準はいつも世間になってしまうし、そういう翁の弱さ、成金的な振る舞いは周囲に見透かされてもいる。つまり、翁は憎むことも笑うこともできないぐらい、普通の人なのだ。
普通の人の善意が、たけのこからふるさとを奪っており、普通の人の善意だからこそ、たけのこはそこになかなか抗いきれない。この翁とたけのこの言葉にならないすれ違いが、この映画の底流に流れている。
もう一つは、かぐや姫となったたけのこの、心のバランスのとりかただ。
ふるさとを失い、都で窮屈なルールで縛られた姫を演じているたけのこは、ある方法で、心のバランスをとっていた。
それは屋敷の一角に媼がつくった畑だ。その片隅にたけのこは小さな庭をつくる。視線を地面すれすれまで降ろすと、眼前に広がるのは、たけのこがたけのこだった時を過ごしたあの里山の風景だ。この小さくて偽物のふるさとに慰められながら、たけのこは都で話題の美しい姫君を演じるのである。
このようにふるさとを失ったたけのこの物語は進行するのだが、これは決してたけのこだけの物語ではない。ふるさとを既に失い、かりそめのふるさとに慰められているのは、現代人も同じだからだ。
たけのこ個人の物語であると同時に、それを見ている誰かの物語でもある。たけのこに感情移入して、たけのこの物語を自分のもののように感じるシンパシーではない。たけのこの人生と自分の人生は別物とし受け止めた上で、そこに浮かび上がる普遍的な共通点を自覚させられる。
それは『かぐや姫の物語』の水彩画を模した映像スタイルだからこそ、強調されたことでもある。
たとえば植物図鑑では、写真ではなく、絵を使うものも多い。
写真だとものによっては撮影条件が厳しく、見えにくい写真になってしまいがちである、といった物理的な問題から、絵をセレクトする場合もあるだろう。
だが、絵にはそれだけにとどまらないメリットがあるように思う。写真はあくまでも撮影されたその植物を指し示している。そこには個体差もまた記録されている。写真は決して、その「種」という抽象的な事象を写真に収めることはできないのだ。
だが、絵は違う。絵であれば、その個体の平均的な姿、「一般的概念」としてのその種を記すことができる。しかも、図鑑のページを飾るその「一般的概念」は、単なる概念に止まらず、同時に、存在感ある個体でもありつづけている。絵で表現された図像には、そのような二面性が裏表となってぴったりくっつき合っている。
アニメーション映画の場合もまた図鑑と同様だ。
役者の肉体や実景(セットであってもそれは物質的に存在している)に縛られる実写映画と異なり、アニメーションは「迫真性を持って表現された存在感ある個体」と「その個体を通じて表現される一般的概念」を同時に表象することができる。
たけのこの物語がたけのこ固有のものであると同時に、多くの人のものでもあるというのは、この「個体」と「一般的概念」の二重性と同じ意味だ。
では、どんなアニメも絵である以上、自動的に「個体」と「一般的概念」の二重性のトリコになるかといえばそうではない。
日本の商業アニメーションは、作り手のバックボーンや取り上げられから「迫真性の獲得」を目標として進化してきた。「迫真性」とはつまり、「(非現実な題材であっても)あたかも本物のように見えるように画面を作る」ということである。
そこで重要なのが、キャラクターの存在感だ。キャラクターが存在感を持ち、その内面が想像できるのであれば、ドラマに説得力が生まれる。
では、キャラクターに存在感を与えるにはどうすればいいか。それはキャラクターが行動する舞台をしっかりと作り上げることだ。かくして日本のアニメは、「ちゃんとデザインされた小道具・大道具により、世界観を構築する」「正確なパースを前提にした画面構成による空間感の獲得」といった技術を磨き上げた。これは高畑監督と宮崎駿(場面設定と画面構成を担当)による『アルプスの少女ハイジ』で示された方法論が、アップトゥデートされ現在のアニメを形作っているということでもある。
かくしてここ20年の間に、「カメラで切り取ったような空間」に「マンガ的記号を継承しつつ、立体感のあるキャラクター」の登場するアニメが(その精度については千差万別にせよ)当たり前に作られるようになった。このスタイルは、いわば「映画的迫真性」を獲得しようとした結果の産物といえる。
だが『となりの山田くん』で導入され、『かぐや姫の物語』でも追求されているスタイルは、「映画的迫真性」ではない。この2作を貫くのは、先述のアニメの歴史の延長線上にない「絵画的迫真性」の美意識である。
高畑は、『山田くん』公開直後、プロダクションI.Gで行ったレクチャーで「アルカイズム、クラシシズム、マニエリスム、バロック」という美術の様式の変転をあげ、アニメーションもそのように歩んできているのではないか、と問題を提起している。つまり「映画的迫真性」を軸に進化してきた表現は爛熟しており、その先を考えるのではなく、根源へと帰るところに表現様式の未来があるのではないか、ということだ。その場合、高畑はアニメーションの歴史へと遡るのではなく、さらのそれよりも先行してあった「生き生きとした線による表現」が見られる絵巻物や鳥獣戯画などを参照したのである。
高畑監督はもとから根源的な問いかけをもって作品に望むタイプの監督だ。商業アニメーションの様式を疑い、更新しようとする試みは『山田くん』以前にもあった。
たとえば『火垂るの墓』の時点で、高畑は「新しい様式のアニメでやろうかと思ったが、時間がないため通常のセルアニメでやることになった」という趣旨のコメントを残している。この時に、どういう様式が考えられていたかはわからないが、高畑の中ではこのころからセルアニメという様式を問い直す思考があったのは確かなようだ。
あるいは『おもひでぽろぽろ』。27歳のOLである主人公のタエ子は、頬の筋肉を描く(結果的にほうれい線を描くことになる)ことに挑戦している。これもここが目標点ではなく、日本人の顔の立体感を表現する新しいキャラクターデザインに取り組む」という難題からスタートし、紆余曲折の結果として現時点でできる挑戦として「頬の筋肉を描く」に止まったという経緯の産物だ。
こうした新しい表現への挑戦の一方で、高畑監督がキャラクターに求めている、一貫した要素がある。
それは「感じがでている」というものだ。
高畑勲は、『赤毛のアン』『火垂るの墓』などで組んだアニメーター近藤喜文について「絵のうまい人ならいる。だけどそれを立体的に動かし“感じ”といえるものを出せる人はいなかった」と褒め称えている。
『となりの山田くん』『かぐや姫の物語』と連続して、演出などを務めているアニメーターの田辺修もまた、近藤とは違う世界でありながら、「感じが出ている絵」を描ける人物である。
田辺の「感じ」のつかまえ方は、『ギブリーズepisode2』のエピローグや、『どれどれの唄』PVなどの仕事を見るとよくわかる。『ギブリーズepisode2』のエピローグに登場するモブキャラクター、あるいは『どれどれの唄』PVに登場する擬人化されたムシなどは、かなり奇妙きてれつな顔をしていたりするのだが、それでもなおかつ人間くさいのである。こういう田辺のおもしろさは『かぐや姫』では、女童子のデザインなどによく現われている。
近藤や田辺が描き出すmこの「感じ」というのはおそらく二つにわけられる。一つは「どこかに実在していそうな人間」という「感じ」と、「そのキャラクターらしい個性が描かれている」という「感じ」だ。もちろんこの2種類の「感じ」は、さきほどいった「一般的概念」と「個体」と同じく、裏表の関係にある。
ところが、先述の「映画的迫真性」を求める画面作りの中では、そのキャラクターがその空間にはっきりと存在することを主張しないといけないので、「そのキャラクターらしい個性が描かれている」ことが重視される。いわゆる“キャラクターが立っている”状態で、この「個体」に重心がかかえればかかるほど、「一般的概念」のほうの“感じ”にはスポットがあたらなくなる。
しかし「絵画的迫真性」へと舵をきるとどうなるか。ここでは、絵であることが前面に出るので、小道具や大道具デティール感もそれほどではないし、空間感も「カメラで切り取ったような」精密さとは異なる。その時に、迫真性を支えるのは、キャラクターや背景を形作っている輪郭線の存在感になる。
輪郭線が、観客の中にある人間や風景のイメージを掘り起こし、新鮮なものとして画面に定着された時、観客はそこに「人間/風景ってたしかにこうだよな」と思い「感じが出ているなぁ」と実感する。頼るものが輪郭線の存在感に絞られた結果、「一般的概念」の「感じ」のほうがずっと前面に出ることになる。
『かぐや姫の物語』で、たけのこの個人の物語であると同時に、普遍的な人生を感じさせる物語でもあるという二重性は、こうした「絵画的迫真性」の産物でもあるのだ。だからこそ『かぐや姫の物語』は、単なるかぐや姫の罪と罰の物語としてでなく、普遍的な人生についての物語として観客に迫ってくることになる。
では、「遍的な人生についての物語」として『かぐや姫の物語』は何を語っているのか。
それは「人生は気がつくと失われているものばかりで、不自由なものである。だが、それでも人生は空しいものではない」というものだ。そして「失われている大切なもの」としての象徴として「ふるさと」が設定されているのだ。
作中で、たけのこは「月の世界にありながら、人間味あふれる地上の世界に憧れたこと」が罪であると語られていた。確かに、たけのこはふるさとで、憧れていた人間味あふれる時間を過ごした。
そして罰とは「その地上の世界に落とされるということ」だという。どうして地上に落とされることが罰になるかといえば、ふるさとの人間らしい時間を奪われ、都市の中で不自由にも抑圧されて生きることを強いられるからだ。
しかし、人生は不自由ではあっても、空しくはない。それを前半のふるさとのシーン以外に現しているのが、中盤以降に出てくるふるさとへ帰るシーンだ。ふるさとへ帰るシーンは二つある。
一つは、「かぐや姫」のお披露目の宴会が三日三晩開かれた最後の夜。自然な自分であることを守りたいたけのこは、十二単を脱ぎ捨てて、ふるさとへと猛烈な勢いで走って行く。ふるさとについたたけのこは、そこが既に自分の知っているふるさとではなくなっていることを知る。
もう一つは、月の迎えが来る前。そこでたけのこは、幼なじみである捨丸と再会する。既に妻帯し子供もいる捨丸だが、すべてを捨てて逃げようとたけのこに言う。ふたりは、ともに空を飛び、山野を巡る。
この二つのシーンの共通点は、単にたけのこがふるさとに帰っているだけではない。前者は、たけのこが目を覚ますカットで締めくくられ、後者は捨丸が目を覚ますカットで終わっているという点だ。
ともに「夢」というには生々しく(夢というのは往々にして生々しいものではあるが)、それだけに、抑圧された都の生活からの脱走も、幼なじみとの再会も実現しなかったのだ、という事実が重くのしかかる。しかし、この夢を通過することでたけのこも、捨丸も気持ちは大きく変化している。
ここで描かれているのは「人生におけるフィクションの意味」だ。不自由な人生の中で「夢」を見ることには意味がある。フィクションは現実を一切変えないが、自分の心にとっては意味がある。たけのこも捨丸も「夢」を見たからこそ、改めて自分の人生を生きることができるのだ。二度目の夢が、高畑監督的というより、むしろ宮崎監督的とでもいうべき、開放感ある飛行シーンで出来ているというのは象徴的だ。
そして、子供たちが歌う『わらべ唄』は、この「人生は不自由なものだが、決して空しいものではない」という主題を、さらにその外側からくるむものになっている。
『わらべ唄』は、水車のようにめぐる季節と命を歌った歌詞でおり、この不自由な人生が水車をまわすようにぐるぐると繰り返されていることを暗示している。
ここでいう繰り返しは、素朴な輪廻転生論とういうより、『方丈記』が「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と記すのと同じく、瞬間で泡が消えたり生まれたりするような状況を指しての「繰り返し」に近い。
そして、この『わらべ唄』とそっくりの、たけのこが覚えていた月の唄(『天女の唄』)は、わらべ唄のさらに奥にある事象を歌う。天女の唄は、心が呼び返されること(人が人らしく生きられること)を願い、「私の帰りを待つというなら、すぐに帰ってくるでしょう」と締めくくられる。これはつまり、「罰」としてやがて地上に生まれ落ちるであろう赤ん坊の気持ちを歌っているのだ。
たけのこが決して特別な人生を歩んでいたわけではない。たけのこの人生は、普通の人の人生を象徴的に象ったものなのだ。
だから、『わらべ唄』は、これから「巡り」の中で子供が生まれてくるという自然の摂理を歌い、『天女の唄』は、その子供が背負っている「今度は幸せな人生を送れますように」という願いを歌っていることになる。
こうして「ふるさとの喪失」を軸に展開した、「人生の不自由」を描いた物語は、これから生まれ出る命(ラストシーンの月に浮かぶ赤ん坊!)の願いで、人生を肯定して締めくくられることになる。
この人生への深い洞察と、表現様式が一体となっているという点で『かぐや姫の物語』は恐るべき作品である。
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