某雑誌のために書いたコラムですが、長すぎるのと、分量に対して内容が不適切ということで没になりましたので、『かぐや姫の物語』公開記念ということでこちらに置かせていただきますね。
(タイトル)
『かぐや姫の物語』に震撼する理由
(本文)
 9月から早稲田エクステンションセンターというカルチャーセンターで『アニメ史―再入門―』という講座を連続5回行った。この講座は、ヒット作中心に語られがちなアニメの歴史を、「迫真性」の発展という観点で追い直すというコンセプトだったのだが、この講座の最終回で高畑勲監督の最新作『かぐや姫の物語』に触れた。まだ公開前だったが、アニメの歴史という観点からして、触れないわけにはいかない恐るべき作品だったからだ。
 『かぐや姫の物語』のキャラクターは、ラフなタッチの線に水彩画調の塗りという、通常のアニメとはかなり違う様式で描かれている。背景もこれに合せて、余白の多い水彩タッチだ。これは高畑監督が1999年の『ホーホケキョとなりの山田くん』で採用したスタイルの発展形だ。これは単なるセル画から水彩タッチへの変更以上の意味がある。
 アニメの歴史を追いながら説明しよう。
 日本のアニメは、その黎明期である'60年代から「絵であるにもかかわらず“本物”と感じられること=迫真性」を追い求める指向性を持っていた。それはアニメを企画・制作する時の参照先となったのが、先行する実写映画であったり、あるいは実写映画の影響を受けたマンガ作品だったからだ。だが、表現としてはまだ、際だった「迫真性」には至っていなかった。
 胚胎していた「迫真性」が具体的な形を取り始めたのは、1960年代後半。劇画の影響(と技術の発展)を受けて、荒い描線による描写が可能になった時期。この時期に大河ドラマ性、社会的なテーマもアニメに導入される。白土三平作品との同時代性も感じられる高畑の監督デビュー作『太陽の王子ホルスの大冒険』は、この時期(1968年)の作品だ。
 アニメがこの次に「迫真性」に一歩踏込むのは、'70年代半ば。「書き割りではない空間感のある背景」と「デザインされた(本物に取材した)大道具・小道具による世界観の確立」が作品の「迫真性」を大幅に高め、そこに登場するキャラクターの存在感を保証することが確認された。高畑がと宮崎駿監督とタッグを組んだ1974年の『アルプスの少女ハイジ』は、そこに自覚的に取り組んだ初めての作品だった。
 1970年代後半から1980年代は、この1970年代半ばに始まった「デザインされた小道具・大道具による世界観」の精度を上げて「描き込んでいくこと」いくことがトレンドだった。そして1990年代に入ると「書き割りではない空間感のある背景」がアップトゥデートされる。より高い「迫真性」を得るため、カメラで撮影したかのような、より正確なパースで形成された空間感ある画面が主流となったのだ。
 アニメが半世紀強の中で追求してきたこの「迫真性」は、もう少し正確にいうと「実写映画的迫真性」ということができる。
 『かぐや姫の物語』はこの「実写映画的迫真性」の歴史からの“卒業”といえる。なぜなら、。そこで体現されるのは「絵画的迫真性」だからだ。
 画面の情報量が少なく、実写のような空間感もない。にもかかわらず、映画の中に現れるかぐや姫が、翁が、媼が、いとおしく感じられる。こういう人は身近にもいるように思えるというリアリティを持って迫ってくる。それは、素朴な描線が生き生きとその振る舞いを描き出すからだ。その線そのものに、迫真性が宿っている。
 音楽や絵画、あるいは建築などは、ある様式が極まった時、突如先祖返り的な素朴な表現へと立ち返ることで突破口を見つけてきた。『かぐや姫の物語』の「絵画的迫真性」への転換もそう考えられる。
 だが『かぐや姫の物語』が過激なのは、アニメの黎明期である1960年代などへ戻るのではなく、さらに時間を遡って、描線による迫真性の元祖ともいえる平安時代の絵巻物の表現へと至った点にある。つまり『かぐや姫の物語』は、「映画的迫真性」の方向に進まなかった、もう一つのアニメーションの可能性を体現しているのである。
 この本質的な意味でのラジカル(根本的な)姿勢。だから、ジブリ史上最高の美女といわれるかぐや姫の姿を見ると、震撼せざるを得ないのである。 c?ro=1&act=rss&output=no&id=2027980&name
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