akakiTysqe のコメント

以下は上田繭子さんがゲストで来られる13日配信のアニメの門chへの質問でもあります。

去る2016年4月23日・同12月3日、藤津亮太・上田麻由子による幾原邦彦への公開インタビューが行われました。
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/504ecc89-8ceb-5fc5-dfeb-56a8253950f7
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/348243ee-1ee0-ba9b-141a-577daebf06e8
URLにあるように幾原氏が物心付いてから「幾原邦彦」に成るまでの昭和後期~平成初期に様々なジャンルのどのような作品群に接したかについてのお話で、聞かれた方の報告に拠れば実際に様々な作品群が挙げられたようですが、ひとつ挙げられていない作品がある。

「哀しみのベラドンナ」です。

幾原邦彦は学生時代に観たという哀しみのベラドンナを公然とリスペクトしそのエッセンスを自作に取り入れている事が指摘される数少ないアニメ関係者の一人で、幾原を「師」とした庵野秀明・新房昭之・細田守もまたベラドンナの主題や表現に学びあの作品やこの作品を作った事は比較すれば判るでしょう。重要な作品なのでベラドンナだけで纏めてインタビューするのかと思っていましたがどうもそうではないようなので。

藤津亮太は十年前06年アニメの門で私に「ベラドンナの様なアニメラマ三部作は表現としてテレビアニメと変わらないから評価に値しない」と仰いました。テレビまんがと変わらないという評価が未だしも当て嵌まり得る-しかしそれは同時期の「東映長編」もそうではないのか?-「千夜一夜物語」「クレオパトラ」についての評価であるなら未だしも、それら「アニメラマ二部作」と「哀しみのベラドンナ」が映像表現として全く違うことはネットでの映像を見るだけでも容易に判ることなのに、藤津亮太は嘘を付いてベラドンナを否定・否認する。そしておそらくは全く同じ動機で、幾原邦彦公開講義の際に触れられるべき「哀しみのベラドンナ」に意図して触れないよう、工作する。

当該講義を共にされた上田麻由子さんが来られるのでお聞きします。藤津亮太は何故「哀しみのベラドンナ」を嘘をついてまで抹殺しようとするのですか?


さて、藤津亮太氏は去る2015年5月16日にアニメの可能性(1)『安寿と厨子王丸』『空飛ぶゆうれい船』と題した講義をしている。「東映長編」について講義をするのは良いとして、何故、制作年代のの大きく離れた、主題にも表現様式にも比較するべき共通性がある訳ではない、「安寿と厨子王丸」と「空飛ぶゆうれい船」との抱き合わせなのか。

私は「東映長編」と括弧を付けました。「東映長編」とは1998年に東映アニメーションに屋号を改めた東映動画の長編アニメーション映画、という意味では無いからです。東映動画の長編映画のうち
「鉄腕アトムに始まる省セル様式では無く、ディズニー等の諸外国のアニメーション映画と同じフルアニメーション様式で作られた」
とされた作品群を中心に、東映動画という会社が1972年以降それらを弊履の如く捨て去り省セルのテレビまんが様式の劇場版に専念することを決めた際に、その棄てられた作品群とそれらを作ったスタッフを顕彰する為に、アニメーション研究・批評の中心であったアニドウが、その時点で東映を辞めてしまった者も多かったそれらの制作スタッフと共に創出したジャンルが、「東映長編」なのです。

アニメ以前の日本のアニメーション映画は「東映長編」「だけ」では無い。あまり遡るわけにもいかないのでアトム直前の昭和三十年代半ば、『Fan&Fancy Free』同人の渡辺泰、森卓也、おかだえみこ等アニメーションの評者を投書欄から見出した雑誌「映画評論」、そのアンソロジー『映画評論の時代』にも採録された佐藤忠男・野口雄一郎「撮影所研究」は東映動画の回で連載を終え佐藤忠男は編集長を辞めている、将に其処で報告されたのが「安寿と厨子王丸」の様な作品を作らされる事への憤懣だ。安寿と厨子王丸の様な作品を作らないという悔恨共同体の上に、労働運動によって東映動画というスタジオを内から良くするか、東映の外に理想のスタジオを作るかの二つの流れが出来た。カムイと正助。「アニメーション」というカタカナ語を日本語に導入したアニメーション三人の会と併せ、東映動画労働組合と虫プロダクション、この三つが会社としての東映動画という中心に対する周縁として、日本の動画の世界を活性化したのです。

そう、大映製作の「九尾の狐と飛丸」もそうですが、虫プロのアニメーション映画は東映長編からの分岐なのです。
「安寿と厨子王丸」「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」を分岐点とし、
「わんぱく王子の大蛇退治」と「ある街角の物語」、
「わんわん忠臣蔵」「少年ジャックと魔法使い」など太陽の王子の裏で作られた作品群とアニメラマ二部作、
そして「太陽の王子ホルスの大冒険」「空飛ぶゆうれい船」と「やさしいライオン」「哀しみのベラドンナ」、
最後に「長靴をはいた猫」と虫プロ倒産後にサンリオが製作した「ジャックと豆の木」、
見事に対応しています。
そして虫プロが起死回生の為始めた省セルの鉄腕アトムが東映動画が中心という図式自体を覆してしまい、テレビまんがをブローアップするまんがまつり興行の成功で「東映長編」はテレビまんがの劇場版に取って代わられる。取って代わられた、アニメ以前のアニメーション映画の掉尾を飾るのが「どうぶつ宝島」と「哀しみのベラドンナ」であり、取って代わった、「東映長編」では「B作」と呼ばれるテレビまんが様式の中編を移行期とし専らテレビまんがの劇場版として作られた最初の「アニメ映画」が、「マジンガーZ対デビルマン」と「パンダコパンダ」です。アニメ以前のアニメーション映画はそれ以降もサンリオ製作の幾つかの作品や東映動画「龍の子太郎」など散発的に作られますが、アニメブームで思春期以上の観客を得た「アニメ映画」の主流化で、消滅します。その「アニメ」とは、1977年夏の宇宙戦艦ヤマト劇場版公開に際し同作がそれまでの漫画映画やテレビまんがと異なった若者向けの映像表現である事を表すキャッチフレーズとして、新聞など字数制限の厳しいメディアに於ける略語であった「アニメ」を現在の意味で使う様になった呼称です。渡辺泰山口且訓『日本アニメーション映画史』資料編の末尾が公開予定と記された劇場版「宇宙戦艦ヤマト」で、この本が執筆されている時にアニメは現れておらず、世の表面に現れているのはテレビまんがと漫画映画で、当書刊行と同じ時にアニメは現れた。勿論それらテレビまんが・漫画映画に「アニメ」に至る諸要素は現れており、それらが77年夏にそう名付けられたのですが、我々はその後から、遡っているのです。

「アニメ」が成立して40年目の現在から見たら、いや当時から、「東映長編」も虫プロの映画も纏めて「アニメ以前のアニメーション映画」です。藤津亮太は何故「東映長編」だけが特権的に学ばれるべきものだとし、ベラドンナ始め虫プロのアニメーション映画をそれについて触れることすらしてはならないものとして扱うのか。アニメラマ二部作ですら東映長編の出来の悪いのよりは良いし、年を経て観たからかもしれませんが私は「長靴をはいた猫」より「千夜一夜物語」の方が好きだ。そして「哀しみのベラドンナ」は、内と外に分かれた時の約束を果たす為に「太陽の王子ホルスの大冒険」に真っ向から応答した、太陽の王子と共に日本の長編アニメーション映画の「68年」たりうるただ二つの映画、即ちホルスと比較しうる傑作なのです。

FILM1/24 No.8で大塚康生は、若い人達が口々に「安寿と厨子王丸」を素晴らしい作品だと賞賛しているのがとても悔しい、スタッフの誰一人として誇りを持たずに作った作品なのに。公開当時赤旗が美しい日本絵巻だと賞賛したのと同じ位悔しい、と語っています。その大塚『作画汗まみれ』に採録されたスタッフ達の批評文集を始め『映画評論の時代』に採録された「撮影所研究」や森卓也のコメントなどにあるように、安寿と厨子王丸は非創造なリアリズム様式に基づいて凡そ最低の主題を描いた作品です。「海の神兵」「FUTURE WAR 198X年」などよりも安寿と厨子王丸の方がその主題に於いてずっとひどく、その「すぐれた表現」故にずっと悪質なのです。一方「空飛ぶゆうれい船」ですが、「鉄腕アトムに始まる省セル様式では無く、ディズニー等の諸外国のアニメーション映画と同じフルアニメーション様式で作られた」が東映長編の定義であるなら、「空飛ぶゆうれい船」は東映長編では無い筈です。事実「B作」という区分の始めとなった「サイボーグ009」「同怪獣戦争」などが東映長編として扱われることはあまり無い。抑「A作」ですら全2コマ作画は安寿と厨子王丸迄でわんぱく王子辺りからどんどん3コマが入り太陽の王子では止め絵を命じられ。アニドウによる「東映長編」という区分による顕彰には「森康二系列」「太陽の王子スタッフ」という基準もあり、ゆうれい船はそれによりB作にも拘らず「東映長編」とされたのです。

藤津亮太が、主題でも表現様式でも有意な対称点の無い「ゆうれい船」を安寿と厨子王丸と抱き合わせたのは、ゆうれい船がホルスに引き続きはっきりとした社会批判を盛り込んでいる作品であり、抱き合わせることで安寿と厨子王丸の主題と表現との関係を誤魔化せるからです。その主題をその「すぐれた」リアリズム表現で素晴らしいものだと正当化している「安寿と厨子王丸」を、その主題の酷さにも、当時の人達の言葉にも、見て見ぬふりをして表現「だけ」を「現在の目から見て」素晴らしいと賞賛する事が正しいとする事で、藤津は「安寿と厨子王丸」の主題、即ち「國體」の顕彰、即ち権威主義・事大主義が、正しいものだと、見せかけようとしている。そして藤津はホルスゆうれい船以上にはっきりとした政治批判をする「哀しみのベラドンナ」を存在自体無きものにしようとしている。

1月22日、広島市映像文化ライブラリーで「安寿と厨子王丸」が上映されます。どのような状態で上映されるか私は知らない(去年シネ・ヌーヴォで観た「龍の子太郎」は見事に退色してた)し、現時点で私自身は同日開かれる文学フリマ京都に赴く予定ですが、観る事の出来る方は後学の為に。

そして藤津亮太様の2月18日の朝カル新宿「アニメとリアル 「リアル」とは何か編」に参加させて頂く所存です。若し質疑する際にはお題に沿って切り口は変えます。

No.2 96ヶ月前

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