からの転載です。
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https://ameblo.jp/amanomotoyasu/entry-12389584453.html
欧米の「操作される民主主義」を作り上げてきた中心勢力フリーメーソン。
そのフリーメーソンの民主主義の密教の基礎にあるといわれるのが18世紀のドイツの哲学者カントの倫理学である。
現在の民主社会の病んだ構造を理解するには、その原理をモデル化しなくてはならない。
そこから、現在の民主主義が患っている病の有効な解決策が導き出されるはずだ。
前回はフリーメーソン最上層部・国際銀行権力が、民主主義で最高価値に掲げられ
ている「人格の定義」を無意識化させることによって
「個人の尊厳」の概念を価値相対主義に陥らせ、民主主義の各諸権利
(自由、平等、友愛、真理)を分裂させる方法をお伝えした。
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<リンク>その13 操作される民主主義 フリーメーソンとカント倫理学 平等の暴走としての価値相対主義の弊害
今回はフリーメーソン最上層部・国際銀行権力の恐るべき洗脳システムである
民主主義を、健全に変革していくための改善策についてお伝えする。
資本主義経済から信用創造の影響という根本原理が無意識化されてきたように、
民主主義政治からもカントの述べた「人格」という根本原理が無意識化されてきた。
そこで現在の民主主義の根本原理であるヒューマニズム(人間の尊厳)に基づいた
人格の保障(個人の尊厳)がどのように創られているのかを整理してみた。
まず、下の図のような憲法の全体像がある。
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まず、日本国憲法の全体像として、人間は存在そのものが尊い、というヒューマニズム
としての「人間の尊厳」が価値観の根本規範にある。
理性をもたない脳死状態や極度の痴呆の人でも、極悪犯罪者でも、人間としての
最低限の権利は保障されている。
その尊厳ある人間の中で最も価値あるものとして定義されているのがカントの
述べた理性的存在者としての「人格」である。
この最高価値である人格を保障するために「個人の尊厳の実現」が民主主義の
目的として掲げられている。
国家が個人に干渉してはならないという「自由主義」も、国民が政治権力を選ぶ
「民主政治」も、この個人の尊厳の実現という目的を達成するための「手段」である
として憲法学では位置づけられている。
最高価値に掲げられている「人格」は、理性に基づいて行動する主体をさす。
カント倫理学にとって「理性」とは、人類にとって普遍的な道徳法則を作りだす能力の事だ。
個人の尊厳にもとづく民主主義が人類の普遍的な価値観となったのは、万人の人格的権利を認めるからだ。
人格的権利の拡大の要求は、人類という種族にとって先天的なものであり普遍的なものである。
その普遍妥当な民主主義の道徳法則がどのように創られ、「人間の尊厳」と
「個人の尊厳」によって形成されていることを図解にして説明する。
まず、道徳法則とは、人類にとって誰しもが従うべき普遍的な道徳のことである。
つまり人類共通の義務となるべき善(社会的な規範に是とされる行為など)である。
その道徳法則という善は幸福との関係で導き出される。
普遍的な善は、必ず人類の幸福の概念を内包している。
なぜなら、人類の幸福(自分の幸福ではない)を無視した善は
・価値がない
・普遍性を持たない
以上の二つの点から道徳法則にならないためだ。
つまり普遍的な善は幸福という概念によって規制されている。
一方で、快楽殺人犯のような普遍的な善を侵害する幸福の追求は規制されなければならない。
以上の事から普遍的な道徳法則は、下の図のように善と幸福の融合の中で導き出される。
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それでは、現在の世界で普遍的な価値となっている民主主義はどのような
道徳法則で作られているのか。
まず、上記の憲法の全体像でみたように、人間という存在そのものに価値があるという「人間の尊厳」が価値の根本にある。
人間が幸福になるためには社会から自らの尊厳が認められている事が第一の前提条件である。
そのことについて、思想家である伊藤豪氏が名著『大和思想』で以下のように記載している。
本の購入はこちら→http://kyozon.jp/hanbai.html
(大和思想 伊東豪著 より転載)
P54~P55
人間が「幸福」になるためには、必要不可欠な「要素」が一つあります。それは「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされているということ)』によって得られる『精神的充足、安定』です。
この「『自分の尊厳が保たれていること』によって得られる『精神的充足、安定』こそが、人間が「幸福」になる上で必要不可欠な「要素」なのです。
P66
人間は、この「精神的充足、安定」を得ている状況を基に、さらに物質的に豊かになり、「地位」や「名声」を得、自分が望んでいることを実現させることにより、より大きな「幸福」を感じることができるのです。
逆に、この「精神的充足、安定」を得ていなければ、どれだけ物質的に豊かになり、「地位」や「名声」を得、自分が望んでいることを実現させても、本心から「幸福」を感じることはできないのです。
(転載終了)
このように人間心理の基本として、自らが尊厳あるものとして認められることが、
社会において幸福になる精神面から見た場合の普遍的な条件である。
そのために、人間を特別視する「人間の尊厳」という概念は、キリスト教、イスラム教、
仏教、ヒンドゥー教、儒教、多神教など宗教の違いはあれど世界中の文明に普遍的
にみられるものだ。
しかし、人間存在そのものに価値を見いだす善だけでは、民主主義の諸権利は作りだせない。
なぜなら、封建制や君主制、神権性などを否定する善ではないためだ。
人間は価値がある存在だが、その人間の中に更に価値が高いものと低いものが
存在するとし、それを血統や宗教によって身分制度を肯定してきたのが封建制や君主制であった。
存在価値だけをのべるだけでは、善の内容が不明確であり、幸福との融合の
領域が曖昧なのである。
そのため、「人間の尊厳」だけでは、万人に同等の権利を保障する民主主義の
道徳法則にはなりえない。
下の図参考
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「人間の尊厳」は民主主義をつくりだすヒューマニズムの第一の原理であるが、
民主主義の諸権利である自由、平等、友愛、真理を作りだすには、もう一つの
概念が必要になる。
それが、「個人の尊厳」である。
尊厳のある人間存在のなかで何が価値のあるものなのかを定義しなければ、
社会的なルール(法律)をつくりだすことはできない。
法律とは、「何々をしてはならない」という規範だからだ。
民主主義では、カントの述べた理性(普遍的な道徳法則を作りだし、実践する能力)
を持つ主体としての人格に最高の価値を与えている。
そして社会を構成する市民は道徳法則の実践を行う人格の持ち主であると仮定している。
この万人が保有している人格を最高価値として、その人格が保障される状況をつくりだすために、
「人は生まれながらに自由で平等である」
という自由、平等、友愛の権利が与えられた。
1948年に発せられた世界人権宣言は、人間に理性と良心が先天的に授けられて
いるために、「人は自由で平等である」と述べている。
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(外務省HPより転載)
世界人権宣言
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
この人格を保障する自由、平等、友愛、真理の権利で構成されている基本的人権を
侵害することは、例え幸福の追求であっても違法行為として罰せられる法体系が
民主主義では作られてきた。
下の図参考
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こうして、人間存在そのものに価値があるという「人間の尊厳」+人格を持った理性
的な主体としての「個人の尊厳」が融合することにより、「人格不可侵の原理」が
作られ、民主主義の道徳法則が形成された。
これにより、善と幸福追求権の領域は以下のように明確になった。
・個人の尊厳の実現(人格の保障)を促進することが民主主義の目的であり善である
・人格(善)を侵害する幸福の追求は許されない
・人格(善)を侵害しない幸福の追求は許される
この民主主義の道徳法則に基づいて善と幸福と法律の全体像を作ると下の図のようになる。
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上記図の中心の円は、個人の尊厳の実現を促進する善の領域である。
ここが無意識化されると、民主主義は価値相対主義に陥り、方向性を失ってしまう。
その外円(赤い点線)は、善を含まないが、善を侵害しない幸福の領域である。
価値観がこの領域に偏ると、「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」という考え
のみが支配的になるミーイズムに陥る。
一番大きな外円(黒い円)のみの領域は、犯罪者や反道徳的行為の領域である。
民主主義を機能させるようにするには、中心の円である善(個人の尊厳の実現)を
促進する領域の影響力を強めるしかない。
そこに自己の幸福を求める個人を多く作りだすことである。
道徳と幸福の関係について人格の定義を作りだしたカントは以下のように考えた。
(悪について 中島義道著 岩波新書より転載)
P68
カントは幸福をそれだけとして直接的に肯定することは、生涯にわたってなかった。幸福を肯定するのは、あくまでも、幸福が道徳的善さの実現を促進するからである。幸福を直接的に(道徳的善さの実現と切り離して)それ自体として求めると、自己愛が全面に押し出されて、われわれは道徳的善さに背く行為を実現してしまうのだ。
P70
道徳的善さを実現するという条件のもとに幸福を追求するということこそ「幸福を受けるに値する」という概念の具体化にほかならない。
(転載終了)
上記の道徳的善さとは道徳法則のことであるが、これは他者の幸福の促進と
不幸の除去をもたらす普遍的な善のことだ。
「自己の幸福」は道徳法則の中には含まれていない。
他者を幸福にするための道徳法則の実践の中に「自らの幸福を求めよ」ということである。
道徳法則と自己の幸福の融合をカントは「最高善」と呼び、最高善の実践を行う
人々の理想的な共同体を「目的の国」とよんだ。
人格主義から導き出される民主主義が目指す方向性は、最高善の実践をする人々
を多く作り、「目的の国」を形成することである。
以上の事から、民主主義の道徳法則(他者の幸福を促進する善)の方向性とともに、
「自己の幸福の方向性」も明白なものとなった。
道徳法則の実践の中に自己の幸福を求めることで、個人主義が陥りやすい
利己主義や価値相対主義への変質を防ぐことができる。
民主主義における善と幸福の関係を意識化することが、実現すべき他者の幸福の
方向性と、自己の幸福の方向性を定める。
お金の力で民主主義を操作してきたフリーメーソン最上層部・国際銀行権力の
支配を健全な形で克服するカギは、この民主主義の原理の意識化にあるのだ。
(次回に続く)
(記事終了)
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