天野統康のブロマガ「マネーと政治経済の原理からニュースを読む」

現代思想を研究されている鈴木規夫博士から、拙著『洗脳政治学原論』の重厚な書評をいただく

2016/06/27 07:30 投稿

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(本文)

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インテグラル・シンキング ――統合的思考のためのフレームワーク
 (鈴木博士の著作)




米国の現代思想家であるケン・ウィルバーなどの
現代思想を研究している鈴木規夫博士(インテグラルジャパン㈱代表)
から拙著「世界を騙し続けた洗脳政治学原論」
の書評をいただいた。

鈴木博士には詐欺経済学原論の書評もいただいている。

<リンク>米国の現代思想を研究するインテグラルジャパン(株)代表の鈴木規夫氏から重厚な書評をいただく


4月に発売した詐欺経済学原論と違い、
5月に発馬した洗脳政治学原論は政治と思想が
中心になっている。

心理学や思想を専門にされている鈴木博士の
書評は、本書で述べた思想的・心理的観点を
鋭く分析され、独自の観点から解説していただいている。

ここまでくれば、現代社会の問題を徹底的に分析した
一つの大論文である。

私の本よりもわかりやすいかもしれない・・・

洗脳政治学原論を読んだ人も含めて、是非ご一読ください。


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(Norio Suzuki blogより以下転載)

著書紹介:天野 統康(著)『洗脳 政治学原論』


 

今日、いわゆる「統合的」「包括的」な思考をしようとするときに、われわれが注意すべき
ことは、単に――「左派」と「右派」や「保守」と「革新」等の――対立する立場の中に息づ
く真実を考慮・尊重しようとするだけでなく、それらの立場が共に排除している事実を
見極めようとすることである。

それぞれの立場は、特定の価値観や世界観に立脚して発想し独自の意見を呈示することで、
社会の中でひとつの言論勢力としてみずからの場所を確立しているわけだが、共同体として
のみずからの統一性を維持するために半ば不可避的にその共同体の中では言及しない
話題や採用しない視点というものが生みだされ、関係者の意識を呪縛するようになる。

その意味では、それぞれの立場は、ある特定の価値観や世界観に立脚することをとおして、
ある特定の真実を照らしだすものであると同時に、正にそのことをとおして、ある特定の
真実を排除・隠蔽するものでもあるのだ。

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)の提唱するインテグラル理論においては、
世界に存在する限定的な視点を総合することをとおして、われわれはより統合的な
理解に到達することができるといわれる。

しかし、実際には、事はそれほど簡単ではなく、われわれは、みずからが統合しようとしている
立場のいずれもが排除している真実が存在する可能性を留意しなければならないのである。

また、そのようにすべての立場により排除されている真実があるとすれば、その背景には、
いかなる意図や構造が存在するのかということに思いを巡らせなければならない。

統合的な意識(Vision Logic)とは、単に多様な視点を考慮することができるだけでなく、
それらの視点がいかなるものを背景として存在しているのかを――即ち、いかなる条件
のもとに、それぞれの視点や立場が社会の中で構成され、また、存在することを許容され
ているのかを――探求するのである。

そして、真の統合的な理解とは、断片的な視点や立場を足し合わせることをとおして
実現されるのではなく、それらの断片的な視点や立場の「背景」や「深層」に存在する
ダイナミクスを洞察することをとおして達成されるのである。

たとえば、TV等で放映される討論番組には、対立する多様な主張者が登場するが、
しかし、視野を少しひろげてみれば、そうしたところには絶対に招待されない視点や
立場の主張者が社会には存在することに気づかされる。

表面的にはひろい範囲の視点や立場が網羅的に招待されているようにみえるが、
そこには確実に「タブー」が存在しているのであり、そうした視点を持ち込もうとする
視点や立場は排除されるのである。

われわれに求められるのは、表面的に取繕われている公平性の幕を剥ぎとり、その向こう
に存在する真実をも包含した全体像の理解を達成することなのである。

 

こうした統合的な思考をするための指南書のひとつとして、先日、経済評論家の天野 統康氏
が発表した『
洗脳 政治学原論』を紹介したい。

本書は、4月に発表された『詐欺 経済学原論』の続編にあたるものであるが、前著で展開
した貨幣発行権に関する議論を踏まえて、今日の先進国において政治・経済・外交等の
社会的な課題・問題に関して展開している議論がどのように「誘導」されているかということ
について秀逸な分析をしている。

内容は、経済学だけでなく、社会学・政治学・思想哲学をはじめとして非常に多岐にわたり、
著者がこれまでに吸収してきた知識を総動員してまとめあげたひとつの集大成といえるもの
である。

前著の主題が、「貨幣発行権」という権力の存在を照明し、それが具体的にどのような制度
をとおして保護・行使されているのかを詳細に説明することにあったとすれば、今回の著書
の主題は、そうした権力の行使とさらなる肥大化・巨大化を推進するために、いかなる大衆
操作法が駆使されているかということについて大胆に語ることにあるといえるだろう。

換言すれば、どのような大衆意識の操作を通じて、人々の意識がこの巨大な利権の存在
から逸らされ、また、この利権に関する認識が集合規模で欠如しているために、人々の
現実認識がいかに倒錯したものに歪められているかということを新著は語っているのである。

 

今日の「民主主義社会」において、社会の統治をする際にとりわけ重要となるのは、たとえば
中華人民共和国のようにあからさまな情報統制をするのではなく、基本的には、必要なすべ
ての情報が統制入手できるようにされており、それらをみずからの自由意識にもとづいて
解釈したうえで、意思決定しているという確信を人々にあたえることにある。

みずからの自由意思にもとづいて自己の人生を統御しているという感覚を実感したいという
根源的な欲求を侵害することなく――そうした感覚を満喫させながら――同時に人々の
思考や判断を誘導することが肝となるのである。

つまり、あからさまな情報の遮断をとおして人々の認識を制限するのではなく、人々が主体
的に特定の真実を無意識化するように動機づけすることが重要となるのである。

著者によれば、こうした操作を実現するために採用されているのが、本来は統合されたもの
として存在しているべき価値(この著書においては「自由・liberty」「平等・equality」
「友愛・fraternity」)を分断・分裂させ、それぞれを肥大化させることにあるという。

そして、人々にそれらの価値のいずれかに傾倒させることをとおして――その限定的な
真実に排他的に従属させることをとおして――他の価値と恒常的な衝突状態に置くのである。

こうして価値の統合化された状態から疎外された人々はみずからの奉じる断片的な真実に
呪縛されたまま、そのときどきの治世層の思惑にもとづいて流布される「物語」に機械的に
反応するだけの状態に陥れられることになるのである
(そうした物語に賛成するか反対するかは、みずからが傾倒している価値にもとづいて
半ば自動的に決定されることになる)。

たしかに、ひとりひとりは、社会の中で争点とされている案件について主体的に思考をする
のだが、それはあくまでも自己の傾倒している価値と結びついた結論を正当化・合理化する
ために行われることになるのである。

また、そのために意識を向ける情報や知識は、そうした結論を導きだすのに都合のいいもの
だけが恣意的に取捨選択されることになる。

端的に言えば、人間の思考を操作するためには、必ずしも情報を統制する必要はないの
である。必要となるのは、人間の認知活動の方向性を根源的に規定する「価値」の操作を
することなのである(それが可能となれば、治世者は、「みずからは自由意志にもとづいて
思考している」という個人の感覚を損なうことなく、強力に操作することができるのである)。

実際、人類学者のアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)が『死の拒絶』(The Denial of Death)
の中で洞察したように、人間とは価値を希求する生物である。

それは、死にたいする根源的な恐怖を克服しようとする根源的な生存欲求と結びついた
欲求として――肉体的に死という宿命を背負わされた存在であることを認識する生物で
ある人間は、価値という抽象概念の実現に自己の存在を投じることをとおして、自己の
存在の永続性を獲得しようとする――人間の精神的な活動を強烈に呪縛しているのである。

実際、人間は、ときとして、自己の奉じる価値を実現しようとして、完全なる善意のもとに
破壊的な行為をおこなうこともできる(たとえば、ロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)
が述べるように、ナチス・ドイツやオウム真理教等の宗教団体は、崇高な価値を実現しよう
として、完全なる善意のもとに大量殺戮を実施した)。

価値を実現しようとする人間の衝動を支配することができれば、実に効果的にその行動を
誘導することが可能となるのである。

また、そうした誘導をとおして、人間は実に容易に極端な行動に走ってしまうものなのである。

天野氏が指摘するように、「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」という価値は、
本来は相互に牽制しあうことで、社会に価値を提供しえるものであるが、それらがそうした
相互の牽制関係から切り離され絶対化されて信奉されるとき、人間は、往々にして、それに
呪縛され、みずからの行動を暴走させてしまう。

その意味では、真に重要なことは、単に価値の実現に邁進することでなく――ある意味では、
それは本能的な欲求にもとづいた行為であり、誰にでも容易にできることである――拮抗す
る価値の間で自己を揺り動かしながら、ひとりよがりではない形態で価値を実現しようとする
ことである(そのためには、発達心理学において「自己中心性の克服」といわれる人格の発
達や成熟が必要となる)。

 

現代においては、価値にたいする欲求そのものは抑圧されてはいない。

しかし、それを高い公共性をもって実現するために必要とされる「成熟」や「発達」や「叡智」
を涵養することの重要性が強調されることはほとんどない。

結果として、それぞれの価値が非常に幼稚(自己中心的)な思惑や解釈や枠組をとおして
「実現」されることになっている。

また、そうした自己中心的な発想を正当化するための「物語」がひろく流布されているために、
圧倒的に大多数の人々がそれに呪縛されて価値の実現に邁進することになっている。

たとえば、社会の中でおこなわれている政治・経済・外交等に関する様々な議論において、
それぞれの論者は、相補的な関係にある複数の価値観を統合的に考慮して発想するの
ではなく、その中の特定のものに立脚して発想する傾向にある。

そのために、他の価値に立脚して思考する論者と「解決できない」不毛な議論に巻き込まれ
ることになる(「解決」は複数の価値を統合的に考慮したときにのみ生まれる)。

本来であれば、「識者」は相補的な価値の全てを踏まえた統合的な思考を実践して範を
示すべきなのだが、あくまでも限定的な価値に立脚した単純化された議論を展開する者
の発言の方が単純明快であるために、世論誘導のための道具としての価値が高くなる。

結局、そうした偽物だけが珍重され、社会に統合的な議論が生まれる素地が育まれない
のである。

 

人間は、価値を信奉することをとおして、みずからの可能性を実現することができる。

しかし、相補的な関係にある価値を統合するということを忘れて、ある特定の価値を盲信
するとき、われわれはいとも簡単に盲目的・暴力的・破壊的になりえてしまうのである。

 

本書の慧眼は、民主主義を支える重要な価値である「自由・liberty」「平等・equality」
「友愛・fraternity」が、今日、いかに相互に分断され、そうした状況がいかに人々の思考を
視野狭窄したものに病理化しているかということを指摘しているところにあるといえるだろう。

 

相補的な関係にある価値の分断をとおして世論を操作するうえで、効果的な方法の代表的
なものとしては次のものがあげられるだろう。

 

*重大な社会的な案件に関して、ある特定の価値に立脚した「物語」だけを流布させて、
他の価値にもとづいた「物語」を排除する。

例:TPP(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)に関する社会的な議論を
誘導するうえでは、主に「自由・liberty」という価値に立脚した物語が流布され、「平等・equality」
や「友愛・fraternity」に立脚する物語は排除される。
たとえば、「平等・equality」の価値に立脚した物語が排除されることにより、国際的な経済
活動においては、それに有利に参加できる条件を有している関係者とそうでない関係者が
存在しているという事実が過小評価されることになり、結果として、TPPが「勝者」と「敗者」の
格差をさらにひろげる危険性を内包することが無視されることになる。
あるいは、「友愛・fraternity」に立脚した物語が排除されることにより、ISD条項が実質的に
参加国の国としての意思決定権を剥奪するものであることを指摘して、それが食料安全保障
をはじめとする国家の存立基盤を根本的に損なう危険性が無意識化されることになる。
「自由・liberty」という価値に排他的に立脚して、(規制と関税の撤廃をとおして実現される)
無制限の経済競争の中で成長・成功することを称揚する物語は、他の価値が証明する真実
を無意識化するというものであり、その意味では、正に視野狭窄した意識を社会に醸成する
ことになるといえるのである。

 

また、こうした価値の分断にくわえて、人々の視野狭窄を推進するもうひとつの有効な方法
としては、次のものが挙げられる:

 

*価値を実現しようとする人々の希求を比較的に重要ではない課題や問題を解決すること
に向けさせることをとおして、真に重要な課題や問題を意識させない。

例:「平等・equality」という価値にたいする人々の情熱を、男女間の性的な平等を実現する
ための施策を推進するために誘導して、そこに意識を収斂させる。それにより、現代社会を
蝕むより深刻な不平等である貧富の差の問題にたいしては、人々の意識が向かないように
する。
たとえば、合衆国の大統領選挙において、黒人や女性が候補者になると、それだけで、
社会に「平等・equality」の価値が実現されていると錯覚してしまい、そこでその価値を
実現するための衝動が充足されてしまう。結果として、そのようにして登場してくる候補者
達が既存の支配構造に用意されてきていることが無視されてしまう。
あるいは、政治家の金銭問題や失言問題を摘発する報道に触発されて、その人物を辞職に
追い込むことに情熱を傾ければ、たしかに、「たとえ政治的権力者であろうと常識的な倫理
にもとづいて批判・非難されるべきである」という「平等・equality」の価値の実現を求める
情熱は満たされはするだろう。しかし、それにより一時の陶酔状態を満喫することはできても、
そうした情報操作をとおして、巧みに大衆操作をする治世者が特権的に有する権利・権限に
人々の問題意識が向くことはない。
ほんのしばらくまえに報道機関を動員して祭り上げられた政治家が、いかなる思惑によって
、あるとき突然に些細な過失を問われて極悪人に仕立てあげられるのか、また、そうした
大衆心理の操作を可能とする権力が社会の少数の治世者により掌握されているということ
に問題意識をいだくことがないままに終わるのである。

つまり、高邁な価値を実現しようとするのが、人間の基本的な欲求であるとすれば、それを
社会の支配構造にそれほどの影響をあたえない「とるにたらない」問題に投影させて、
そこで陶酔感を味あわせることをとおして、それが真に重大な問題に向くことがないように
するのである。

 

尚、インテグラル理論においては、ドン・ベック(Don Beck)とクリストファー・港湾(Christopher
 Cowan)のスパイラル・ダイナミクス(Spiral Dynamics)を援用して、社会における価値の衝突
はそれぞれの発達段階においては異なる価値が信奉されるからであると説明するが、
それは大きな誤解にもとづいたものだといえるだろう。

少なくとも、この著書の中で挙げられている「自由・liberty」「平等・equality」「友愛・fraternity」
という価値は複数の段階において信奉しえるものである。

むしろ、実態は、それらの価値が、各発達段階の認知構造にもとづいて御都合主義的に
解釈・理解され、個人や集団の正義感(heroism)に火を点け、その行動を盲目的に駆り
立てているというものであろう。

また、治世者は、人間というものが正義感に陶酔することを希求する生物であることを
承知して、報道等をとおして特定の価値に立脚した特定の物語を流布させることで、
大衆を熱狂的状態に陥れる術に習熟している(尚、こうした大衆の性質に関しては、
適菜 収氏が『日本をダメにしたB層の研究』という著書の中で興味深い分析を呈示している)。

 

当然のことながら、こうした状況を超克していくためには、人間(個人として、また、集団として)
の能力を高めていくことが必須となる。

社会を変革していくためには、単に情報の消費者であるだけでなく、みずからが当事者
として貢献ができるようになるための能力を開発して、それを発揮していくことが重要と
なるのである。

その意味では、こうした著書においては、なんらかの実践(praxis)に関する議論が必須となる。

本書には、そうした実践論は掲載されていないが、その替わりに、天野氏は、プラトン(Plato)
の「魂の三分説」を引用して、それらを統合的に涵養することが重要であると説明されている。

魂の三分説においては、人間は「欲望」(the appetites)・「気概」(the spirited parts)・
「理性」(the mind)から構成される存在としているとされる。

「欲望」は、人間の中に存在する生理的な諸欲求のことであるが、それらはときとして互いに
衝突しながらも、人間の自己保存を可能としている(ただし、それに過剰に囚われるとき、
われわれは感覚的な刺激に耽溺する依存状態や退行状態に陥ることになる)。
インテグラル理論の枠組では、自己を維持・保護・充足させようとするAgapeの働きと結び
ついたものとみなすことができるだろう(それが病理化した場合にはThanatosとなる)。

「気概」は、人間の中に存在する自己超越の衝動のことであるが、とりわけそれは自己の
限界を克服したり、自己の課題や問題を解決したりするために修練を積もうとする克己の
衝動として顕在化する。また、自己の尊厳を冒涜する社会的な条件等を変革しようとする
情熱や意志としても顕在化する。
インテグラル理論の枠組では、自己を否定・超越・変革しようとするErosの働きと結びついた
ものといえるだろう(それが病理化した場合にはPhobiaとなる)。

そして、「理性」は、世界を観察・洞察し、諸情報を咀嚼・分析し、そして、それらを素材として
計画や戦略を構想ながら、上記のふたつの衝動を統御・統合していく要素である。いうまで
もなく、インテグラル理論の枠組においては、これは「心の統合中枢」としての自我に相当
するものといえるだろう。

本書において主張されているのは、「これらの三要素を統合的に動員することをとおして、
現代において、人間を脅かしている上記の価値の操作をとおした無意識化の罠を超克
することが可能となる」と要約することができるだろう。

いうまでもなく、これは統合的な人間観に立脚したものであり、個人的にも大いに賛同できる
ものである。

ただ、なぜあらためてあえてプラトンを採りあげる必要があるのかということに関する説明が
ないために、個人的には、この部分の記述が少々必然性を欠いているように思われたのも
事実である。

しかし、同時に、あらためてプラトンの思想にもどることで、今日忘却されがちな「気概」の
概念――とりわけ、それが本質的に社会悪と対峙・対決する能力と密接に関連があると
いうこと――をあらためて人間の成熟の核概念として回復できるという主張は非常に
新鮮である。

今日、個人の能力開発や成熟を支援するための教育的な施策は多方面で検討されている
が、得てして、そこでは社会的な圧政や操作により自己の尊厳が侵害されるときに、それに
たいして憤ることを能力としてとらえる発想が排除されてしまう。

往々にして、人間の成長とは企業等の営利活動に参加できるための機能的な能力が向上
することであると矮小化されてしまい、そうした文脈をこえた視野から人間の成長をとらえよ
うとする発想が等閑にされてしまうのである。

また、たとえそうした視点に立脚して発想していたとしても、ニュー・エイジ的な思想の悪影響
であろうか、「憤り」という感情を否定的なものとしてとらえる昨今の風潮に影響されて、結局、
社会的な改革や変革を志向する問題意識を統合できないで終わることになる。

端的に言えば、今日においては、利益の追求に憑かれた粗暴な成長と集合的な課題や
問題にたいする当事者意識を欠いた去勢された成長が支配的になってしまっているのである。

こうした状況を打開するうえで、気概の概念を復権することは非常に重要な価値を持つこと
は間違いない。

 

批判

 

最後に、この著作において、疑問を抱いたところについて簡単に述べておきたいと思う。

 

ひとつめは本書の主旨と関わるところである。

本書では、天野氏は、現代において真の民主主義の成立を阻害する要因を明らかにし、
それを克服するための方途を呈示するわけだが、そうしたとりくみをとおして実現される
べき最終目標を「誰もが支配されない状態」を実現として定義している(p. 71)。

この言葉を聞いて、それに抵抗を覚える人はいないだろう。

ただ、同時に、これこそがわれわれが共通してめざすべきヴィジョンであり、すべての努力は
その実現のために注がれる向けられるべきであると言われると、漠然とした違和感を覚える
のではないだろうか……。

少なくても、読者はこの定義こそが最も優れたものであるとする主張の根拠を示してほしい
と思うことだろう。

この言葉はいわば本書の主張の基盤となるものであり、それに合意できるかどうかという
ことが、否応なしに読者の本書にたいする態度と評価を決定づけることになる。

その意味では、作品中におけるその登場の仕方が唐突であり、また、それと競合する他
有力なヴィジョンに関する議論が為されないことは、この著書の説得力に大きな少なくない
影響をもたらしているように思う。

端的に言えば、この著者の主張にどれほどの妥当性があるのかどうかということを判断するた
めの材料が提供されないために、読者は、「確かにそのように言えるかもしれないが……」
という漠然とした当惑を感じながら、その後の記述を読み進めることになってしまうのだ。

非常に重要なところであるだけに、ここに関してはもう少し丁寧に議論を進めるべきであったの
ではないかと思うのだが、どうだろう……。

 

もうひとつは、方法論に関するものである。

複数の思想や理論を統合する際には、読者にたいして「統合の方法」を説明して、
そこで紹介されているものが、単に著者が個人的な嗜好で選んでいるわけでは
ないことを示す必要がある。

無数に存在する思想家や理論家の中から、著者がなぜ特定の思想家や理論家を
採用しているのかを説明する必要があるのである。

どのような評価基準にもとづいて評価をして、その思想家や理論家を採用・排除しているのか、
また、他にも同じような主張を展開している思想家や理論家が存在する場合には、
それらの関係者の存在を認識していることを述べたうえで、ある特定の思想家や
理論家で代表させていることを明記する必要があるのだ。

やや学問の点に関する指摘に思えるかもしれないが、ある程度の知的訓練を
受けてきた読者にたいして語りかけようとすると――そして、天野氏が対象としているは、
安易に「陰謀論」に飛びつく人達ではなく、正にそうした人達であろう――こうした手続き上
のことを考慮して論を進めることが必要となる。

本書の場合には、こうした方法論に関する説明が無いために、総じて記述が雑多な思想や
理論の継ぎ接ぎにより構成されている印象をあたえてしまうところがあるのである。

 

このあたりは、改訂版等を出版する際に著者にあらためて検討してほしいところである。

 

 

今日、われわれは多くの知識や技術が、人間の全存在(body・mind・heart・soul・spirit)を
恣意的に操作するための道具として急速に「武器化」(“weaponization”)されている時代に生きている。

そして、社会学者のウルリヒ・ベック(Ulrich Beck)が指摘したように、そうした知識や
技術の進化の意味づけをする権利は、それが人類の集合的な運命に直接的に影響を
あたえられる真に強大なものであるにもかかわらず、少数の専門家に占有されている。

こうした状況を解決していくために求められるのは、人類の集合的な運命にたいして
当事者感覚を持つことができる意識であり、また、そうした責務を果たしていくために
必要となる能力を統合的に鍛錬することである。

今回 紹介した天野 統康氏の著者は、「貨幣発行権」という現代社会の構造を正確に
理解するために必須の要素に関する貴重な示唆をもたらしてくれる価値ある作品である。


(転載終了)

<リンク>Norio Suzuki blog

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