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【第154回 芥川賞 候補作】『家へ』石田 千

2016/01/12 15:59 投稿

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  • 第154回芥川賞
    1 迎春

 降りると、まったく雪がない。正月四日、いっしょに降りたのは四、五人。ここから乗る人はいない。
 改札をくぐると、海ぞいの温泉旅館の迎えがふたり、色あせ、しめったはっぴをストーブであぶっている。ロータリーには、そこのマイクロバスと、タクシーが二台とまっているだけだった。
 湯沢のあたりはけっこう降っていたのに、道すら凍っていなかった。こんな正月は、めずらしい。
 ポケットに手をつっこみ、駅前のラーメン屋に入ろうか迷い、そのまままっすぐ、信号ふたつで橋にぶつかる。
 欄干にとまっていたつがいの鴨が、水辺の群れにまざる。土手ぞいにいくと、ようやく泥まみれの雪を見た。背後からきたバイクの音にふりかえると、山は、上半分かくれていた。つぎの橋までいけば、煙のにおいがしてくるはずだった。
 水ぎわに、ゴム長がかたほう落ちていた。すべりおり、携帯を出して撮る。新年最初の写真が長靴っていうのも。もうかたっぽは、どこへ行ったのか。沈んだか流れたか、はいてた人間はどうしたのか。ななめに土手をあがり、煙突が見えてくると、頭のなかの長靴男は、たちまち空中に吸いこまれていく。
 かたい冷気と、濃淡のある灰色。低くだだっぴろい空は、いつまでも見飽きない。厚い雲にいろんな絵を浮かべていると、きゅうに雲が裂けて光がさす。まっさおな裂けめに、西陽がまざる。子どものころは、天国が見えたといっていた。天国を見たから、明日はついていると喜んだ。
 国道が渡る潮橋のたもとには、釣り船と屋形船が揺れている。そのさきの海は、かなり波が高くなっている。島影はまるで見えず、山背が来そうだった。それでも風呂屋の煙は、いつもどおり、ゆっくりとのぼり、雲に溶けていった。
 路地に入ってもだれにも会わない、これもいつもどおり。雨か雪かで、玄関の正月飾りはどこも濡れている。角をまがったとき、スヌーピーの小屋がない。とうとう死んだか。スヌーピーは、雑種の黒犬だった。ペンキのはがれた赤い屋根。たぶん、うちのじいさんが燃やした。
 コインランドリーのわきを入って、ボイラー室の暗がりに声をかけた。
 ……ただいま。じいちゃん。ただいま。
 はじめは、きこえない。三度めの大声でようやくふりむき、おう来たかと、だんだんに笑う。電車は遅れなかったか。そしてすぐまた背をむけ、小山の薪を放りこみながら、晩飯はどうする、律さんは、きょうは新年会だよ。あいかわらず、三度の飯の心配しかしていない。
 晩飯は、準也のとこに呼ばれてるからいいや。それより、いまなんか食うもんある、朝も昼も食ってないんだ。
 お金なかったのか。仕送りもらってるくせに。アルバイトだってしてるんだろう。芸術家ぶったこといっても、情けないもんなんだなあ。しばらく真顔になって、小山の半分をくべ終え、罐のふたをしめる。ようやく、まっすぐむかいあった。正月おめでとうと頭をさげた。
 ……かまぼことか漬けものなんかは、冷蔵庫にある。雑煮の汁、まだちょっと鍋にあるから、餅焼いていれれば食えるよ。餅は、パン焼きのわきの空き箱に入ってる。
 ことしも、餅つきしたんだ。
 いや、ことしは買ったんだよ。あと、ちょっともらったりもあったかな。このへんも年寄りが増えたし、だんだんと、そういう大きい行事はやめていこうってことになったみたいだね。
 ……合理化だ。
 煙のしみた、粉っぽい声でいった。じいさんは、すこし肩が前にかしいだものの、ならぶといまも七、八センチは違う。ついに追いつくことはできなかった。
 ……準也のとこは、ことしもやったって。もらいに来いっていってきたから。残った雑煮、ぜんぶ食っちゃうかもしんないよ。腹すきすぎて、気もち悪くなってる。
 ほうか。そしたら、食ったらすこし寝てたらいい。
 じいさんは罐にもどりかけ、長靴のなかに手をつっこみ、ふくらはぎをかく。そのまま、器用に首をねじってこっちをむいた。
 ……準也のとこにいくとき、仏壇に置いてある酒と、冷蔵庫にヒトヨができてるのあるから、もっていっていいよ。みんなで食べてって、あげといて。
 ……でもその酒、うちでもらったんでしょ。イオンで買ってくからいいよ。
 いいよもってけ。酒のみがうまくなるのも、勉強なんだから。あとから風呂いくなら、夜の番台は奥さんだから、ちゃんと正月のあいさつして入りなよ。
 よし。それじゃあね。
 じぶんを励ますようにぽんと手をたたき、熱のこもるほうにもどっていった。

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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