ヌエは、私の父である。いや、あったと言うべきか。
 母は、六十七歳でがんが発見されて、一年で死んだ。発見された時は、もう手術はできず、築地のがんセンターへ通って抗がん剤治療を受けていたが、効かなかった。実家の隣りの町の病院に二ヶ月ほど入院したあと、私の東京のマンションのそばのホスピスに移した。十二月一日に死んだが、それから五年たった十二月六日に、ヌエが死んだ。
 ヌエは、母ががんセンターで治療をするのに、一度もついて行かず、家では母に「死んじまえ」などと暴言を吐くといったことがあって、私も弟も見限り、母がホスピスに入って一月ほどして、見舞いに来たいと言い出したのだが母は拒否した。母と私と妻とで話していて、あれは何ともおかしな人だ、ヌエのようだ、ということで、母も「ヌエ」と言うようになり、母が死んだ後、私と妻の間では「ヌエ」で通っていたのである。



 子供の頃、初めて家を離れて泊まった小学校五年生の林間学校の時、中禅寺湖あたりで、家を離れた寂しさから、ふと、両親は本当の両親ではないのではないかというファミリー・ロマンスの妄想に捉えられて涙ぐんだことがあったが、大学院へ入る頃は、実
は実父は、当時最強の横綱のように言われた千代の富士だったという夢をよく見たもので、それだけヌエが嫌になっていたのである。千代の富士が出てきたのは、父の会社の社長がタニマチで、ヌエが先代九重親方の北の富士と宴席で話していた、と母から聞い
たからだろう。だから、小学生の頃、「尊敬する人」を書きこむ何かの欄に、特に思い当たる人がなく「父」と書いたのを、後で思い返して、どうかしていたんじゃないかと思った。
 母が息を引き取ったのは、ちょうどお昼前のことだった。牧師が来てキリスト教の祈りを捧げて行った。この後、体を清拭した後で、実家のほうへ遺体を戻すというので、私は一階の電話室へ行って遺体搬送車を頼み、五時ころ来てくれと言った。その間に妻
は、マンションへ戻って、喪服などの準備をして戻ってきた。 その間、私は、顔に布を掛けられた母の遺体の脇についていた。私が、人が死ぬ瞬間を見たのはそれが初めてだった。映画やテレビで観るそれがいかに絵空ごとかというのを感じた。それはたちまち、「もの」になる感じだった。私は「もの」の脇にいる、と感じていた。後から来た母の実妹の婦美子叔母は、遺体の顔を撫でさすっていたが、私には、それは抜けがらでしかなく、母はそこにいない、としか感じられなかった。夕方、妻が帰ってくる前に、私は仮眠室で眠ろうとしたが、眠れなかった。
 病室の外のヴェランダへ出て、坐り込んで、煙草を吸いながら、大きな夕陽が沈んでいくのを見つめていたら、涙が流れてきた。よく晴れた冬の日だったから、空がきれいだった。
 妻が戻り、車が来た時には、冬の五時過ぎだからもう暗くなっていた。私と妻が乗り込み、実家へ帰ったのだが、ヌエはとりあえず母の遺体の前にうなだれて座りはしたのだが、それから後おかしくなり、歩けなくなって、何度も膝を突くようにして倒れるも
のだから膝は傷だらけになり、顔が赤いので、冷蔵庫を見たらどうやら多量にワインを呑んだらしく思われた。あとで聞いたら、報せを受けて泣いていたという。
 意識ももうろうとしていたが、その八年くらい前に、老人性てんかんの発作を起こして治療を始め、その後で脳梗塞にもなったので、病気であったのは確かだ。もっともてんかんというのも、あとで医師に聞いたら、それ以前に軽い脳梗塞があって、それが原因だったのだろうということだった。昼間は普通に歩いていたというから、やはり精神的ショックだろうかと思ったが、しまいにはベッドから起き上がれなくなり、失禁してしまった。母の妹の婦美子叔母が、
「あたしやだよこんなのー」
 と言いつつパンツを替えたりしていた。ヌエはワインを呑み過ぎたせいかやたらとトイレに行ったが、そのたびごとにがくんがくん膝をついていて、何だかしまいに完全に体に力が入らなくなったらしく、
「俺は死ぬ、死ぬ」
 と言っているから、私は、それなら死ね、と思っていたのだが、たまたま私しかいない時に、両手を出して、起こしてくれ、という風をする。仕方なく手をとって起こそうとしたのだが、私が冷たい目でじっと見ていると、黙ってしまい、手を離してまた倒れ
こんでしまった。
 母の兄弟と姉がやってきて、遺体と対面していた。しかしヌエがこんな状態なので、
伯父の妻などが、
「藤井さん、大丈夫?」
 などとベッド脇に行って言うのだが、どうやらヌエは、この人は優しくしてくれそうだと思うと甘えるようだった。
 ヌエが病気になってから、通りに面した和室にベッドを入れて、そこで寝たり起きたりの生活をしていたのが、その後、家の中心の居間にベッドが移されており、いま、元ベッドがあった和室が、母の仏間となりつつあった。葬儀社がやってきた。私はヌエに
喪主などやらせたくないと思っていたが、いま葬儀社と相談をしている脇のベッドでうんうん言っているヌエに喪主などできないことは明らかだった。
 翌日はヌエもいくらか前日よりはましになったようだった。始めは翌日すぐお通夜にしたいと言っていたのが、葬儀社や伯父伯叔母の勧めもあって二日後にすることにして、通夜の晩は私は妻と葬儀場に泊まった。葬儀場は、市内の郊外で、私が行ったことのない場所にあった。がらんとしたホールに祭壇があり、奥に食堂があって、その隣に、喪主が泊まるための和室があって、そこへ泊まったのである。私は自我意識の強い人間だから、無我夢中になるといったことはそれまではまずなかったが、この葬儀の三日間は、意識の一部が麻痺したようになって、ただ葬儀屋の指図どおりに動いていた。
 ヌエは三男で、ほかに姉妹が五人いたが、長兄はヌエが六十歳の時に七十歳で死んでおり、ヌエはその葬儀から帰ってきて、
「俺もあと十年かあ」
 などとぼやいていた。


※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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