黄色い街道がどこまでも伸びていた。
その道がどこへ繋がっているのか、私は知らない。サラモウアには繋がっていないのかもしれない。しかしいずれにせよ、我々はその道を歩くしかなかった。
尤も、私はもう歩くことを止めていた。街道沿いの、一本の欅に似た樹木の下に身を預けて、目の前を通り過ぎていく、虚ろな人々を眺めていた。人々は重い荷物でも背負うかのように、身体をやや前屈みにして、足の裏で、黄色い土を擦るようにして、ゆっくりと歩いていた。長い影を引き連れて。その影が、あるとき足首へと縮んでいく。人間のほうが、前方へと倒れているのだ。そして、ドサリ。影と人間が、重なり合う。人間はもう動かない。影だけが、日時計のようにして、人間の周りを動く。
私の腹の上には、小さな鉄の塊があって、私はそれを、両手で強く握り締めていた。あたかもそれが、私の魂であるかのように。そして背嚢のどこかにあるだろう、指の骨のことを思った。アルマイトの弁当箱に入った、人間の、指の骨。私はその指の骨と、指きりげんまんをしたのだ。
やはり私は、あの夜の穴で死ぬべきだったのだろう。鉄片で腹をやられて死ぬべきだったのだろう。それが果たせなかったから、私の運命は、この黄色い街道と結びついてしまったのではないかと、今では思う。
あの穴の中で、私は左の肩口に焼けつく重みを感じていた。その場所に触れてみると、ぬるりと温かいものが掌に伸びた。掌は、赤い泥で汚れていた。繃帯包から三角巾を取り出し、腋の下から肩口へ、幾重にも巻きつけた。結び目の片方を強く噛み、もう片方を右手で持ち、思い切り引く。溜息のような呻き声が、自然と口から洩れた。顔中に、脂汗がふつふつと噴き出す。焼けつく重みは、骨が割れる激しい痛みに変わっていた。その痛みは心臓の拍動に合わせて、遠のいたり近づいたりした。
タコ壺の近くで榴弾がギャンと弾けると、頭上から、赤土やら、小枝やら、乾いた椰子の葉やらが、ぼたぼたと落ちてくる。やはり私は死ぬだろうか、そう思った。死ぬ役割を担っているのだから、やはりここで死ぬだろうか。かつての級友でもある古谷は、その少し前に死んでいた。古谷の死体は、頭の半分を無理やり捥がれた姿で、草地に横たわっていた。叩きつけたような血痕が、数米も草地に伸びていた。私もあのようにして死ぬだろうか。小銃を抱きかかえ、穴の中で蹲っていた。
日暮れを前にして、銃声と砲声は途絶えた。イスラバの山腹は静まり返り、私は逆に死の気配を感じた。音も無く、私が蹲る穴に、死が近づいていると。片手で鉄帽を押さえつつ、穴の縁からそっと顔を出した。
耳元で二発、銃声が轟いた。撃たれたのは、私ではなかった。前方のタコ壺の縁で、田辺分隊長が銃剣を握ったままうつ伏せに倒れていた。軍服の背には赤い染みが広がっている。田辺分隊長に銃口を向けた姿で、一人の濠軍兵が草地に立っていた。濠軍兵は、まだ私に気づいていなかった。私は穴の中で槓杆を握り、穴の中で遊底を動かした。銃口を、穴の外へ出そうとしたとき、銃身が土につかえた。痛みのために、私の左腕は大きく震えていたのだ。情けない金属の音が、穴の外に響く。その物音で、濠軍兵は顔だけをこちらへ向けた。その年若い白人兵はきょとんとして、穴の縁から顔を出す私の姿を、青い瞳で見つめていた。私は引鉄を引いた。銃弾は若者の白い首の根に減(め)り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。死んだ。西日の草地に黒い血が広がっていく。私はそれを見届けると、再び穴の中へと引き返した。
赤道も越えた南島の密林の奥地で、日没を迎えた。一人用の狭く薄暗いタコ壺の中は、次第に自分の掌すら見えない、濃密な闇で浸されていった。しかし少しすると、頭上の椰子の葉の向こうに月が昇った。月の白い光の中に、紅色に染まった肩口の三角巾が見えた。一方で掌の血は凝固しており、黒ずんだ砂鉄の色をしていた。私は月光の下に、生の血の匂いと、砂鉄の匂いを、同時に感じていた。土の壁からは、植物の細長い根が幾つか顔を出していた。穴の底には、大量の薬莢、煙草の吸殻、褐色の椰子の葉、赤土の塊が散乱している。
私は何度かタコ壺から這い出ようと試みたが、失血のためか、身体に力が入らなかった。片腕で、自分の体重を持ち上げることができない。友軍の部隊が私を見つけてくれることを願ったが、私を見つけるのは濠軍兵かもしれなかった。濠軍兵に見つけられた場合、私は穴の中で自決せねばならない。一つだけ残していた手榴弾を、血で汚れた両手に握り締めた。九九式手榴弾は、栓を抜いて信管を打撃すれば四秒で炸裂する。そのときは鉄の塊を腹に抱え込んで、団子虫のように身体を丸め込もうと思った。四秒間、何も考えてはいけない。自分の温かい腹が暗い穴の底で破裂する光景を描いてしまえば、私は一つしかない手榴弾を穴の外へ放り投げてしまうかもしれない。タコ壺は、前日の夜に私自身が掘ったものだった。この穴で死ねば、自分で自分の墓穴を掘ったことになるな、そう思い一人苦笑した。そして腹に手榴弾を抱えたまま、穴の底で浅い眠りについたのだ。
明くる日、陽光に満たされて意識を取り戻した。目の前に、青く濃い、南方の空が広がっていた。ときに人影が、私を覗き込み、人影が消えると、また空が広がる。人々の話し声が、どこか遠くのほうから聞こえた。腹の手榴弾はどこへいっただろう。しかし身体を動かすことができなかった。そしてまた意識を失った。――
それから幾日か後、私はとある野戦病院の寝台に腰掛けて、左の背にできた瘤を撫でていた。繃帯の上からでも、肉の中に、硬い物があると分かる。骨の硬さではなく、鉛の硬さだった。その鉛を処置してもらうために、私は診察の順番を待っていた。私はあの夜の穴で、殺されることも、自決することもなかった。翌朝に友軍の中隊に発見され、穴から引き上げられたのだ。
私は直接その病院に担送されたわけではなかった。最初に担送された場所は、イスラバ近くの椰子林の中にある病院だった。しかしあれは病院と呼べるだろうか、椰子の樹に九五式天幕を張って、土の上に担架を並べてあるだけだった。担架には重症のマラリヤ患者が横たわっており、彼らは皆、土気色の顔で、呻くこともせず、ただ静かに眠っていた。すでに何人かは死んでいるのではないかと思った。薄暗い天幕の下で、軍医は私の傷口にヨーチンを塗りながら、所謂、貫通銃創というやつだね、弾も抜けているようだし、ま、すぐよくなるだろう、と語った。繃帯を巻いた後に、破傷風とガス壊疽を防ぐ注射を打った。どうしてか私には、その腫れぼったい目をした気怠げな男が、軍医に見えなかった。無力のためではないかと思った。補給が滞ってから、キニーネは手に入らなくなっていた。担架に横たわる患者は、治療を受けているわけではなく、ただそこで死を待っていたのだ。
あの椰子林の病院とは違い、担送先の野戦病院には屋根と床と壁があった。横長の病室には、即席で造ったと思われる木製の寝台が、三列になって、奥まで続いていた。窓にはアンペラが吊るしてあり、窓の外にはちょっとしたベランダまで設けてある。海岸から離れた内陸部で、よくこれだけの病舎が建てられたものだと感心した。内地で大工をやっていた兵が何人かいたらしい。入院して少し過ぎると、私は肩の後ろ側に妙な感触を覚え始めた。寝返りを打つ度に、肉の中で冷たい異物がごろりと動く。やがて小さな瘤ができ、それは日に日に膨らんでいった。私の肉が、内側から鉛を押し出そうとしているのだ。つまりあの椰子林の気怠げな男は、鉛を一つ見落としていたことになる。
診察室から軍医が顔を出して、私の名前を呼んだ。私は瘤を撫でるのを止め、寝台から下りた。松葉杖をついた片脚のない兵と入れ替わりで、私は診察室へ入った。
丸椅子に座り、症状を説明すると、軍医は私の背に回った。私の正面には、軍医の使うテーブルが見え、その奥には薬棚が見えた。薬棚には、ヨーチン、ウィルソン軟膏、硝酸ビスマスなどの薬瓶が並んでいた。空になった何本ものキニーネの薬瓶が、診察室の片隅にまとめて放ってあった。椰子の葉の隙間から洩れてくる陽光で、薬瓶の背後には、薬瓶と同じ飴色の影が映っていた。テーブルにはアルマイトの皿が置いてあり、皿の中には手術器具が並んでいる。椰子の木漏れ日の診察室の中で、メスとペアン鉗子だけは、鋭く冷たい刃物の光を放っていた。いつかカーチスの機銃に腿をやられた兵を見た。米軍の機銃は銃弾が小粒なのか、弾の入った場所は意外に傷口が小さい。逆に弾の抜けた場所は肉が飛んでいた。盲管銃創の場合、その狭い傷口をペアン鉗子で抉じ開けて弾を摘み出す必要がある。あの腿をやられた兵は、銃弾を撃ち込まれたときも痛かっただろうが、まだ薄皮も張っていない紅色の皮膚の切れ目に鉗子を入れられ、銃弾を摘出するときも痛かっただろう。軍医は私の背の瘤を見ると、ふむ、と低い声で頷いた。それから顎鬚を撫でた。アルマイトの皿からメスを取り、刃の表と裏をアルコールランプの青い炎で炙った。そして背後から私の肩をぐっと掴んだ。私は背筋を伸ばした。
※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。
【受賞作発表の瞬間を生放送】
その道がどこへ繋がっているのか、私は知らない。サラモウアには繋がっていないのかもしれない。しかしいずれにせよ、我々はその道を歩くしかなかった。
尤も、私はもう歩くことを止めていた。街道沿いの、一本の欅に似た樹木の下に身を預けて、目の前を通り過ぎていく、虚ろな人々を眺めていた。人々は重い荷物でも背負うかのように、身体をやや前屈みにして、足の裏で、黄色い土を擦るようにして、ゆっくりと歩いていた。長い影を引き連れて。その影が、あるとき足首へと縮んでいく。人間のほうが、前方へと倒れているのだ。そして、ドサリ。影と人間が、重なり合う。人間はもう動かない。影だけが、日時計のようにして、人間の周りを動く。
私の腹の上には、小さな鉄の塊があって、私はそれを、両手で強く握り締めていた。あたかもそれが、私の魂であるかのように。そして背嚢のどこかにあるだろう、指の骨のことを思った。アルマイトの弁当箱に入った、人間の、指の骨。私はその指の骨と、指きりげんまんをしたのだ。
やはり私は、あの夜の穴で死ぬべきだったのだろう。鉄片で腹をやられて死ぬべきだったのだろう。それが果たせなかったから、私の運命は、この黄色い街道と結びついてしまったのではないかと、今では思う。
あの穴の中で、私は左の肩口に焼けつく重みを感じていた。その場所に触れてみると、ぬるりと温かいものが掌に伸びた。掌は、赤い泥で汚れていた。繃帯包から三角巾を取り出し、腋の下から肩口へ、幾重にも巻きつけた。結び目の片方を強く噛み、もう片方を右手で持ち、思い切り引く。溜息のような呻き声が、自然と口から洩れた。顔中に、脂汗がふつふつと噴き出す。焼けつく重みは、骨が割れる激しい痛みに変わっていた。その痛みは心臓の拍動に合わせて、遠のいたり近づいたりした。
タコ壺の近くで榴弾がギャンと弾けると、頭上から、赤土やら、小枝やら、乾いた椰子の葉やらが、ぼたぼたと落ちてくる。やはり私は死ぬだろうか、そう思った。死ぬ役割を担っているのだから、やはりここで死ぬだろうか。かつての級友でもある古谷は、その少し前に死んでいた。古谷の死体は、頭の半分を無理やり捥がれた姿で、草地に横たわっていた。叩きつけたような血痕が、数米も草地に伸びていた。私もあのようにして死ぬだろうか。小銃を抱きかかえ、穴の中で蹲っていた。
日暮れを前にして、銃声と砲声は途絶えた。イスラバの山腹は静まり返り、私は逆に死の気配を感じた。音も無く、私が蹲る穴に、死が近づいていると。片手で鉄帽を押さえつつ、穴の縁からそっと顔を出した。
耳元で二発、銃声が轟いた。撃たれたのは、私ではなかった。前方のタコ壺の縁で、田辺分隊長が銃剣を握ったままうつ伏せに倒れていた。軍服の背には赤い染みが広がっている。田辺分隊長に銃口を向けた姿で、一人の濠軍兵が草地に立っていた。濠軍兵は、まだ私に気づいていなかった。私は穴の中で槓杆を握り、穴の中で遊底を動かした。銃口を、穴の外へ出そうとしたとき、銃身が土につかえた。痛みのために、私の左腕は大きく震えていたのだ。情けない金属の音が、穴の外に響く。その物音で、濠軍兵は顔だけをこちらへ向けた。その年若い白人兵はきょとんとして、穴の縁から顔を出す私の姿を、青い瞳で見つめていた。私は引鉄を引いた。銃弾は若者の白い首の根に減(め)り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。死んだ。西日の草地に黒い血が広がっていく。私はそれを見届けると、再び穴の中へと引き返した。
赤道も越えた南島の密林の奥地で、日没を迎えた。一人用の狭く薄暗いタコ壺の中は、次第に自分の掌すら見えない、濃密な闇で浸されていった。しかし少しすると、頭上の椰子の葉の向こうに月が昇った。月の白い光の中に、紅色に染まった肩口の三角巾が見えた。一方で掌の血は凝固しており、黒ずんだ砂鉄の色をしていた。私は月光の下に、生の血の匂いと、砂鉄の匂いを、同時に感じていた。土の壁からは、植物の細長い根が幾つか顔を出していた。穴の底には、大量の薬莢、煙草の吸殻、褐色の椰子の葉、赤土の塊が散乱している。
私は何度かタコ壺から這い出ようと試みたが、失血のためか、身体に力が入らなかった。片腕で、自分の体重を持ち上げることができない。友軍の部隊が私を見つけてくれることを願ったが、私を見つけるのは濠軍兵かもしれなかった。濠軍兵に見つけられた場合、私は穴の中で自決せねばならない。一つだけ残していた手榴弾を、血で汚れた両手に握り締めた。九九式手榴弾は、栓を抜いて信管を打撃すれば四秒で炸裂する。そのときは鉄の塊を腹に抱え込んで、団子虫のように身体を丸め込もうと思った。四秒間、何も考えてはいけない。自分の温かい腹が暗い穴の底で破裂する光景を描いてしまえば、私は一つしかない手榴弾を穴の外へ放り投げてしまうかもしれない。タコ壺は、前日の夜に私自身が掘ったものだった。この穴で死ねば、自分で自分の墓穴を掘ったことになるな、そう思い一人苦笑した。そして腹に手榴弾を抱えたまま、穴の底で浅い眠りについたのだ。
明くる日、陽光に満たされて意識を取り戻した。目の前に、青く濃い、南方の空が広がっていた。ときに人影が、私を覗き込み、人影が消えると、また空が広がる。人々の話し声が、どこか遠くのほうから聞こえた。腹の手榴弾はどこへいっただろう。しかし身体を動かすことができなかった。そしてまた意識を失った。――
それから幾日か後、私はとある野戦病院の寝台に腰掛けて、左の背にできた瘤を撫でていた。繃帯の上からでも、肉の中に、硬い物があると分かる。骨の硬さではなく、鉛の硬さだった。その鉛を処置してもらうために、私は診察の順番を待っていた。私はあの夜の穴で、殺されることも、自決することもなかった。翌朝に友軍の中隊に発見され、穴から引き上げられたのだ。
私は直接その病院に担送されたわけではなかった。最初に担送された場所は、イスラバ近くの椰子林の中にある病院だった。しかしあれは病院と呼べるだろうか、椰子の樹に九五式天幕を張って、土の上に担架を並べてあるだけだった。担架には重症のマラリヤ患者が横たわっており、彼らは皆、土気色の顔で、呻くこともせず、ただ静かに眠っていた。すでに何人かは死んでいるのではないかと思った。薄暗い天幕の下で、軍医は私の傷口にヨーチンを塗りながら、所謂、貫通銃創というやつだね、弾も抜けているようだし、ま、すぐよくなるだろう、と語った。繃帯を巻いた後に、破傷風とガス壊疽を防ぐ注射を打った。どうしてか私には、その腫れぼったい目をした気怠げな男が、軍医に見えなかった。無力のためではないかと思った。補給が滞ってから、キニーネは手に入らなくなっていた。担架に横たわる患者は、治療を受けているわけではなく、ただそこで死を待っていたのだ。
あの椰子林の病院とは違い、担送先の野戦病院には屋根と床と壁があった。横長の病室には、即席で造ったと思われる木製の寝台が、三列になって、奥まで続いていた。窓にはアンペラが吊るしてあり、窓の外にはちょっとしたベランダまで設けてある。海岸から離れた内陸部で、よくこれだけの病舎が建てられたものだと感心した。内地で大工をやっていた兵が何人かいたらしい。入院して少し過ぎると、私は肩の後ろ側に妙な感触を覚え始めた。寝返りを打つ度に、肉の中で冷たい異物がごろりと動く。やがて小さな瘤ができ、それは日に日に膨らんでいった。私の肉が、内側から鉛を押し出そうとしているのだ。つまりあの椰子林の気怠げな男は、鉛を一つ見落としていたことになる。
診察室から軍医が顔を出して、私の名前を呼んだ。私は瘤を撫でるのを止め、寝台から下りた。松葉杖をついた片脚のない兵と入れ替わりで、私は診察室へ入った。
丸椅子に座り、症状を説明すると、軍医は私の背に回った。私の正面には、軍医の使うテーブルが見え、その奥には薬棚が見えた。薬棚には、ヨーチン、ウィルソン軟膏、硝酸ビスマスなどの薬瓶が並んでいた。空になった何本ものキニーネの薬瓶が、診察室の片隅にまとめて放ってあった。椰子の葉の隙間から洩れてくる陽光で、薬瓶の背後には、薬瓶と同じ飴色の影が映っていた。テーブルにはアルマイトの皿が置いてあり、皿の中には手術器具が並んでいる。椰子の木漏れ日の診察室の中で、メスとペアン鉗子だけは、鋭く冷たい刃物の光を放っていた。いつかカーチスの機銃に腿をやられた兵を見た。米軍の機銃は銃弾が小粒なのか、弾の入った場所は意外に傷口が小さい。逆に弾の抜けた場所は肉が飛んでいた。盲管銃創の場合、その狭い傷口をペアン鉗子で抉じ開けて弾を摘み出す必要がある。あの腿をやられた兵は、銃弾を撃ち込まれたときも痛かっただろうが、まだ薄皮も張っていない紅色の皮膚の切れ目に鉗子を入れられ、銃弾を摘出するときも痛かっただろう。軍医は私の背の瘤を見ると、ふむ、と低い声で頷いた。それから顎鬚を撫でた。アルマイトの皿からメスを取り、刃の表と裏をアルコールランプの青い炎で炙った。そして背後から私の肩をぐっと掴んだ。私は背筋を伸ばした。
※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。
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