芥川賞・直木賞発表を楽しもう

【第151回 直木賞 候補作】 『満願』 米澤穂信

2014/07/14 12:00 投稿

  • タグ:
  • 第151回直木賞
夜警

 葬儀の写真が出来たそうです。
 そう言って、新しい部下が茶封筒を机に置いていく。気を遣ってくれたのだろうが、本音を言えば見たくもない。それに、写真に頼らなくても警察葬の様子は記憶に刻み込まれている。あの場の色合いも、匂いも、晩秋の風の冷たさも。
 川藤浩志巡査は勇敢な職務遂行を賞されて二階級特進し、警部補となった。気が合わない男だったが、写真が苦手な点だけは俺と同じだったらしく、祭壇の中央に掲げられた遺影は不恰好なしかめ面だった。弔辞は署長と本部長が読んだが、ろくに話したこともない相手の死を褒めるのはさぞ難しかったことだろう。スピーチで描かれた川藤警部補の輪郭はやりきれないほど実像とずれていて、そんなに立派な警官だったらあんな死に方はしなかったのだと腹を立てているうちに、焼香と献花の順がまわってきた。おかげでまた随分、無愛想の評判をばらまいたらしい。
 遺族は俺のことを知っていたようだ。浅黒く日焼けした男が物問いたげにこちらを見ていることには気づいていたが、茶番の席であいつのことを話すのが嫌な気がして、出棺を見送るとすぐに斎場を出た。警察葬に仕立てたせいで、斎場の中にまでテレビカメラや新聞記者が入り込んでいた。騒がしい葬式にしてしまったことについては、謝ってもよかった。俺が手配したわけではないにしても。
 開けたままのガラス戸から、いつものように車が行き交う国道60号線を見る。しばらく目の前で道路工事をしていたが、それも終わり、普段の景色が戻っている。今日一日だけで幾人がこの道を通るだろう。彼らは、道の傍らに建つこの交番の巡査がひとり死んだことになど気づきもしない。それは当然のことで、二十年も警官をやってきた男がいまさら持つ感慨ではない。だが今日に限って、なぜだかそれが癪に障って仕方がなかった。こんな日は交番が禁煙になったことが無性に恨めしい。デスクの上には地図とファイルと電話が並ぶだけで、ずいぶん前に灰皿はなくなった。そしていまは写真入りの茶封筒が置かれている。
 川藤の死は、おおよそこんな風に報じられた。
 ―十一月五日午後十一時四十九分頃、市内に住む四十代の女性から、夫の田原勝五十一歳が暴れていると一一〇番通報があった。現場に駆けつけた警官三人が説得を試みるも、田原は短刀刃渡り三十センチで警官たちに切りかかったため、川藤浩志巡査二十三歳が拳銃を計五発発砲。胸部と腹部に命中し、田原はその場で死亡した。川藤巡査は切りつけられ病院に搬送されたが、六日午前零時二十九分、死亡が確認された。警察では「適正な拳銃使用だったと考えている」としている。
 世間は最初、このニュースをどう取り扱うか戸惑っているかに見えた。新米巡査が被疑者を制圧できず射殺してしまった不祥事と見るか、勇敢なお巡りさんが自分の命と引き替えに凶悪犯をやっつけたと見るか。時間と共に田原の行状が明らかになり、川藤の人柄が伝えられるにつれ、ニュースの扱いは次第に後者に傾いていった。警察葬での弔辞は嘘に塗れていたが、川藤を擁護するものとしては申し分なかった。防刃ベストの性能不足、初動での事件認識の甘さなど、警察批判の種は尽きない。しかし少なくとも、射殺そのものを批難する声は小さくなっていった。
 川藤警部補どの、か。
 ひどく出来の悪い冗談のように聞こえる。部下がそばにいる。聞こえないよう声を消して、独り言の続きを言う。
 あいつは所詮、警官には向かない男だったよ。
 警察学校を出た川藤の、最初の配属先がこの緑交番だった。
「柳岡巡査部長殿。本日配属になりました、川藤浩志です」
 署の地域課でそう挨拶してきた一言目から、何となく虫が好かなかった。妙に甲高く、なよなよとした声だと思った。初日に緊張するのは誰でも同じだが、あいつのそれは度が過ぎていた。首まわりを見ればそれなりに鍛えてきたのだとはわかるが、それでも弱々しい印象を拭えないのは、たぶん生まれつき体の線が細いからなのだろう。
「交番長でいい」
「はい、交番長」
 上擦った声だった。
 交番勤務は三人一組の三交代制で行われる。八人の部下の誰と誰を組ませるかは課長が決める建前だが、交番長である俺が意見を出せば大体通っていた。
 課長が川藤を俺と組ませようとしたとき、俺は反対しなかった。部下の中には新人を任せられるベテランもいるが、川藤は自分の目の届く範囲に置いておきたかったからだ。その代わりというわけでもないが、三人一組のもう一人には気心の知れた男を付けてもらった。二年後輩の梶井。書類仕事の手が遅く、太りすぎという欠点もあるが、何より人当たりがいい。苦情対応に連れていけば大抵の場合まあまあと丸く収めてしまう、交番勤務として得難い才能を持っている。愛想の悪い俺と新人の川藤と組ませるには、うってつけの男だ。
 川藤の交番初勤務の日。当時の日誌をめくると、午前中に車と自転車の接触事故、昼過ぎに迷惑駐車の苦情、夕方に自転車盗難届が二件、夜になってスナックで喧嘩騒ぎがあったと書いてある。それぞれの報告書と日誌は川藤に書かせた。妙に丸みを帯びた川藤の字に嫌悪を覚えはしたものの、まずまずそつのない書類に仕上がっていた。
「どうですか」
 不安げに言う川藤に、
「いいだろう。初めてにしちゃ上出来だ」
 と言ってやると、見る間に相好が崩れた。素直な男ではあったのだ。
 当直が明けて次の班に引き継ぎを済ませ、署に戻ると翌朝十時を過ぎている。拳銃を保管庫に戻し私服に着替えれば、後は家に帰って寝るだけだ。その前に一服つけようと喫煙室に行くと、梶井が先客で入っていた。
「どうも」
 顎を引くように会釈する梶井に頷いて答え、自分の煙草に火を点ける。最初に吸った煙を、溜め息のように長く吐き出す。
「装備課、ぴりぴりしていたな」
 世間話に、そう話しかける。梶井は苦笑いした。
「無理もないですが」
 拳銃と銃弾を戻しに行った時、扱いは慎重にとひとくさり演説をぶたれた。いまさらな話だが、理由があった。最近都心の方で、駅のトイレに警官が銃を置き忘れる事件が起きていたのだ。何年かに一度はこうしたことがあるが、そのたびに耳にタコができるほど管理徹底を聞かされる。
「かなわねえな。とばっちりだ」
 それで話を終わらせたつもりだったが、見れば梶井は煙草を指の間に挟んだままで吸う気配がない。まだ何か言いたいのだとわかって、水を向ける。
「どうした」
「ああ、いえ。いまの話で思い出したわけでもないんですが」
「言ってみろ」
 梶井は、自分の手元から立ち上る煙を見ながら答えた。
「川藤、ちょっと、厳しいですね」
「そう思うか」
「ええ」
「理由は」
 そうきはしたが、答えはあまり期待していなかった。俺自身、川藤のどこに危なさを感じているのか、言葉では説明出来なかったからだ。しかし梶井は、
「『さゆり』の喧嘩ですが」
 と切り出した。
 スナック「さゆり」から通報があったのは、午後十一時三十一分のことだった。一一〇番通報ではなく、交番に直接電話がかかってきた。客の男二人が口論となり、一方がウイスキーの角を振りまわし始めたという。
 客層が悪い店ではない。国道沿いに建つが駐車場がなく、勢い、近所の住人が歩いて集まる店になっている。とはいえこれまでトラブルがなかったはずもないだろうが、通報を受けたのは初めてのことだった。交番からは五十メートルも離れていない。文字通り駆けつけると、五十代らしき男ふたりが取っ組み合っていた。
 一方が呂律のまわらない声で凄み、もう一方は「ああ ああ」と繰り返すばかり。だが喧嘩慣れしている様子はない。せいぜい、一杯引っかけるつもりが飲み過ぎて箍が外れたといったところだろう。通報にあった角はカーペットに転がっており、見たところどちらにも外傷はない。一目見て、これは事件化しなくて済むだろうと踏んだ。
 梶井が割って入り警察だと名乗ると、二人ともたちまち大人しくなった。完全に分別がなくなるほど酔ってはいなかったようだ。後は俺が通り一遍の説教をして、梶井が宥め役にまわる。次は引っ張るぞと脅してお仕舞いにした。三十分もかからなかっただろう。難しい喧嘩ではなかったが、川藤にまでは目を配っていられなかった。
「どうかしたのか」
「いえね」
 梶井の煙草が灰皿に押しつけられる。吸殻がれそうな、真っ黒に汚れた灰皿。
「あいつ、腰に手をやったんですよ」
 煙を浅く吸い込み、ふっと吐き出す。
「そうか」
「じゃあ、お先に」
 梶井は最後まで、俺と目を合わせようとはしなかった。まともに取り上げれば面倒な話だとわかっていたからだろう。腰に手をやったと言うが、触ったのが警棒だったなら、梶井はわざわざ俺に注進したりはしない。
 あの程度の騒ぎで拳銃に手が伸びるようでは、確かに厳しい。
 煙草が不味かった。

 新人が嫌われるのは、彼らが血気に逸るからだ。血気に逸れば多かれ少なかれ余計な仕事が増える。増えた仕事は仲間を危険に晒すことがある。だから危ない部署ほど新人を嫌う。
 だがそれは時間が解決していくことだ。どんな跳ねっ返りもいずれは警察の水に馴染んで、余計な力が抜けてくる。説諭で済ませていいことと事件にしなくてはまずいことの区別がついてくる。どうしてこんなやつが警官にと思うような顔も、三年もすればそれらしくなってくるものだ。だから古株が新人を扱き下ろすのは年中行事のようなものであり、深い意味はない。
 しかしそれでも、たまにはどうにもならない手合いが入ってくることがある。採用試験で合格し警察学校の訓練にも耐えたはずなのに、時間が経てば経つほど決定的に警官に不向きだと露呈していくようなやつが。
 たとえば、警官として守るべき暗黙の了解、最後の一線がどうしても理解出来ない人間がいる。救いようのない連中と始終付き合っているうち、自分の感覚が麻痺してくるのもある程度はやむを得ない。倫理なんて犬に食わせてしまえと思っているような同僚も多い。俺自身、叩けば埃が出ないわけじゃない。だがそれでも最後の一線というものはある。時にはそれを忘れることもあるだろうし、覚悟の上で踏み越えることもあるだろう。だが、そもそもその一線を感じ取れないというのなら、そんな人間は警官を続けてはならない。
 自分が見たものがこの世の全てだと思い込む人間も、あまりこの仕事には向いていない。悪人というのは万引き犯のことであり、警察官が現われれば泣いて謝るものだという自分の経験則から抜け出せないタイプ。全ての人間は一皮けば真っ黒であり、人の言うことは全てだと信じ込んでしまっているタイプ。どちらも、早めに辞めた方が誰にとっても良い。
 川藤浩志は、それらの類型には当てはまらなかった。
 配属から一週間ほどが経った、ある日の午前中。前日からの引き継ぎは早く済み、登校時間帯も過ぎて手が空いた。交番まわりの道はだいたい教えたが、細かな抜け道も何本もある。本人には地図を見たり非番の日に歩いたりして憶えるよう言っておいたが、やはり実地に行くのが早い。
「川藤。パトロール行くぞ」
「はい。ですか」
「いや、自転車で行く。俺が先導するから付いて来い。梶井は留守を頼む」
 そうして警邏に出た。
 十月になっても気温が下がらない、おかしな年だ。八月のように暑い九月、九月の残暑を移したような十月、何かが狂っているようだった。汗をかきそうな生ぬるい空気の中、勝手を知った街を警邏していく。
 平日の午前中、静かな住宅街にも、ちらほらと人の姿がある。宅配便のワゴンから飛び出してくる元気な男、犬の散歩をしている中年女、肩を落としてぼんやりと歩く若い男など……。彼らのほとんどは、俺たちと目を合わせようとしない。顔を背けるわけではないが、決して目が合わないよう、不自然なまでに視線を前に固定する。彼らに後ろ暗いことがあるわけではない。むしろ警察と自分たちが無関係だからこそ、驚きと警戒を隠せないのだ。煙たがられながら頼られることに慣れなければ、この仕事はやっていけない。
 小学校のそばから、大樹の陰になり見落としがちな脇道へと入る。車一台通れるか通れないかの微妙にカーブした道であり、一方通行になっている。
 口を開かずここまで来た。だが、大きなイチョウがトンネルのように頭上に枝を伸ばした道路の半ばで、前から車が近づいてきた。軽自動車だ。俺は自転車を停め、川藤を見る。その顔は強張っていた。
「川藤」
「はい」
 俺たちは自転車を降りる。軽自動車の運転席で、初老の男が顔をしかめるのが見える。ろくに車が通らない道だけに、さっと通れば大丈夫だとでも思っていたのだろう。一方通行違反の車と真正面から鉢合わせしてしまっては、仕事をしないわけにもいかない。
 川藤には、切符の切り方は教えてある。
「お前がやれ」
 と命じる。
「はい。やります」
 自転車の後部には、白い鉄製の箱が取りつけられている。川藤は箱の鍵を開け、クリップボードと青い交通反則切符を取り出す。エンジンを切って車を降りてきた運転手に、例の甲高い声で言う。
「おい。わかってるだろうな。違反だよ」
 俺は、川藤の頭を殴りつけたい衝動に耐えなければならなかった。そんな口の利き方は、良かれ悪しかれこの仕事に慣れきってしまった者がするものだ。今日初めて現場に出たような新人に、そんなすれた態度を取る資格はない。舌打ちが出る。
 だが、一時の苛立ちはたちまち消えていく。どうせ川藤とはそう長く仕事をするわけじゃない。こいつが言葉遣い一つで簡単な仕事を難しくするとしても、こいつの将来のために叱ってやるほど俺は優しくなれない。それに、川藤は間違ったことをしているわけではない。ただ俺の癇に障るだけだ。

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


生放送情報】

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事

芥川賞・直木賞発表を楽しもう

芥川賞・直木賞発表を楽しもう

このチャンネルの詳細