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【第151回 直木賞 候補作】 『男ともだち』 千早 茜

2014/07/14 12:00 投稿

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第一章

 色とりどりの泥に埋もれていた。
 それが、夢だとわかるくらいには覚醒していた。泥は混じり合いながら模様を描き、私は色の乱れる鮮やかな夢をとろとろと愉しんでいた。
 時折、色はくっきりとしたかたちをあらわした。その度にスケッチブックを探すのだが、泥にまかれて手が動かない。もどかしい。でも、このままれる色の渦に沈み込みたい気持ちもある。尿意を我慢する快感に似ている。ぎりぎりのところで浮き沈みを繰り返していると、突然、色が弾けとんだ。
 鈍い振動音に意識が引っ張りあげられる。手は反射的にソファの上をまさぐっていたが、指先にはかたい布地の感触しかない。
 しばらくしてやっと携帯電話を食卓テーブルの上に置きっ放しにしていたことに気付く。その間も振動は続き、無遠慮なその音は徹夜明けの頭にぐりぐりとくい込んできた。バイブ設定にしているとはいえ耳障りだ。だが、身体を起こす気になれない。
 壁時計に目をやる。まだ朝の七時過ぎ。カーテンの隙間からもれる光は透明で、かすかに夜の青さを残している。ようやく頭がはっきりしてくる。こんな時間に電話をかけてくるのは真司さんくらいしかいない。当直明けで気まぐれにかけてみたに違いない。
 ソファに横たわったまま、オープンキッチンのコンロ前に立つ彰人の背中をうかがう。
 肉と玉葱を炒める匂いが流れてくる。今日も生姜焼き弁当なのだろうか。彰人は毎朝、自分で弁当を作っていく。男料理なのでフライパン一個で作れるものばかりとはいえ、一緒に暮らしはじめてから五年、その習慣は変わらない。職場ではまめな若者だとパートのおばちゃんたちから人気があるらしい。
 脂の匂いを嗅いでいるうちに吐き気が込みあげてきて、身体を起こした。そういえば、昨日からまともなものを食べていない。
 携帯電話はまだテーブルの上で震えている。彰人が炊飯器の蓋をあけながら言った。
「でないの 仕事の電話かもよ」
 彰人の前ででられるわけがない。非常識な時間に電話をかけてくる真司さんに対して苛立ちがわきあがる。
 私が予告なしに電話をかけると迷惑そうにするくせに、自分はいつも好きな時に連絡してくる。結婚している自分には細心の注意を払うべきだが、私の同棲相手への配慮は必要ないってことだろうか。
「編集さんもデザイナーさんたちもこんな早く出社してないから。悪戯電話じゃないかな 最近迷惑メールも多いし」
「ずっとアドレス変えてないもんね。最近、名前がでること多くなったんだし変えたら」
「そうだねえ」
 煮え切らない返事をすると、彰人がふり返った。ご飯のしゃもじをちょっと掲げるような仕草をする。
 首を横にふる。胃は空っぽなのだが気が昂ぶっていて食べる気にならない。夜通し仕事をした日はいつもこうだ。
「占い雑誌のイラスト、終わったんだ」
 壁に貼られた仕事リストの表を見ながら彰人が言った。赤いバツ印をさっきひとつ付け加えたところだ。
「うん、ぎりぎり。十二星座分の女の子を描くの、意外と大変だった。あんまり既存のイメージ通りに描きたくなかったんだけど、ラフ画送ったら、らしくないってやり直しがかかっちゃったし。ねえ、でも獅子座なら派手な感じで、水座なら落ち着いた雰囲気とかさ、生まれた月でイメージ決まっちゃうなんてなんか変じゃない それってさあ……」
「まあね」
 彰人が背中を向けたまま頷いたので、続けようとした言葉を呑み込んだ。止めよう。これ以上言うと愚痴だと思われる。俯いて、指先にこびりついた絵の具を引っく。色が粉になって離していく。
 彰人は仕事の泣き言や不満を相談として受け止めてしまうタイプだ。ただ話を聞いてもらいたいだけという感情を理解できない。私も私で、そんな生真面目な気性を知っていながらも意見されたら腹がたってしまうし、過剰に労をねぎらわれても本当にわかっているのかと疑ってしまう。そうなると、最後はいつも言い争いに発展する。「彰人にはわからないよ」と私が言ったのが先だったか、彰人が「表現職のことはおれには全部は理解できない」と言ったのが先だったかは覚えていないが、そのやりとりが何度か繰り返された後、どちらからともなくそういう話題を避けるようになった。
 もう彰人は私の仕事に関しては何も言わない。状況はなるべく把握してくれようとはするけれど、それ以上は踏み込んでこない。
「仕事終わったんならちゃんと何か食べなよ、自由業でもできるだけ生活のリズムは守った方がいいよ。牛乳でもあっためようか」
 こういう真っ当なことを言ってくるくらいだ。
 自由業という言葉に頷きかけた頭が止まる。自由業。世の中の人が呼ぶその言葉の中には、自堕落だとか破天荒だとか根なし草とか、反社会的な響きが含まれている気がする。なんとなく楽そうで、でも軽視してしまうには情報が少なく判断できないから、自分たちには理解できない存在としてとりあえずひとくくりにしてしまおうという安易な意図が感じられて、言われる度に気が滅入る。
 一度、彰人にそう言ったら「気にしすぎ」と言われた。何気なく言っただけで、そのまま忘れているのだろう。気になるから言うのであって、気にしないようにできるならば、そうしたいのはやまやまなのに、そう言われてしまったら何の解決にもならない上に余計にフラストレーションが溜まる。
 でも、今は言葉尻を捉えて突っかかるほどの体力も気力もない。口元に笑みを作る。
「いい、ありがとう。宅配便の集荷が来るのを待たなきゃいけないし。いま、何か食べたら絶対に寝ちゃうからやめておく」
 そう答えた後、ソファにもたれなおして天井を見上げた。
 ここのマンションは天井が高い。その分、暖まりにくいけれど、室内は広々として見えて気に入っている。
 ソファの横に置いてある籠に手を伸ばす。忙しい時は片手で食べられるもので済ますことが多いので、菓子パン、ナッツとドライフルーツのバー、袋菓子などがいつも入っている。固形蜂蜜のパックを取り、ひとついて口に入れる。
 目を閉じた。酷使した目がじんじんと痛む。濃い甘さが口の中に広がって、ゆるゆると意識が流されていく。まぶたの裏で色彩が乱れ飛ぶ。
 ふいにオーブンレンジが鳴った。
 目をあけると、レンジからトーストを取りだして皿に載せる彰人が見えた。片手にマグカップを持ってテーブルに向かっていく。いつの間にか、部屋にはコーヒーの香りが漂っている。トーストにマーガリンを塗るさりさりという音をうっすら聞きながら、また浅い眠りの中をたゆたった。勤務時間がきっちり決まっている人からは、さぞだらだらしているように見えるだろう。
 けれど、仕事を仕上げた瞬間が一番安らぐのだ。この時間がもったいなく思えて、すぐに何かをする気になれない。
「行くよ」という声で、また意識が引っ張り戻された。数十秒くらいかと思っていたのに、二十分も経っていた。
 玄関に続くドアの前でリュックを背負った彰人がこちらを見ていた。彰人は三十分以上もかけて自転車で通勤している。もうすぐ三十路だからと意識的に運動するようにしているらしい。彰人よりひとつ上の私は来年で三十になってしまうのだが、身体を動かす気にはちっともならない。
「行ってらっしゃい」
 ソファにもたれたまま言うと、「ちゃんとベッドで寝なよ」と注意された。言っても無駄だとわかっていても、こういうことを儀式のように言う。
 彰人がいなくなると、急に眠気が覚めてきた。せっかくだからゆっくり湯船に浸かってマッサージでもしよう。立ちあがりながら伸びをすると、大きなため息がもれた。
 浴室に行って湯船にどうどうと湯を注ぎ、白い湯気の中にローズマリーのバスエッセンスを垂らす。華やかだが直線的な香り。視界が鮮明になったような錯覚を覚える。
 居間に戻ると、テーブルの上にカフェオレの入ったマグカップが置いてあるのに気付いた。彰人に感謝をしながらレンジに入れる。温まるのを待つ間に携帯電話を手に取る。
 着信は真司さんからではなかった。知らない番号だ。メールも一件、これも知らないアドレスから。カーテンに手をかけながらメールをあけた。
 ―まいど。ご活躍なにより。しょっちゅう関西行くから暇ならつきあえよ。
 一瞬、何も考えられなくなった。慌てて件名を見る。
「ハセオ」
 声がもれていた。いつの間にかカーテンの端を握りしめていた。射し込んだ光がテーブルに線を描く。
 朝日の眩しさに目を細めながら、本文を見返した。ふざけた時のエセ関西弁。「久しぶり」とか「元気か」とか何の前置きもない文章。
 そして、最後の一文。
 ―夜にでも電話する。
 低い掠れた声が蘇った。ぶっきらぼうだが親しみの滲むあの声音。昔、さっき見ていた夢のように混沌としていた頃、まだ自分が何者でもなく足いていた頃、いつもそばにあった声。
 懐かしい。
「ハセオ」
 私はもう一度、呟いていた。自分が昔どんな声でその名を呼んでいたのか、思いだそうとするように。

 深く眠り、目が覚めたのは夕方だった。京都市内は山で囲まれている。西の山の端に夕日が見えたが、部屋は赤というよりはもう薄闇色に染まっていた。
 部屋を見回して、一瞬ここがどこだかわからなくなる。眠る前にハセオの部屋を思いだしていたからだろう。
 メールは返さなかった。うまく言葉を見つけられなかった。メールなんて、一体、何年ぶりだろう。そもそもハセオにメールなんてしたことがあっただろうか。いや、きっとほとんどなかったはずだ。メールなんてする必要がないくらい、いつも一緒にいたから。
 あの頃、私は大学生だった。人文学部の気楽な学生で、まともに出席するのは必須科目である語学の講義くらい。後はバイトかサークルの部室で時間を潰していた。ハセオもいつも部室にいた。バイトがない日は暗くなってくるとハセオの部屋に行った。
 コンクリート打ちっぱなしの部屋だった。壁には映画のポスターとハセオの描いた海外の映画俳優の似顔絵がべたべた貼られていて、部屋の隅には誰かが酔っ払って盗んできた薬局の大きな蛙の人形と工事現場の黄色いポールが置かれていた。テレビの横には映画のビデオテープが積みあげられていて、薄暗い部屋では洋画がいつも流れていた。
 少し湿ったベッドの中からハセオの背中を見つめていた。薄い筋肉に覆われた形の良い背中をいつも心持ち斜めにしていた。その傍らには常に灰皿とコーヒーの缶があった。
 男子学生たちがしょっちゅう出入りしては、煙草のけむりと酒と漫画雑誌と麻雀の音で部屋をれさせていった。時々、私もベッドからいでて麻雀に加わったりした。何か欲しいものがあれば誰かがコンビニに立つ時に頼めばよかった。自分の部屋に誰がいようと、ハセオは気にしなかった。ふらっと消える時はたいていバイトで、プリンだのシュークリームだのといった甘いコンビニ菓子が入った袋を持って帰ってきては、「好きなの食え」と放って寄こした。
 私はまだ二十歳にもなっていなかった。けれど、もうすでに男に絶望していた。齢の近い異性の幼さを疎み、齢の離れた異性は侮っていた。誘われればすぐに寝たが、面倒になるとあっさりと捨てた。若かったのだろう。若かった私は本音を隠す術も知らず、簡単に人を軽して傷つけて、そして、勝手に絶望を深くして一人で苛立ち足いていた。
 でも、ハセオの部屋にはなぜか居られた。あそこは私が唯一、深く眠れる場所だった。布団と同じ匂いの筋肉質の身体が横に滑り込んできても、兄弟のように安心して眠り続けていられた。
 はじめて出会った頃、ハセオは確か三回生だったはずだ。二歳上だったから。
 妙に落ち着いた男だった。大学に入学し、一人暮らしをはじめたばかりの私からはずいぶん大人びて見えた。けれど、小学生のような無邪気さも見え隠れしていた。浅黒い肌に白い歯を光らせて、いつでも笑っていた。少しゆがませた口の端から、煙草のけむりを吐きながら。
 互いが景色の一部になってしまうくらい一緒にいたけれど、私たちは恋人同士ではなかった。ただの一瞬も。
 起きあがり、充電しておいた携帯電話を取る。着信が一件、ハセオからだ。十二時過ぎにかかってきていた。仕事の休憩時間だろうか。夜にする、と言っていたくせに。相変わらずせっかちなのかな、と思うと笑いがもれた。
 その途端、携帯電話が震えだした。画面を確認しないままに通話ボタンを押して、慌てて耳にあてる。
「もしもし」
 聞こえてきたのは真司さんの声だった。小さく息を吐く。動悸が急速に収まっていく。
「あー、もしもし」
「うん、聞こえてる。ごめん、ちょっと仮眠とっていたの。どうかした」
「仕事忙しいのか」
「ううん、今朝終わって送ったところ。返事待ち。そっちは」
「診察が早く終わったんだ。珍しく病棟も落ち着いているから、あと一時間くらいで帰れると思う。晩飯でも行こう。迎えにいく」
 有無を言わさぬ口ぶり。私が断るとは露ほども思っていないのだろう。でも、彼の強引なところは嫌いではない。
「そんなこと言って、また遅刻するんじゃないの」
「今日は大丈夫だって」
 言っているそばから院内の鳴る音が聞こえてきた。
「あ、ごめん。ナースから呼びだしだ。じゃあ、着いたら電話するから」
「家まで来なくていいし、坂の下で待っててね」
 返事はなかった。切れた電話を見つめながら気がついた。彰人もあと一時間くらいで会社が終わるはずだ。
 まあ、早めに家をでてどこか近くの店に入って待てばいい。どうせ一時間といっても真司さんが時間通りに来たことなどない。患者に急変が起きて、何の連絡もなく三時間待たされたこともある。
 起きあがると、電気を点けた。短く切られた爪と荒れた指先を見つめて、久々に明るい色のマニキュアでも塗ろうかと思った。

 爪を乾かしながらメールチェックをした。瞼が腫れぼったかったのでつけまつげを付け、髪にヘアアイロンをかけて毛先を軽くウェーブさせた。積み重なったアマゾンの箱からファッション雑誌を取りだし、眺めながら丁寧に化粧をした。あっという間に一時間半が経った。急いで服を着替え、彰人に置き手紙を残して部屋をでる。
 朝帰りになるかもしれない、とは書いておいた。締切明けの晩はたいてい遊びにでかける。気が昂ぶって眠れなくなるというのもあるが、制作に入るとずっと家に閉じこもりっきりになって、誰にも会わず昼も夜もない生活が続くので、気晴らしがしたくて仕方なくなる。見慣れたバーでも街の喧騒でもなんでもいいから、自分の痕跡のない空間に身を浸したくなる。彰人もその気分は理解してくれているのか、次の日まで帰らなくても何も言われたことはない。体調の心配をされるくらいだ。

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。

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