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【第151回 直木賞 候補作】 『ミッドナイト・バス』 伊吹有喜

2014/07/14 12:00 投稿

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第一章
 かすかに左手首に振動が伝わってきて、高宮利一は目を覚ました。
 バイブレーション付きの腕時計のアラームを消し、時刻を見る。
 午前五時三十二分。深夜便のすべての客を降ろした高速バスのなかに、薄青い光が満ちている。
 夜が終わろうとしていた。
 運転士の制服の襟元をゆるめ、客席のリクライニングシートに身をもたせたまま、利一は再び目を閉じる。
 最近、明け方になると別れた妻の夢を見る。今もたった十五分の仮眠の間に、美雪の夢を見た。
 別れたときは三十代だったが、夢のなかの美雪はいつも出会った頃の姿でいる。見る内容はいつも同じで、西日の強い部屋で二十歳の美雪が泣いている。あやまりたくて仕方がないのだが声が出ない。たまらずに手を伸ばすと、そこできまって目が覚める。そして現実に気付く。
 離婚して十六年もたっていることに。そして自分がもう四十代の後半になってしまったことに。
 うっすらと目を開け、利一はバスの天井を眺める。
 繰り返し見るこの夢は、なつかしい記憶でもあり、美雪が泣いていたのは学生時代に自分が住んでいた西早稲田のアパートだ。
 リクライニングシートを起こして、利一は立ち上がった。
 仮眠前に飲んだコーヒーの空き缶を持ってバスから降り、もう一本、同じものを買う。
 日の出が近いはずだが、今日は雲が厚いのか外はまだ薄暗い。
 しかし白鳥交通という社名にちなんでか、白い塗装を施されたバスは他の車両に比べてほの明るく見える。
 熱い缶コーヒーを手にして運転席に戻り、回送の表示を確認するとゆっくりと利一はパーキングエリアから車両を出した。
 東京新潟間を結ぶこの定期高速バスの最終は深夜便となり、池袋を夜の十一時半に出発して、朝の五時前後に新潟市に着く。今夜は定刻より少し早く、終点の万代バスセンターに到着した。
 共同運行をしている新潟市のバス会社なら、そこで仕事の大半は終わる。
 しかし新潟市から離れた美越市に本社を置く白鳥交通の場合は、車庫が新潟市内になく、終点で乗客を降ろしたあとは回送の表示を掲げて、来た道を一時間かけて美越の営業所まで戻らなければならない。
 乗客がいる間は気を張り詰めているが、そのあと一人でバスを走らせていると、緊張がゆるむ気がする。そのゆるみが怖いから、ちょうど新潟と美越の中間地点にあたるパーキングエリアでバスを停め、十五分だけ利一は仮眠を取る。たった十五分の睡眠でも、長時間を走り続けた身にはこのうえなく心地よく、目覚めたときはあともう少しという意欲がわく。
 それなのに今日は気持ちが晴れない。
 どうして今頃になって、美雪の夢を見るのか。
 自分に苛立ちながら、利一は道の先を見る。
 よりによって、今日という日に―。

 今朝の北陸自動車道は前後に車の姿がなく、貸し切りの道路のようだ。それでも慎重に車両を走らせながら、利一は再び考える。
 あんな夢を見るのは、たぶん彩菜のせいだ。
 二十四歳になる娘の彩菜は最近、髪を伸ばし始め、何気なく前髪に触れる仕草が若い頃の美雪によく似ている。
 その彩菜から一ヶ月前に、結婚を考えている人がいると言われた。近々、先方の家族と食事会をしたいという。
 早すぎると反対したいが、自分が美雪と結婚したのは二十二歳の時、東京の大学を卒業して、不動産開発会社に就職した半年後のことだった。
 美雪は大学の後輩ですでに長男の怜司を身ごもっており、挙式は大学近くのレストランで質素に行った。レストランでの挙式も、出産を控えた花嫁も今ならば珍しくないが、当時は外聞が悪く、新婦の両親はたいそう嘆いていた。
 同じように新郎である自分の母親も、女手ひとつで育てた息子が都会育ちのアバズレにひっかかったと親戚にぼやいていたらしい。しかし美雪は新潟市内に住む大学教員の娘で、同じ県の出身ということで話をしたのが交際のきっかけだった。美越にくらべれば県庁所在地の新潟市は都会だが、母が思っていた類の女なら、ためらいなく怜司を堕ろしていただろう。
 それができなかったから結婚し、大学卒業後は家庭に入り、その八年後、長距離トラックのドライバーに転職するという夫とともに美越に来て、同居した姑との仲がこじれて出ていった。それは旅客運送ができる大型二種免許を取得した年で、バス会社への就職と、母との別居を考え始めた矢先のことだった。
 あのときは……。
 越後平野をまっすぐに進む道の向こう、連なる山々を利一は見る。
 稼ぐのに精一杯で、母にも美雪にもうまくやってくれと言うばかりだった。家のなかに誰も味方がいないのが辛かったと、離婚を決めた席で美雪は泣いていた。
 もう少し早く、あの涙に気付いていたら。あるいは東京で働き続けていたら。
 この道の先、あの山脈の向こうで暮らし続けていたら、どんな朝を迎えていただろう。
 夜明け前の薄闇を走っていると、これまでの人生を振り返ってしまう。そして選ばなかった道のことを考える。
 しかし別れの理由にもなった母は五年前に亡くなった。息子の怜司は二年前に理系の大学院を出て、東京で就職している。彩菜の結婚が決まれば、自分の人生にも一区切りがつく。
 一人息子であったこと、父親であることから離れたら、今度は少しだけ自分のために生きてみたい―。
 高速道路を降り、美越の町へと利一はバスを進ませる。
 だから、これまで互いの暮らしに踏み込まず、淡い交際を続けてきた古井志穂を美越に誘った。
 薄青い闇の向こうにひとすじ虹色の線が浮かび、空がうっすらと赤く染まってきた。
 その光のなか、群れをなして飛ぶ鳥の影が鮮やかに目に映る。
 夜の気配は薄れ、新しい日が静かに動き始めた。
 美越営業所のあかりが見えてきて、利一は微笑む。
 今夜も無事に戻ってきた―。

 営業所の車庫にバスを停めると、利一は携帯電話を確認した。
 彩菜と怜司から電話が一本ずつ入っている。怜司からはメールも入っており、読もうとしたときに志穂から電話がかかってきた。
 おはよう、と電話の向こうから、はずんだ声がした。
「リイチさん、今、どこ? 電話に出てくれたってことは、お仕事はもう終わり?」
「まだだよ。今、営業所。どこにいる?」
 電車のなか、と志穂が答えて、これから到着するという駅の名を言った。
「誰も乗ってないから電話しちゃった。美越まであと少しでしょ? 駅に着いたら、どこで待ってたらいい?」
「改札を出たところのベンチで。まだ仕事中だから、終わったらまた連絡するよ」
 そう言って切ろうとすると、嬉しそうな声が響いてきた。
「私ね、すごくわくわくした」
「わくわく? 何に?」
「リイチさんのバスに乗るのも、高速バスに乗るのも初めてで」
「疲れてない?」
「疲れてない、全然」
「あと少しで、あがるから。寒いかもしれないけど待ってて。すぐに迎えにいくよ」
 待ってる、と声がして、電話は切れた。
 携帯電話をポケットに入れ、利一はバスのトイレのタンクの処理をする。それからバスの車体を洗い、運行に関する報告書を書いて営業所を出る。
 駅へと車を走らせると、雲は晴れ、あたりは朝の光に満ちていた。

 白鳥交通という社名はいつもハクチョウ交通と読まれてしまい、シラトリと正式に呼ばれることは少ない。しかし営業エリアにシベリアから渡ってくる白鳥の飛来地が多いことが由来と聞いているから、ハクチョウと読むのはある意味正しいのかもしれない。
 その白鳥は秋の終わりにこの地に来て冬を過ごし、春になるとまた旅に出る。
 そんな話を二週間前に東京の志穂の店でしたら、「白鳥を見てみたいな」と洗い物をしながら志穂が言った。
 三月末にはあまりいないが、それなら家に来てみるかと誘ってみた。すると小鉢を洗う手を止め、「行ってもいいの?」と問い返された。そしてどうせ行くなら、新潟行きの深夜バスを担当する日に客として乗っていきたいと言った。
 深夜便を運行して早朝に営業所に戻ってくると、「アケ」と呼ばれて、その日の仕事はそれで終わる。それから続けて二日間の休暇が入るローテーションなので、たしかにその便に乗ってくると便利だ。しかし乗客が降りたあとに営業所に車両を運ぶ仕事があるうえ、到着が早朝すぎて、終点で降りるにも美越停留所で降りるにも、迎えにいくまで志穂が時間を潰す場所がない。
 それを伝えると、すぐに携帯電話で新潟駅発の電車の時刻を調べ、終点でバスを降りたら始発の電車で美越に向かうと志穂が言った。
 面倒だろう、と言うと「全然、面倒じゃない」と笑った。遠足みたいで楽しいという。
 その言葉を意識したのか、昨晩、コートを小脇に抱えてバスに乗りこんできた志穂の手荷物は紺色のリュックで、チノパンツにスニーカーを履いていた。
 水筒をぶらさげたら、遠足を引率する女教師のようだ。
 思い出したら、かすかに笑みがこみあげ、利一は自宅近くの駅へと車を走らせる。
 小さな駅舎に近づくと、改札を抜けたところにあるベンチに、ベージュのワンピースに白いコートを着た女がうつむいていた。
 髪をきれいにまとめて、耳の後ろに白い花飾りをつけている。ベンチの横には大きなスーツケースが置いてあり、旅行者のようだ。
 志穂の姿を探しかけて、利一はその女に目を留める。
 スーツケースの上には昨日見た紺のリュックが乗っていた。
 志穂か、と気付いたと同時に、女が立ち上がった。そして顔いっぱいに笑うと手を振り、スーツケースを押してきた。
 名前を呼んでいるのか、唇が動いている。車を停めて窓を開けると、冷たい空気が入り込んだ。
 リイチさん、と今度は声が聞こえた。
「トランク、開けて」
 トランクを開け、車から利一は降りる。
「誰かと思った。着替えたのか?」
 駅でね、と恥ずかしそうに志穂が答えた。
「顔を洗ったついでに……」
 スーツケースをトランクに入れながら「なんで、また」と聞きかけ、途中でやめる。
 朝日を浴びて白いコートを着た志穂が微笑んでいる。それを見たら、細かいことはどうでもよくなってきた。
 目が合うと、志穂が照れくさそうに笑った。三十代後半だが、年齢の澱を感じさせない笑顔だ。
 荷物を積み終えて助手席に座ると、雪が少ないと驚いたような声がした。
「私、新潟ってどこもすごく雪が積もっているかと思ったけど、ここも新潟市もあまり……というか、ほとんど積もってないんだね」
 このあたりが境目だと、車を出しながら利一は答える。
「ここから先の山のほうに行くと結構、積もってる。白鳥交通の営業エリアはここ以外はだいたい雪が深いよ」
「そのシラトリ、だけど……」
 不思議そうな声で志穂が窓の外を見た。
「乗り場で待ってたら、お客さんたちが『ハクチョウさん』って言ってた。地元の人なのにハクチョウって言うの?」
「愛称みたいなもんだね。そっちのほうが呼びやすいんだろう。なんか言ってたか」
 うん? と志穂が言葉に詰まった。
「そこまでは聞こえなかった」
 おそらく「ハズレ」と嘆いていたのだろう。
 信号待ちをしながら、利一は苦笑する。
 東京と新潟を結ぶ高速バスの定期便は都内のバス会社を含む、四社が共同で運行しており、新潟側からは白鳥交通以外に、新潟市、長岡市にそれぞれ拠点を持つ二社が参加している。
 そのなかで白鳥交通は規模も営業エリアも一番小さく、装備も古い。他社は深夜便に『三列シート』と呼ばれる、一人がけのシートが三列に並んだ車両を投入しているが、白鳥交通は、その車両数が少ない。
 そこでごくたまに、通路をはさんで二人がけのシートが横に並んだ『四列シート』が深夜便に運行されることがあるのだが、そのバスに当たると乗客はハズレ便と嘆くらしい。
 そして昨夜はそのハズレの日だった。
 信号が青に変わった。車を走らせると、外を見ていた志穂がこちらを見た。
「白鳥はどのあたりにいるの?」
「この先の川の近くに」
「バスを待ってるとき……ご家族かなあ、彼氏かなあ。電話でね、女の子がハクチョウさんに乗って帰るって言ってた。白鳥に乗るって、夢がある言い方だね」
「夢、ねえ」
 軽く笑うと、自分の名前のことが頭に浮かんだ。
 白鳥交通がハクチョウと呼ばれるように、利一という名前もリイチと呼ばれることが多い。
 命名した祖父だけは「トシカズ」と呼んだらしいが、舅と不仲だった母がリイちゃん、リイちゃんと呼び続け、自然と周囲もそれにならってしまった。
 上京してからは背が高くて手が長いからとリーチというあだ名がついたが、本当のところは先輩から麻雀を教わった時に、安い手ばかりであがっていたからという気もする。
 話のついでに名前のことを言ったら、志穂が笑った。
「それはもう、リイチにしておけってことなのかな」
「そうかもしれん」
 再び微笑んだが、すぐに志穂が真顔になった。
「でもリイチさん自身は、どっちで呼ばれたいの?」
「今となってはもう、どっちでもいい」
 トシカズさん、と志穂がつぶやき、それからしみじみと言った。
「でもお祖父さんとも仲が悪かったって……リイチさんのお母さんって、みんなと仲が悪かったんだね」
「みんなって?」
「奥さまがお家を出ていったのもそれだって。昔……うちの母にそんな話をしていたじゃない?」
「古い話だね。よく知ってるな」
 言い方が冷たかったのか、「ごめんなさい」とあわてて志穂が頭を下げた。

※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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