一「夢みたいなことをね。ちょっと」

 病院だったんだ。昼過ぎだったんだ。おれ腹がすいて、おにぎり喰おうと思ったんだ。おにぎりか、菓子パンか、助六か、なんかそういうのを買おうと売店に寄ったら、あいつがいたんだ。おれすぐ気づいちゃったんだ。あれ? 須藤? って言ったら、あいつ、首から提げた名札をちらっと見て、いかにも、みたいな顔してうなずいたんだ。いかにもわたしは須藤だが、それがなにか? みたいな。
 深く呼吸した。
 口元を拭い、青砥、と人差し指で胸を指す。
 ごく控えめな身振りだった。
 六月十一日月曜日。青砥健将は花屋にいた。駅前のこぢんまりとした花屋だ。
「青砥だよ、青砥」
 あのときの自分の声が耳の奥で鳴った。
「なんだ、青砥か」
 須藤の声も鳴った。滑舌はいいのだが、柔らかみのある声だ。女にしてはやや低く、頭のよさが感じられる。
 須藤の白い顔ももちろんあらわれた。ちいさな顎を少し上げ、不敵というか、満足げというか、堂々たるというか、そんな笑みを浮かべていた。つまり、須藤の、いつもの、笑顔だ。
「プレゼントですか?」
 花屋の店員が話しかけてきた。そんなに若くなかった。顔のわりに髪が黒い。海苔のような長い髪を後ろでひとつに括っている。青砥は腕を組み、首をかしげた。
「いや、供える的なやつ」
「ご供花ですね」
「あ、たぶんそんな本格的なアレじゃなくて。時間経ってるもんで。ちょっとおれ知らなくて。さっき知って。一ヶ月くらい前だったって、ついさっき」
 短いうなずきを忙しく繰り返し、「まーだから」と青砥は足を肩幅にひらいた。うん、と腹に力を入れる。
「プレゼントみたいなもんです」
「そうなんですね」
 店員が訳知り顔で応じ、店のなかを見回した。青砥も彼女の視線を追う。花だ。大摑みでそう思った。それよりほかの感想が出てこなかった。強いていえば、どっさりあるなということくらいだ。だからなのか知らないが、葬式の匂いがする。
「ご予算は?」
 訊かれて、「あぁ」と生返事をした。バケツに入った花の束を一種類ずつ見ていく。花屋で花の顔をじっくり見るのは初めてだった。色やかたちのちがいは分かるが、やはり、どいつも「花」だった。
「なんも決めてなくて」
 答えたら、顎がコリッと音を立てた。長いこと口をひらいていなかったわけでもないのに。

 昼休みに須藤の訃報を聞いた。安西からだ。
 安西知恵は青砥の勤める印刷会社のパートタイマーである。旧姓は橋本。青砥とは小学校と中学で同窓だった。珍事というほどではない。パートの募集をかけると、数度に一度は昔なじみの女子が履歴書を手に面接にやってくる。
 女子といっても五十なのだからオバちゃんだ。朝霞、新座、志木。家庭を持ってもこのへんに住む元女子たちは一定数いる。地元から一歩も出ずにいたか、都内で所帯を持ったもののマイホーム購入にともない戻ってきたかしていた。元男子の青砥も同様で、このへんで育ち、このへんで働き、このへんで老いぼれていく連中のひとりである。
 コンビニまで昼飯を買いに行く途中で、パート仲間と弁当を広げる安西に声をかけた。株主総会のパンフレットの検品をしていた安西は、不織布のキャップをかぶったまま白飯にのりたまをふりかけていた。
「帽子」
 指差して笑ったら、
「やだもう」
 安西は若やいだ声を発し、傍らのパート仲間にしなだれかかった。急いでキャップを取り、髪に指を入れ、へたった毛を起こす。
「毎日弁当つくってんのな」
「ダンナに持たせるから、そのついで。ダンナ、痛風だからさ」
「えらいねえ」
 ちゃんと奥さんやってて、とその場を離れようとした。「んじゃまた」と出口に足を向けかけたら、安西が「あ、ちょっと」と、おいでおいでをし、「なんだよ」と青砥の応じる間を待たず、「知ってる?」と声をひそめたのだった。
「須藤葉子。ハコ。亡くなったんだって」
 息が詰まった。顔とからだの動きが止まった。罠にはまり、網ごと吊り上げられたようだった。
「ウミちゃんから聞いたんだ。昨日ヤオコーでばったり会ってさ」
「あぁ」
 かぼそい声が出た。ウミちゃんも元女子のひとりだ。中学校での三年間、同じクラスだった。やはりクラスメイトだった須藤とはパート先も一緒だった。中央病院の売店だ。
「こないだハコにLINEしたんだって。久しぶり、元気? みたいな」
 なんか予感があったのかも、と付け足した安西の表情はシリアスだった。
「そしたら妹さんから返事がきて。姉は五月三日に亡くなりましたって。故人の希望で葬儀はおこないませんでしたとか、ご報告が遅くなり失礼しましたとか、生前のご厚情を感謝しますとか、LINEで」
「LINEで」
 鸚鵡返しにつぶやいた。おれのとこにはきてないなと思った。須藤の携帯が妹の手に渡ったのなら、おれには連絡がくるはずだ。そう思った途端、痛みが走った。みっちゃんはおれの味方じゃなかったんだ。そうだろうなとうなずいた。そりゃそうだろうと繰り返した。
「ハコ、こっちに戻ってたんだね。全然知らなかったよ」
 依然深刻な安西の顔に下世話な色が付いた。物言いたげに口元が動いた。探るようなまなざしを受け、青砥は顎を上げた。
「おれは知ってた」
 安西は目を下げた。フォークで人参しりしりをつつく。
「知ってたよ、おれは」
 青砥は肩を引き、両の貝殻骨をくっつけた。そうすれば自然と胸が押し出され、姿勢がよくなる。「胸を張れよ、青砥」と須藤が言った。「簡単だよ。貝殻骨をくっつければいいんだ」と細い首をかしげて。
「そうなんだ」
 安西が小声で応じ、目を上げた。
「なんかごめん」
 すべてを知っていますという顔で、頭を下げた。
「ほんと、なんかごめん」
 骨の髄までオバちゃんでさ、なんなのこのミーハー精神! とおでこを叩くのを見て、青砥は自分が酷い顔をしていると知った。ゆっくりと腕が持ち上がり、指先が頰に届く。指の冷たさで反射的に手を下げた。
「意味分かんねえ」
 言い捨て、自転車を飛ばした。ささいな理由を見つけては須藤のアパートに通った自転車が、駅前の花屋を目指したのだった。
「お好きだった花とか」
 独り言のように店員がつぶやく。
 べったりと黒い髪に手をやり、次にかける言葉を探しているようすだ。
 青砥も探した。硬いものをよく嚙んで柔らかくするように、「須藤 花」で記憶を探る。
 黄色い花束が浮かんだ。パートを辞めるときに仲間からもらったものだ。ひと抱えの大きさがあった。それを立派な花瓶に挿れていた。小ぶりのヒマワリをちょんとつつき、須藤は「花なんて久しぶりだ」と言った。
 次に草が浮かんだ。ハーブの一種だそうだが雑草にしか見えなかった。名前は忘れた。その草とニンニクと鷹の爪を浸したオリーブオイルを須藤はたいそう気に入っていて、なんでもそれで焼いていた。
 草は自給自足していた。ちょっぴりしか使わず余った草を、水に挿して発根させ、アパートの隣の駐車場に植えていったらしかった。
 舗装されていない駐車場だった。車が八台駐められて、鉄パイプで四角く囲ってある。須藤が目をつけたのは輪留めの後ろの細長いスペースだった。
 鉢植えに移植し、手元で育てればいいものを、須藤はそうしなかった。
「家のなかに土があるとゴキブリ出やすいっていうし」
 襟足をさすりながら、あくびをするように理由を告げた。
「あそこの駐車場のあのあたりをわたしの領土としたんだ」
 襟足から手を離して言った。いいこと思いついたでしょう、という顔だった。
「わたしの菜園だ」
 腕組みをして、大きな目をくるりと動かした。左の泣きぼくろも一緒に動いた。
 草は鉄パイプに沿って一列に植えてあった。一度、案内されたことがある。花が咲いているものもあった。薄紫のちいさな花だった。野蛮なほど純真な香りがした。
 須藤の菜園は、須藤のアパートからよく見えた。
 青砥は二階のベランダの窓を開け、菜園を見下ろす須藤を見かけたことがある。
 駅前で同僚と飲み、自転車で帰る途中だった。深夜だった。「須藤、もう寝たかな」と須藤のアパートを振り返ったら、三階建てのアパートの二階の角部屋に灯りがついていた。自転車を停め、見上げたら、ベランダの窓が開き、須藤が顔を覗かせた。須藤の表情は、その夜の月に似ていた。ぽっかりと浮かんでいるようだった。清い光を放っていた。
「おまえ、あのとき、なに考えてたの?」
 後日、青砥は須藤に訊ねた。少し間を置き、須藤が答えた。
「夢みたいなことだよ」
 須藤は自分自身をもてなすように微笑し、繰り返した。
「夢みたいなことをね。ちょっと」