スタジオまでの廊下は長くて白すぎる。
踵を鳴らしているうちに、日常が床に塵のように振り落とされて、作られた顔になっていく。
Cスタジオに入り、渡されたマイクをジャケットの下から通した。本番五分前なのにスタッフたちがのんびりしていることが番組の低予算と低視聴率を物語っている。もっともタレントでもない身としては、これくらいのほうが気楽だ。
司会の森屋敷さんが口を開こうとしたとき、白髪交じりの前髪が一本だけ垂れた。
櫛を手にしたヘアメイクの子が素早く近付いてきて、撫でつける、というよりは押し付けると、森屋敷さんは紳士的な笑みを浮かべて、どうもありがとね、と片手をあげた。ヘアメイクの子は会釈して引っ込んだ。
「本番一分前でーす」
という呼びかけに、私はプラスチックの眼鏡を押し上げて姿勢を正した。
正面のカメラを見つめて息を吸い、森屋敷さんに合わせて、にっこり微笑む。
「こんばんは。育児にまつわる視聴者の皆さんの疑問や悩みに、わたし四児の父である森屋敷とお越しいただいたゲストの先生がずばっとお答えする、『子供が寝てから相談室』。本日のゲストはもうおなじみ、臨床心理士の真壁由紀先生です」
私は軽く会釈して、どうもこんばんは、とあえてフランクな挨拶をした。淡いパステルカラーのセットは保育園のようで、スタジオの眩しすぎる照明の下では今が深夜だということを忘れそうになる。
「真壁先生は日頃からカウンセリングを通して、ひきこもりのお子さんやその親御さんに向き合われているんですよね。真壁先生の目から見て、特になにか感じられることはありますか?」
私は表情を引き締めて、そうですね、と答えた。
「皆さん、愛とは与えるものだと思っていらっしゃいますよね。じつは、それが原因だったりすることもあるんです」
「え? いや、それは間違いなんでしょうか?」
「けっして間違いではないんですけど、正しくは、愛とは見守ること、なんです」
「しかし先生、見ているだけなら、いつまでたっても状況は変わらないんじゃないですか?」
「ひきこもりのお子さんを抱える親御さんに多いのが、過剰にお子さんに気を向けすぎてしまっていることなんです。それって一見、子供想いに思えますよね。だけどじつは親御さんが先回りしすぎることで、本人の自主的な意思を奪ってしまっている場合があるんです」
森屋敷さんは四角い顔で深々と頷いた。包容力を滲ませた表情につられるように、気付けば熱く語っていた。
収録は二時間ほどで終わった。
お疲れさまでした、と頭を下げて、スタジオを出る。控室に置いた革のトートバッグを回収して、テレビ用の眼鏡を外してケースにしまい、トレンチコートを羽織った。
テレビ局前のロータリーには一台だけタクシーが止まっていた。夜風に首を竦めつつ駆け寄る。
ドアが開いたと思ったら、先に中にいたのは森屋敷さんだった。
「お疲れさまです、真壁先生。今日のお話、うかがっていた私も大変興味深かったです。タクシー、待つのも寒いでしょうからよかったら一緒にどうぞ」
という提案に、私はお礼を言って乗り込んだ。
「こちらこそ今日も隅々までフォローしていただいて。森屋敷さんは、たしか麻布のほうでしたよね?」
「ええ。真壁先生のご自宅から先に行ってください」
ありがとうございます、と恐縮すると、森屋敷さんは堂々と
「夜遅いですから。女性は男が送らないと」
と言いながら足を組んだ。車内の暗がりでも、森屋敷さんの革靴は丁寧に磨かれて艶を帯びているのが分かる。
私は笑って、紳士ですね、と言った。
彼は、昭和生まれですから、と笑い返してから、ふと
「そういえば収録前に、あの事件の話をしていたんですよね。真壁先生がご本を書かれるかもしれない、とおっしゃってた」
と思い出したように言った。
「ああ、聖山環菜さんですか。そうなんです。出版社からの依頼で、本人の半生を臨床心理士の視点からまとめるという企画なんですけど」
「そうなんですか。そういうお仕事もされるんですね」
と訊かれて、私は曖昧に首を振った。
「初めてなので、まだ迷ってます。社会的にも意味のある仕事だと思いますけど、裁判に影響が出るとよくないですし、遺族の方の感情もありますから。そもそも企画が通るかも、まだ」
「そうですか。いやあ、びっくりする事件でしたね。アナウンサー志望の女子大生がキー局の二次面接の直後に、父親を刺殺して、夕方の多摩川沿いを血まみれで歩いてたっていう。しかも、あれが話題になってましたよね」
「あれ、というと」
「逮捕された後の台詞ですよ。『動機はそちらで見つけてください』だ。一部報道では、両親に就職を反対されてたなんて話も出てますけど、それだけで父親を殺して、警察に挑戦的なこと言うなんて、やっぱり、もともと殺人を犯すような要因が本人にあったんでしょうか。母親は今もショックで入院中だっていうし。うちも娘が二人いるから、他人事じゃないですよ。たしかに女子アナ志望だっただけあって可愛い子だけど、美人すぎる殺人者って週刊誌の見出しはさすがに悪趣味だなあ」
「そうですね」
と私は相槌を打った。明かりの消えた住宅街を抜けて、白い一軒家の前で降ろしてもらう。
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