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【第159回 芥川賞 候補作】『送り火』高橋弘希

2018/07/11 13:00 投稿

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 欄干の向こうに、川沿いの電柱から電柱へと吊された提灯が見え、晃が語っていた習わしを思い出し、足を止めた。河へ火を流すというのは、例えば灯籠流しのようなものだろうか――、過去に別の土地で、それを見たことがある。六角柱の灯籠の乗る小舟が、漂うように河を流れた。灯籠は百前後だったが、灯火は水面にも映るので、夜闇には実数以上の光があった。水面の灯籠のほうが、現実の灯火より鮮やかに見えることさえあった。この欄干の向こうの河を、日没後に沢山の灯籠が流れていく――、やがては灯籠が明け方の海へと辿り着く、その光景を思い描き、じりじりと頭を灼く陽光が和らぐ気がした。
「おら、島流し、なにぼうっとしてら。」
 作業着の男に急かされ、歩は橋架を渡った。作業着の男を先頭に、三人の学友が続き、歩は最後尾を歩いた。左手には山裾の森が続き、右手には乾いた畑が広がる。畑の畝には、掘り上げた馬鈴薯が一列に並んで野晒しになっていた。その馬鈴薯の表面の土も、もう白く乾いて砂になっている。瞼へ落ちかかる汗を手の甲で拭うが、次の汗が目に入り滲みる。瞼を擦りどうにか目を開けると、路傍の祠の銅板葺きの屋根が太陽を弾いて瞳を射た。
 その簡素な祠には、赤い前掛けをした地蔵菩薩が祀られていた。夏蜜柑が二つ供えてある。五穀豊穣を願ったものだろうか――、しかしその辺りは集落を区切る四つ辻にも位置していたので、道祖神かもしれない。男はその辻を折れ、山裾の黒い森へと進んだ。その頃にはもう、背後に聞こえていたせせらぎも途絶えていた。


 歩がこの土地を訪れたのは、未だ早朝には霜が降りる春先のことだった。商社勤めの父は転勤が多く、一家は列島を北上するように引越しを繰り返していた。そして東京での生活が一年半ほど続いたところで、再び転勤の内示が出た。今度は遥か北地の平川に勤めるという。歩はその地名を聞いて首を傾げた。地理は得意だが、聞いたことがない。津軽地方の幾つかの町や村が合併して、新しくできた市なのだという。父の役職から考えると、次期は東京本社で管理職として勤める可能性が高い。管理職への昇進前に、僻地へ飛ばされるのは社の慣例だという。単身赴任をする案もあったが、結局一家はこの土地へと越してきた。父の親戚が、平川からそう遠くない土地に空き家を所有していたのだ。父母は一軒家に憧れがあった。歩は二階の自分の部屋と、芝生の庭に憧れがあった。その親戚は、電話口で父に言ったという。
 ――人が住まない家はすぐ駄目になる、ぜひ使って欲しい、死んだ親父とお袋も喜ぶだろう。
 平川より更に北、山間に広がる集落の、東の高台に家はあった。玄関の磨硝子の引戸を開けると、冷ややかな木材の匂いがした。六畳の居室が三つ並び、その三つ目の部屋の隣に仏間がある。そこが仏間と分かるのは、角の一枚の畳が、ちょうど仏壇の形に褪せていたからだ。二階にもほぼ同じだけの広さがある。家族三人で住むには、些か広すぎる家だった。二階の東側の六畳間が、歩の自室になった。日当たりが良くて過ごしやすいでしょうと、母が決めた。越してきた翌日、その部屋に、学習デスク、スライド式の本棚、ライトブラウンのロフトベッドなどが、業者によって運び込まれた。他人の部屋に、自分の慣れ親しんだ家具が並べられていく。数週が過ぎれば、家具は部屋に馴染み、そしてここは自分の部屋になるだろうと思った。
 父は一足先に、この土地へ越してきていた。歩の転入学は学年変わりの時期がいいだろうと、一ヶ月ほど単身赴任の形を取っていたのだ。その父に連れられて、坂を下った先の川沿いにあるという公衆銭湯を訪れた。歩いて五分の距離で、入浴料も安い。銭湯に番台の姿はなく、入口に〝入浴料百円〟と記された木箱が置いてあった。父がその木箱に百円玉を二枚入れると、箱の中で小銭の音が響いた。タオルを片手に磨硝子の戸を開けると、湯煙の漂う浴槽には、二人の先客の姿があった。歩と同じ年頃の少年が一人、五歳ほどの男児の姿が一人。歩と父が浴槽へ浸かると、少年は気を使ったのか風呂から上がった。少し遅れて、男児も少年を追うように、風呂場から出た。
 銭湯からの帰りがけ、歩は珈琲牛乳を飲みながら、火照った顔で河を眺めた。父は隣で、やはり火照った顔で、フルーツ牛乳など飲んでいた。河辺は鉄柵で区切られており、柵の向こうは五メートル程の護岸壁になっている。河はその護岸の底を流れる。対岸は急峻な山の斜面と繋がっており、谷底を流れる河にも見える。山の落葉樹は、裸の梢に萌黄色の葉を僅かにつけたばかりで、未だ隙間が目立った。夏になれば、この山は緑の堆積を増すだろう。
 河面の所々では、巨大な岩石が顔を出していた。岩石の周囲で、水は流れたり滞ったりしている。せせらぎはそこから響いてくる。歩はふと、さきほど湯船に見た少年を思い出した。彼が中学三年生ならば、数日後には学校の教室で顔を合わせることになる。
「お父さんはもう、職場に新しい友達はできた?」
 歩が訊くと、父はなぜかくすくすと笑い、
「大人になるとね、友達になるとか、ならないとか、そういう関係じゃなくなってくるんだよ。」
「それって寂しい?」
 すると今度は困ったような微笑みを浮かべた後に、首を傾げて見せた。ときに母が見せる仕草に似ていた。父はフルーツ牛乳を一息に飲み干した後に、
「歩も新しい学校に、早く馴染めるといいな。」
 歩にとっては、三度目の新しい中学校だった。


※7月18日(水)18時~生放送

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