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ノートを机の上に見つけた吉川佐恵子は、何もかもを思い出した。
彼女は、どうしていつもならば電話を置く台の引き出しにしまわれているはずのノートが机にひろげて置かれているのか、自分が、なぜ何度もいまが何時なのか確認するように時計に目をやっていたのか、ということのすべての理由を思い出したのだった。
七十を過ぎた歳で、島の古い家でひとり暮らしつづけるうちに、彼女は何かと思い出すことが多くなっていた。思い出したことはわずかな時間だけ彼女の頭にとどまり、すぐに消えていく。
「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」
さらに彼女は、ほかならぬ自分がそう書いたページを見て、孫の稔が、きょうやって来るのだった、それをわたしは、すっかり忘れてしまっていて、あすの昼過ぎにでも、家族全員で来るのだと思いこんでいた、いや、ちがう。たしかに、きょうの朝のうちに美穂から電話がかかってきて、夕方にこちらに着く船に乗って稔ひとりでやって来るから、船着き場まで迎えに行ってやってほしい、と言われていたはずだったが、しかし、ほんとうにそう電話で話したのだったろうか?
たしかに、美穂は電話で、稔だけひとりで船に乗ってやって来ると言っていたはずだ……だが、まだ子供の稔をひとりで帰省させるなんて、危ないだろうに、どうしてひとりでこっちにやるのだろう? 美穂も、ほかの子供たちを引き連れて一緒に来れば良いものを。
いや、それはできないのだ。そう、美穂は言っていた。家族一緒には帰って来られない用事があったって、電話で言っていたはずだった。そうだ、そうだったのだと考えるのだったが、また、何気なく時計を見上げた彼女は、ついさっきまでいまが何時なのか気にかけていたというのに、驚いたように「おりょ! もう船の着く時間じゃなかね。早よう行かな、船着き場で会われんごとなる」とつぶやき、それまで座っていた薄暗い居間に置かれている安楽椅子から立ち上がろうと、手すりに置く両手に力を入れた。しかし、衰えた腕では、肥満した自らの身体を立ち上がらせることができなかった。
そうして、しばらくのあいだ彼女は暗い居間にある、棚や仏壇や、そこに置かれた夫の遺影や、何も映っていないテレビといったものを眺めながら、そのなかのどれかひとつでも、立ち上がるための役に立つものはないのか探してでもいるように視線をつぎつぎと転じる。すぐ前にある机の上には、やはり、さっきとおなじようにノートが置かれている――その瞬間、彼女の脳裏に、ガラス障子ごしに玄関の土間から居間へと差す弱い外の光が、ちょうど机の端に置かれているノートの上にまで伸びて、かろうじて自分の座る位置から書かれてある文字が見えていることに、何か意味があるのではないかという考えがのぼった。
彼女は再び、孫が夏休みを利用してひとりで帰省してくること、娘の美穂と彼女の夫、ほかのふたりの孫たちは一緒に来ないことを思い出した。また、どうして美穂が家族全員で帰ってこず、まだ子供の稔ひとりをやるのかという疑念を彼女は思い出し、何かしらの事情があって、みなで帰省できないことを、たしか電話で話していたはずだと思い出した。稔がひとりで来るのなら、ご飯はどうしようか? 適当に、家にあるものでも良いだろうか? それとも、船着き場に迎えに行ったあとにでも、どこかで買い物をして帰れば良いか。そうしなければ、稔もイカやアジやの揚げたものばかり食べさせられるのは、どうにも飽きるだろうから……と、また考えながら、今度こそとばかり、もう一度手すりに両方の腕の肘を置くと、彼女はそのままゆっくりと背もたれから身を起こした。そして今度は立ち上がろうとはせず、手すりを右手で持ち、全身を前に倒れこむようにしていきながら、慎重に畳に左手をついた。それから両方の膝、腰、という順番で椅子から身を離していき、彼女はすっかり畳に這った状態になった。
息をついて、手と膝と足の甲を畳に擦る音をさせながら机の傍まで這ってくると、その縁に手をかけて、「よいしょっと、こりゃ……ああ、痛さね」と言い、手首をさすりながら、ようやく彼女は立ち上がることができた。
机にはノートがひろげられて置いてあり、椅子に腰かけていたときよりも、そこに書かれた文字がよく見える位置に立っていたにもかかわらず、彼女は、どうしてノートがここにあるのだろうか、と訝しむのだった。けれども同時に彼女は、早く家を出て船着き場に向かわなければならないことを知ってもいれば、孫の稔が盆休みの時期を前に、家族の中でただひとり帰省するためにやってくることをも、知っていた。さらに彼女はノートのページに書かれた〈ミノル〉という文字を、じっと見つめているにもかかわらず、それにしても、浩が魚介類を少しも食べられないというのは、なんとも不憫なことだ、と、やってくるのは稔の兄である浩の方だと思いこんでいた。もっと早くに浩が来ると分かっていれば、それこそ、別の料理の下準備でもして待っていてやれたというのに、とさっきまで考えていたことを繰りかえし、彼女はノートをそのままに、机の端のお盆にのせてあった財布を取ると、その隣に置かれた手提げの鞄に入れて、また「よいしょ、ああ、痛さね」と口につぶやきながら、居間から上がり口にゆっくりとした足取りで歩いていった。上がり口から土間に足を降ろすと、「ああ、痛か! 痛さね……」と今度は膝をさすり、サンダルを履いた。そのとき、外からは船が港に入ってくるのを知らせる汽笛が鳴っていた。自らの足をさすりながらも、どうして中学生の稔がひとり帰省し、ほかの家族が帰って来られないのか、ということを、また彼女は思い出していた。
浩の目の手術があったばかりで、病院に通いづめになっている。だから、この夏はとても島に帰ることはできない。帰るとしても、日帰りで来ることになる。稔ひとりを先に帰らせて、わたしはお盆の最終日に迎えに来るから、どうか稔をよろしく、と美穂は言っていたのだ。そうだった、浩の目の手術があったのだ、そうだった。
※7月19日(水)18時~生放送
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