第一章 十二人の集い
一 集合場所
その建物は集う者たちの大半の予想に反して、ひどく明るく健康的な色彩を保っていた。
建物の外壁は優しく落ち着いたピンク色で、駐車場に面する方の壁は特に鮮やかな庭梅(にわうめ)色だった。一階部分の壁には、ところどころラベンダー色で親子のシルエットが施されていて、赤ん坊を抱く母親の姿や子どもたちが手を取り合って駆け回る姿が、もとはそこがクリニックであったことを示している。少し前に看板は撤去されたが、そこはかつて医療法人が所有する産婦人科・小児科・内科の総合施設だったのだ。
四階建てで、二階から最上階まで四つか五つの上品な白い格子のついた出窓が並んでいる。レースのカーテンもそのままで、なんとはなしに大きな揺りかごを連想させるようデザインされた窓たちだ。クリニックが謳う「出産と育児をサポートします」という言葉に信頼を与え、ここなら安心して子どもを産むことができると思わせるための造りだった。 表の玄関部分は半円筒形にせり出し、二階ロビー部分には正十字型をした大きなはめ殺しの窓があって、見る者は漠然と赤十字を連想することになり、これまたクリニックに信頼をもたらすシンボリックな仕掛けとなっている。
だがそうした仕掛けも間もなく別のものに作り替えられることになっていた。勤務者はおらず、来院する者もいない。医療法人が建物を手放したからだ。財政難に陥ったため別の医療法人に吸収され、働いていた者たちはここよりも大きな施設へ移り、より強力な信頼と安心をアピールする場所で奉仕することになった。建物は医療とはまったく関係のない映像製作会社に買われ、様々な設備を持つスタジオに生まれ変わる予定だ。
早期に売却が決定したため廃墟化して街の美観を損ねずに済んだことは、建物にとっても近隣の住人たちにとっても幸いであったろう。高価な機器や、放置すれば問題になる医療用器具や医薬品といった重要なものだけ運び出され、多くはまだそのまま置かれていた。
いずれ撤去されることになるロビーのベンチも入院用のベッドも今なお来院者を待っているかのように綺麗なままだ。購入した会社によって電気も水道も維持され、ロビー脇に設置された飲食物の自動販売機も稼働し、照明やエアコンの電源を入れることも可能だった。電話回線も新しいものに変えられてさっそく開通していた。これは建物のセキュリティ・システムを継続するために必要なものだった。屋内には昨今の病院ではあまり見られない喫煙所があって改築を請け負った業者の面々に重宝されていたが、それも病院本来のものだった。ご時世に従って撤去しようにも費用がなくそのままになっていたもので、つまりは屋内に喫煙所があるのが普通だった頃からある、古い病院であったことがわかる。
もともと立地が良いため、用もないのに駐車されることが多い敷地だった。それではクリニックが標榜する安心が損なわれるとして敷地を囲むフェンスが建てられ、建物には厳重なセキュリティ・システムが導入されていた。それらは製作会社にとってもありがたい設備であったし、地元の企業同士の親睦が厚い地域であったから、警備会社と製作会社の話し合いの結果、改修が始まるまでの短い期間もシステムが生き続けることになった。
セキュリティの暗証番号は今、0001になっている。これは建物を買い取った会社の担当者や改修業者が下見のため出入りするのに便利なためだ。セキュリティ・カードは発行されておらず、玄関と裏口の二つの出入り口は、簡単な暗証番号の入力によって開けることが出来る。厳重な警備とはとても言えないが、なにぶん改修前なので、近所のいたずら者や浮浪者が出入りするのを防ぐだけでよかった。
つまるところ、そうした大人たちの考えのお陰で、そこに集う子どもたちにとっても便利な状態が維持されていたのだった。
今、一人の少年が敷地に入った。午前十一時頃のことで、初夏の晴れた日だった。気持ちの良い天気で、涼しく心地よい風がそよいでいた。
入ったのは駐車場側のゲートからだった。表玄関側の門扉はチェーンで施錠されているが、駐車場側は自動車用のゲートしかなく、『立ち入り禁止』の看板をぶら下げたロープが膝上ほどの高さで張られているだけで、易々と中に入ることが出来る。
少年は駐車場を横切り、最短距離で中庭をぐるりと歩いた。裏口に回る途中に、座り心地の良さそうなベンチがあることを少年は知っていた。そばにはハナミズキが植えられており、心地よい木陰を作り出している。そのベンチに座ってこれから来る人々を待ち、いち早く目にしておくという考えがちらりと少年の脳裏をよぎった。それでベンチに近寄ったものの、結局そこに座ることはなかった。
敷地に入った後、建物を前にして心変わりする者がいないとは限らないのである。もしかすると建物に入る前にいったんあのベンチに座り、それから思い直して元来た道を戻って出て行く者もいるかもしれなかった。
それはそれで良いかもしれない。いや、良くないかもしれない。きちんとした選択がなされたのならいいが。ただ単に迷ったり怖くなったりして去るだけでは、きっといずれ同じような集いに参加する可能性が高いだろう。その結果、少年が入念に準備をしたここより、はるかに陰惨で救いのない場所に行ってしまうかもしれない。
それよりはこの建物に入るべきだろうと思った。建物の外にいる限り、そこは意思決定の境界線の外なのだ。境界線の内側に入って選択をすることに意味があるはずであった。
では、ここに座って、来る者を建物の中へといざなうべきだろうか。いや、それもまた選択にかかわることだ。小さな選択を重ねるよりは本人の大きな選択に委ねた方がいい。この病院にまつわる思い出が、少年にそう決心させた。
ほどなくして少年がその場を離れようとしたとき、地面に煙草の吸い殻が二つ落ちていることに気づいた。煙草についてはよく知らなかったが、見たところ同じ銘柄だった。
少年は昨日の記憶をたぐり寄せた。しっかり準備を整えて建物を出たとき、このベンチに座ってしばし眺めたのだ。自分が生まれた部屋の窓を。そのとき、吸い殻はなかった。
工事の業者の物ではないように思えた。彼らは屋内に喫煙所があることを知っているし、そこ以外で煙草を吸うことは昨今の風潮をかんがみて禁止されているからだ。
今日の集いの参加者の誰かのものだろうか。それとも近所の散歩好きの誰かが無人の庭に入り込んで、ゆったりと孤独なひとときを味わっただけだろうか。いや、孤独ではなかったかも。二本あるということは二人だったのかもしれない。
なんであれ建物に入れば分かることなので、少年はベンチに背を向けて裏口へ向かい、セキュリティ・システムに暗証番号を入力した。電動ロックがカチリと音を立てて開き、少年はドアを開いて建物に入った。
中は薄暗かった。もとは様々な事務手続をする場所で、ロビーの受付の裏側にあたる空間だった。来院者の個人情報が流出してはいけないので、すっかり片付けられていた。デスクも書類棚も大きな鍵付きロッカーも全て空っぽだった。
少年は左手の壁際へゆき、壁のスイッチに触れて電気をつけた。ついでに同じ壁にあるセキュリティ・システムのモニターを操作して各階の動作検知器や窓の開閉探知器が全てオフになっていることを確かめた。昨日、少年がまとめて切っておいたのだ。
それから配電盤を開いて各階の照明の電源をオンにしようとしたが、すでになっていた。少年はちょっと首をかしげてまた昨日の記憶を引っ張り出し、今の配電盤の状態と照らし合わせてみたが、自分は確かにオフにしたはずだと結論した。
事務スペースを出ると、そこは受付カウンターの内側だった。
キャスター付きの椅子が四つ、座る者とてなく空間の端に追いやられている。カウンターも片付けられ何もなくなっていたが、一つだけ本来そこにないものがあった。
黒い箱。ダイヤル式の小型の金庫である。少年はそれに歩み寄り、ダイヤルを回した。単純な組み合わせだった。右に1、左に2、右に1、左に2。12を二回。それで開いた。
中には、金属でできた十二の数字が時計回りに並べられていた。
古めかしい時計の数字盤から外したものだった。時計はこの病院のロビーにあったが、少年はその数字を全て外して金庫の中に並べた後、数字を失った時計もまたある種のシンボルになる気がしたので集いの場へ移動させていた。
集いの場へ赴く者は、一人ずつこの数字を『1』から順に手にする決まりだった。だが数字は全てあった。一つもなくなっていなかった。ということは予定通り、この自分が最初に来たことになる。少なくとも集いに参加する者たちの中では。
少年は数字の『1』を手に取り、ベンチの吸い殻と配電盤の電源のことを考えながらカウンターのスイングドアを開くと、落ち着いた足取りでロビーへ出ていった。
※1月19日(木)18時~生放送
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