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【第155回 芥川賞 候補作】『あひる』今村夏子

2016/07/11 11:59 投稿

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  • 第155回芥川賞

 あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来はわたしは知らない。
 前の飼い主は、父が働いていた頃の同僚で、新井さんという人だ。新井さんはわたしの家よりもまだ山奥に住んでいた。奥さんが病気で亡くなってからは、のりたまと二人暮らしをしていたのだが、隣りの県で暮らす息子さん一家と同居することが決まり、それでのりたまを手放すことになった。息子さんの家は庭も駐車場もない建売住宅だから、あひるは飼えないのだ。新井さんは、わたしの父にのりたまを託すことにした。
 うちには広い庭があった。好都合なことに、ニワトリ小屋まであった。
 とっくの昔にニワトリはいなくなっていて、小屋の中には錆びた農具が入れっぱなしになっていた。父はそういう必要のなくなったものを全部処分して、金網を新品に張り替え、壊れたカギも付け替えて、あひる小屋とした。
 ニワトリを飼っていたのはわたしがまだ小学生だった頃の話だ。くちばしで手の甲をつつかれて血が出て以来、小屋自体に近づかなくなった。毎朝生みたての卵を取ってくるのは弟の役目だった。
 二羽いたはずのニワトリがいつからいなくなったのかは覚えていない。死んだのか、手放したのか、食べたのか、どれも記憶にない。いつのまにかいなくなっていた。名前も付いてなかった。当然、ニワトリの顔を見るために、わざわざ我が家を訪ねてくるお客さんなどいなかった。

 最初のお客さんは、のりたまが初めてうちにやってきたその日の午後に、早速あった。
 二階の部屋で勉強していると、ちょうど下校時間帯なのか、外から小学生くらいの女の子の話し声が聞こえてきた。それがなかなか遠のいていかないので、不思議に思って窓の隙間からのぞいてみると、我が家のガレージの手前で、高学年らしき女の子三人組が立ち止まっておしゃべりをしていた。
「あひるだ」
「かわいい」
 と言うのが聞こえた。
 しばらくすると、彼女たちはその場でじゃんけんを始めた。そして負けた子が先頭に立ってガレージの横を抜け、家の敷地に入ってきた。
 ピンポーン、とチャイムが鳴ったあとに、玄関先で母の応対する声が聞こえた。あひる? いいよ。好きなだけ見ていって。
 あひる小屋の金網越しに、のりたまに話しかける女の子たちの姿が二階の窓からも見えた。「かわいい」と何度も聞こえた。母がそこまで出ているのか、この子なんて名前ですかあ? とひとりの子が大きな声で縁側に向かって聞いていた。
 なんだっけ、忘れたよ、と母はこたえた。女の子たちがそのこたえに笑い声をたてた時、のりたまが「ガッ」とひと声鳴いたので、その場でこの子の名前はガッちゃんだ、ということになった。


※7月19日18時~生放送

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