主張

集団的自衛権議論

砂川判決どこまでゆがめるか

 自民党の高村正彦副総裁らが55年も前の「砂川事件最高裁判決」(1959年12月)を持ち出して、集団的自衛権の行使を容認する「根拠」にしようとしています。しかしこの判決はどう読んでも、集団的自衛権の行使を正当化できるものではありません。「牽強(けんきょう)付会」(自分の都合のいいように強引に理屈をこじつけるとの意味)の主張としかいいようのない説です。

憲法学者も理解できぬ

 砂川事件とは、旧米軍立川基地(東京都砂川町=当時)の拡張に反対するデモ隊の一部が基地に立ち入ったとして逮捕、起訴された事件です。東京地裁が米軍駐留は違憲として無罪判決(いわゆる伊達判決)を下したのに対し、日米政府による介入でこれを破棄したのが「砂川事件最高裁判決」です。

 この判決の中に、「これ(憲法9条)によりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、…」「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」というくだりがあります。

 高村氏はこの部分だけを意図的に取り上げて、最高裁判決は個別的・集団的の区別をせずに「固有の自衛権」を認めた上で、国の存立を全うするために必要最小限度の自衛の措置をとりうると述べており、そこには集団的自衛権の一部も含まれると主張しています。

 しかし、高村氏の主張については、秘密保護法を容認している憲法学者からも「私が存じ上げるような学者の方でそういう議論をしている人はいない。なかなか理解することが難しい議論」だという批判が上がっています(長谷部恭男早稲田大学教授、3月28日の日本記者クラブでの会見)。

 実は、高村氏が取り上げる「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、…」という文章は、「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と続きます。この文章が、日本への武力攻撃に対する「防備」や「抵抗」、つまり個別的自衛権について語っているのは明白です。

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」というくだりについても、判決は、“憲法9条2項で戦力を保持しないことになっているが、これによって生ずる防衛力の不足を補うため、他国に安全保障を求めることは禁じられていない”という意味で書いています。

 憲法9条2項の戦力不保持規定による「防衛力の不足」、つまり個別的自衛権を行使する上での制約を、日米安保条約に基づく米軍駐留によって補うと言っているにすぎません。

根拠はどこにもない

 米軍駐留を違憲とした伊達判決を破棄した最高裁判決はそもそも不当なものです。しかし、そのどこにも集団的自衛権の行使を認める記述はありません。それどころか、「集団的自衛権が憲法9条の下で否定されているというのは、実は砂川判決からも出てくる話」(長谷部氏、同前)なのです。

 強引に力でねじ曲げたような理屈しか持ち出せないところに、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲の道理のなさが表れています。行使容認のたくらみはきっぱりと断念すべきです。