日本共産党の志位和夫委員長は13日、国会内で記者会見し、集団的自衛権をめぐる安倍晋三首相の答弁について、つぎのように述べました。
「海外で戦争する国」への暴走
安倍首相が、集団的自衛権行使容認にむけて、きわめて危険な暴走を始めています。
首相は、国会冒頭の施政方針演説では、集団的自衛権について「対応を検討する」との表現でした。
ところが、首相は、この間の国会答弁のなかで、「今までの(解釈の)積み上げのままで行くのであれば、そもそも安保法制懇をつくる必要はない」、「政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることで(行使容認は)可能であり、憲法改正が必要との指摘はあたらない」などとのべ、解釈改憲によって集団的自衛権の行使容認をすすめる道に、公然と踏み込みました。
これは、歴代政権の憲法解釈――現憲法下では集団的自衛権の行使は禁止される――を否定して、「海外で戦争する国」への暴走を開始しようというものであり、絶対に容認できません。
政府自身の「閣議決定」にも背いて
きわめて重大なことは、安倍首相が、「(政府の)最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」などとのべ、首相が自由に憲法の解釈を変更できるかのような発言を行っていることです。
これは、最高法規としての憲法のあり方を否定し、立憲主義を否定する、きわめて危険なものです。
政府自身、政府による憲法の解釈について、2004年6月18日付の「閣議決定」で、つぎのような立場を明らかにしています。
「憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきものであり、政府による憲法の解釈は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであって、諸情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えている。仮に、政府において、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをするとすれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねないと考えられる」
首相の発言は、歴代政権が、それなりに「論理的な追求の結果」として示してきた憲法解釈を、「今までの(解釈の)積み上げ」として否定し、首相が自由に憲法の解釈を変更できるというものです。
首相は、「選挙で審判」を受ければ、憲法解釈の変更が自由にできるかのようにのべていますが、時の政権が、選挙で多数を獲得すれば、憲法解釈の変更を自由勝手にできるとなったとすれば、憲法が憲法でなくなる――憲法としての最高規範性がなくなってしまいます。
首相の発言は、政府自らの「閣議決定」にも背き、憲法の最高規範性を否定し、「国家権力を縛る」という立憲主義を乱暴に否定するものといわねばなりません。このような乱暴な憲法破壊論は絶対に許されるものではありません。
保守政治なりの節度もご破算に
集団的自衛権と憲法との関係でいえば、2004年2月27日の参院本会議での答弁で、当時の小泉首相が次のようにのべています。
「解釈変更の手段が便宜的、意図的に用いられるならば、従前の解釈を支持する立場を含めて、解釈に関する紛議がその後も尾を引くおそれがあり、政府の憲法解釈、ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれることが懸念されます。その意味で、私としては、憲法について見解が対立する問題があれば、便宜的な解釈の変更によるものではなく、正面から憲法改正の議論をすることにより解決を図ろうとするのが筋だろうと私は考えております」
この小泉答弁は、同年6月18日付の「閣議決定」でも確認されています。わが党はもとより改憲そのものに反対の立場ですが、集団的自衛権のように、「憲法について見解が対立する問題」については、「便宜的な解釈の変更」をすべきではないという答弁には、保守政治なりの一定の自制や節度が働いていました。それをご破算にしようというのが安倍政権にほかなりません。
憲法破壊の暴走を包囲するたたかいを
安倍首相が、集団的自衛権の問題について、このような形で従来の憲法解釈の全面否定に乗り出したという重大な事態のもとで、日本共産党は、国会の論戦でも、国民運動でも、こうした憲法破壊の暴走に対して正面から対決し、国民多数の世論によって包囲するたたかいを、大いに進めていきたいと考えています。
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