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武田信玄という男をより味わうための参考資料、其の壱

2021/07/30 07:00 投稿

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山田玲司のヤングサンデー 2021/7/30

武田信玄という男をより味わうための参考資料、其の壱

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どーも、奥野です。


今週のヤンサンの「生誕500周年・武田信玄」特集をより深く味わう参考として、ここにざっと信玄にまつわるさまざまな情報を載せておきます。

これらはすべて東村アキコ「雪花の虎」の参考資料として俺が取材と考察を重ねてまとめたものを、今回のために編集したものです。

ぜひ一読して放送を迎えてくれればより楽しめるはず!


それでは其の壱、甲斐の国と武田晴信の年譜をどうぞ!!



①甲州、甲斐の国について

甲斐とは山の峡(カヒ)という、山に囲まれた地形という意味の、文字通り山に囲まれた盆地の国。

周囲を奥秩父山塊、八ヶ岳連峰、御坂山地、南アルプスなどの山々に360度囲まれた国で、一時期、市内に住んだ太宰治は、著書「新樹の言葉」の中で、「シルクハツトを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と表現した。

戦国時代の石高は甲州22万7千石。(太閤検地)

それ以前のものは国ごとになるので比較できないが、信玄の統治以前はもっと少なかっただろう。

当時の地政学的には東国に位置し、駿河、伊豆、越後などと共に東西の国境だった。

おそらく当時の日本では最も貧しい国のひとつ。

国府は甲府。

甲府は信玄の父・武田信虎がそれまでの石和あたりから移して開いた首府である。

山に囲まれた盆地の中に、川と湖、池が大小無数にある。

特に河川は、周囲の高山からの急流のためにすぐに氾濫するせいで水害が多い。

甲府中心部の標高は約250mから300mであるが、現在の甲府市域全体の標高差は大きく、最低部は市域南部の笛吹川付近の標高約245m、最高部は市域最北端、長野県川上村との境界にある金峰山の標高2,599mと実に標高差は2,350mに達する。

川が多いので東海道への水運は活用されていたが、塩は交易に頼る他なく、食料防衛策としても信玄は海と港の確保を目指した。

夏はひどく暑く、冬もひどく寒いが、雪はそこまで振らない。そのかわり、からっ風が厳しい。(甲府のタクシーのおっちゃん談)

飢饉、疫病、洪水、旱魃など毎年何かしらの災害が起きている。

それゆえ人口も少ない。(勝山記参照)

信玄が開発した金山が数山あり、甲州金という通貨を作るほど潤沢な産出量を誇った。

痩せた土地のため、稲作は適さない。

信玄が信玄堤などの治水事業を施すまでは作物もろくに取れない国であったが、施策以降は小麦や大麦、蕎麦、大豆、粟、キビなどの穀物と、八珍果と呼ばれた果物(桃、栗、柿、梨、林檎、柘榴、葡萄、胡桃)が名産となる。

特に小麦はホウトウのように独自に進化し、信玄が戦の携帯食として奨励したことで甲州名物となる。

ちなみに信玄の食事などを調べてみると意外にも海産物は多く、戦国時代の流通の発達がうかがえる。(甲州食べ物紀行参照)

馬、和紙、コウゾ、ミツマタ、材木、漆、炭、水晶などが名産で、馬以外はほぼ信玄が産業として奨励したものが今にも残る。

つまり甲斐とは、武田信玄が造ったと言っても過言ではないくらい、信玄の国なのである。



②武田晴信の年譜〜信玄と名乗るまでの軌跡

1521年

甲府は躑躅ヶ崎館の裏手、要害山城(積翠寺)で生まれる。幼名は勝千代。


1528年

8歳で長禅寺にて学問を習う。四書五経などは一年で暗記するほどの神童だった。


1533年

父信虎の馬、鬼鹿毛(オニカゲ)という名馬を欲しがり激怒され、殺されそうになる。


1534年

14歳で初婚(上杉朝興(扇谷上杉家)の娘、名前不詳)。二人は仲睦まじく1年後、夫人は間もなく懐妊したが、若すぎたせいか流産の折に母子ともに死ぬ。


1536年

1月、16歳で元服。当時としては遅い元服であったが、晴れて武田太郎晴信となる。

2月、海ノ口城の戦いにて初陣。真冬の戦でどうしようもなくなり、信虎は撤退を決める。そこでなぜか晴信が殿を勤め、撤退の最中に兵三百でとって返し海ノ口城を急襲。城主、平賀源心を打ち取る。

6月、京の公家・三条公頼の娘、三条の方と再婚。本場の公家文化を教えてもらうなど晴信の文化人的教養に多大な影響を与える。晴信にとっては再婚だがこちらも仲睦まじく、嫡男・義信や黄梅院など3男2女をもうける。


1541年

6月、父である信虎を駿河に追放。甲斐守護、武田大善太夫晴信となる。このとき晴信21歳。


1542年

8月、関東の有力大名・上杉憲実と通じた諏訪頼重を討伐すべく諏訪に侵攻。信玄堤の建設に着手。

12月、諏訪頼重の娘で“かくれなきびじん“、諏訪御料人を娶る。(1546年説もある)


1547年

6月、甲斐国分国法『甲州法度之次第』を公布。(甲陽軍鑑参照)

8月、碓氷峠で上杉憲実の軍を破り、志賀城を落とす。(上田井原の戦い)この時、合戦で挙げた首級300を志賀城から見える位置に並べ、恐怖を煽った。(3000という記録もあるが絶対にウソ。情報戦のための誇大喧伝)


1548年

2月、先年の志賀城の件で、武田に降伏しても殺されると感じた東信濃国人衆は頑強に抵抗。その反対勢力をまとめ上げた東信の雄・村上義清に武田軍は大敗。(上田原の戦い)村上義清のあまりの強さに板垣、甘利、初鹿野など、信虎時代からの股肱の重臣たちが次々と戦死。これが武田晴信の初めての敗北。

7月、弱った武田にここぞとばかりに攻めてきた信濃守護・小笠原長時を塩尻峠で破る。


1549年

国内を立て直しつつ西信(松本)へ侵攻。小笠原長時は村上義清を頼る。


1550年

再び村上義清の砥石城を攻めるがまたもや惨敗。世に言う砥石崩れ。晴信、2度目の敗北。


1551年

5月、真田幸隆の計略により砥石城攻略。その後、村上義清、小笠原長時と西信(松本)・東信(佐久・上田)をめぐって小競り合い。


1552年

12月、小笠原長時が長尾景虎を頼り越後に落ち延びる。


1553年

4月、武田方の猛威に村上義清の居城・葛尾城自落、村上義清は越後長尾景虎の元に奔る。義清と謁見した景虎は即座に川中島に援軍を派遣し、八幡で初めて激突(八幡原の戦い)。長尾軍の勢い凄まじく武田軍は押し込まれ、これにより越後方は村上領を奪還。景虎は役割を終えたとして越後に引き返す。それを見て一旦深志城(松本)まで退いていた晴信は、体勢を立て直しじわじわと東信を制圧。

9月、村上義清は景虎に再度出兵を依頼し、景虎出陣(布施の戦い)。何度かの小競り合いの後、またも長尾軍が武田軍を押し込むが、上洛が迫っていたため景虎は兵を退く。晴信は塩田城までに兵を退き、塩田城は武田が、葛尾城は村上義清が領有する。(第一次川中島の戦い)


1554年

3月、武田晴信、今川義元、北条氏康、互いの子供を婚姻させ「甲相駿三國同盟締結」。(善徳寺の会盟)


1555年

4月、後顧の憂いをなくした晴信は再び川中島へ。それを受けて景虎も雪解けを待って出陣。善光寺に陣を張り、犀川を挟んで対峙する。

5月、武田が築いた旭山城に対抗してその真向かいに葛山城を築城し、長尾側は付け城戦術で対抗。長期戦を余儀なくされる。そのまま大した合戦もなく100日余りが過ぎる。(第二次川中島の戦い)

8月、晴信は川中島で景虎と対峙したまま南信(木曽)へ侵攻。

10月、今川義元の仲介によって和睦。双方兵を退く。第二次川中島の戦い終結。(諏訪姫の容体が悪くなったことが晴信を和睦に導かせたという説も)その中で景虎は善光寺を越後に移す計画を発令、先ずは本尊を移し、住民は自由意志で移住を認める。越後善光寺の建立となる。

11月、武田軍、木曽を平定。諏訪御料人、病死。


1556年

3月、伊那郡へ侵攻、平定。

これにより武田軍の信濃平定まで残すは北信4郡(善光寺平)のみとなる。


1557年

3月、晴信は雪によりまだ景虎が動けない時に北信濃へ侵攻。信濃平定の総仕上げに取り掛かる。

4月、調略で北信国人衆(川中島衆)を離反させつつ、北条の要請により西上野の長野業正を攻める。その最中、川中島衆の高梨政頼が景虎に救援を求め、雪解けを待たず深雪を侵して景虎が動く。その報を聞き、晴信はすぐ深志城(松本)へ引き返す。景虎はまたしても善光寺に布陣し睨みを効かせる。(第三次川中島の戦い)

8月、仏の顔も3度までと激怒した景虎は、川中島の諸城を取り返すとそのまま上田方面まで深入りする。そこに北条氏からの援軍・北条綱成が兵を率いて上田に駆けつけ、両軍膠着状態に。それでも深志に引きこもる晴信の徹底的な穴熊戦略により、各地で小競り合いはあれど大規模な戦闘にはならず。

9月、上田まで前線が伸び切った長尾軍は冬の到来に備えて晴信掃討を諦めるが、今回は川中島に多くの兵力を残して飯山まで撤退。

10月、それを見届けて晴信も甲府へ。援軍の北条綱成も撤退。冬になっても大局的な膠着状態が続いたまま越年となる。

11月、北条氏政の正室となっていた娘、黄梅院の安産を祈願し、富士山麓にある浅間神社18社すべてに願文を捧げる。さらにその10日後、安産がなった暁には船津の関所を撤廃させると祈願。


1558年

1月、晴信は幕府の斡旋で景虎と和睦。北信濃を越後と分割統治することを誓い、正式に信濃守護を補任される。これは将軍・足利義輝が景虎に軍を率いて上洛してほしいがための斡旋であった。これにより第三次川中島の戦い終結。

9月、戦後統治のどさくさに紛れて善光寺を甲斐に移す。本尊は越後にあるので晴信は秘仏を持っていく。景虎と違って住民や僧侶は強制移住、その伽藍ごと解体して移し、甲斐善光寺を建てる。


1559年

2月、晴れて信濃守護となり善光寺も手に入れた晴信は、これを機に出家を決める。岐秀元伯の元で得度し「徳栄軒信玄」と号する。この時、数え年で信玄39歳。つられて山本勘助、真田幸隆、原虎胤も出家。これは信濃国内の仏教勢力との融和策でもあったか。

5月、上洛した景虎の隙をついて密かに海津城築城開始。普請役は山本勘助と春日虎綱。この海津城築城により宿命の「第四次川中島の戦い」へ、カウントダウンが始まる…。



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企画編集:奥野晴信
     平野建太

発  行:合同会社Tetragon
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