向いていない競技
とにかく人生は不公平に満ちている。
見た目や親の資産、生まれた土地、諸々の才能は、基本的に「生まれつき」決まってる。
努力や選択の余地もないので、これは「運」としか言いようがない。
ディスカバリーレイジチャンネルで「人生の構造」について考えてて思ったのは、この「運の問題」だった。
世の中には「生まれながらに足の速い人」がいるし「生まれつき本が読めない人」もいる。
例えば「生まれつき足の速い子」がいて、その子の親がスポーツ選手か何かで「足の速いこと」が最高の価値だと思っていたらその子は運がいいと思う。
ところが。そういう親の家に「読書が好きな子供」が生まれる事もある。
速く走る事なんかより本を読む事が好きで、本を読んでいるだけで親は「この子は部屋で本ばかり読んでいる」と、嘆いたりする。
「自分が苦手なもののレース」で自分の価値を決められるのはかなりしんどい。
【出る気のない競技に出される】
僕は「体育の授業」というのが大嫌いだった。
喘息があるので、寒い日なんかに運動すると、とたんに呼吸困難になる僕は、そもそも「身体を鍛える」なんて事ができない。
なので当然どんな競技に出されても良い結果なんか出ない。
ところが「その場」は運動神経のいいヤツが偉い、という価値観が支配していて、相手の事情がわからない連中が「出来ない人」をバカにして笑う。
学校という場所は「自分に向いている競技」を発見する場所でもあるので、体育の機会があるのはいいと思う。
でも明らかに「向いていない」とわかった時は、無理にその競技をやらせる必要はないだろう。
日本に生まれると無条件で9年間も「体育」につき合わされる。高校まで入れると12年だ。
「健康のため」とか「いずれ良さがわかる」とか言う意見もありそうだけど、僕には無駄で不快感だけを残した時間だった。
【チャーリーとチョコレート工場】
この問題を見事に扱った映画がある。
小説が原作の「チャーリーとチョコレート工場」だ。
この作品には夢のチョコレート工場を見学する「親子たち」が登場する。
多くの親が「自分の偏った価値観」で子供を教育(支配)していて、子供たちは「その価値観」を疑うことはない「洗脳状態」にある。
他の子より何でも優秀である事を母親に求められた少女は「人に負けないため」に何年もガムを噛んでいる。
それぞれが「親の求める価値観」で他の子をバカにする。
何が自分に向いているか?なんていう選択肢は与えられないまま「親の思うまま」に育てられている気の毒な子供達。
そんな「選べない競技」に出されている「ペット」にされた子供と、それを「いいこと」だと信じている哀れな「飼い主」
そんな親子を見事に風刺している。
思い切り笑える映画だけど、語られている事は深刻で笑える話ではないと思う。
「他の子より優秀かどうか」という価値観で育った子供は、大人になってから「この人は私より優秀かどうか?」という目で出会う人を常に「審査」「評価」する人になる。
チョコレート工場の主人公の男の子は、幸いにも「人に優しいことが価値である」という家に育っている。
彼の家は貧しいけど、そんな彼の価値観が幸せを生んでいく話になる。
【それぞれの競技】
人はそれぞれ「人間を計るモノサシ」を持っている。
そのモノサシには色々あって「収入」で人を計る人もいたり、「見た目」だけで計る人もいる。
色々な要素を考慮した「総合評価」であるのは基本だけど、どのモノサシが重要かはその人によって違う。
もちろん「人の価値は見た目で決まる」というモノサシを持ってる人がいてもいいと思う。
でも、もし自分が「見た目の事」なんかより「キノコに詳しい事が大事」という人だった場合、「見た目モノサシ」の人に合わせて自分を測る必要はない。
「モノサシ使用」の最大の問題は、競技に出る気のない人達まで「自分のモノサシ」で計って優劣をつけようとする「病」だろう。
【イケてるやつ】
最近はあまり聞かれなくなったけど、ある時期から「イケてる」という評価がモノサシの主流になった。
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