佐倉視点
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 夢をみていた。
 幼いころの夢だ。

       ※

 当時の私は、両親から勧められたピアノ教室に通っていた。
 私はピアノが嫌いではなかった。
 下手なりに技術が向上するのはカタルシスだったし、褒められると単純に嬉しかった。
 でも、ピアニストになりたい、とは絶対に思わなかった。人前に出るのが苦手だ。綺麗な格好をしてステージで演奏するなんて、なんとしてでも避けたいことだった。
 なのに。
 ――今年のパーティでピアノを弾かないかって、頼まれてるのよ。
 と母が言った。
 パーティというのは、ホテルで開かれるクリスマスパーティのことだ。私は毎年、それに参加していた。
 ――大丈夫よね? みさきはピアノが上手だから。
 嫌だ。大丈夫じゃない。
 本当は首を振りたかった。
 でも自分のことのように嬉しそうに笑う母の顔をみると、否定もできなかった。わかった。がんばる、と私は応えた。
 後悔先に立たず、というけれど、頷く前にもう、後悔することはわかっていたように思う。

       ※

 パーティ会場についたときには、がちがちに緊張して、まともに人の目を見て喋ることもできなくなっていた。元々、愛想よく振る舞うのは苦手な性質だ。社交的だった姉さんとは違う。
 会場の入り口ではパーティのプログラムが配られていた。
 そこには、はっきりとした文字で私の名前が記載されている。細い明朝体のフォントが、鋭利な凶器に思えた。私の心に刃を立てる。
 プログラムがひとつ進行するごとに、私の発表が近づく。
 苦しかった。
 鼓動さえ私を痛めつけるようだった。
 上手く息を吸えなくて、私は下唇を噛んでいた。
「大丈夫?」
 とお母さんが尋ねる。
 大丈夫なはずがなかった。
 私は、無理に笑って、
「平気だよ」
 と答えた。
 なぜそんな嘘をつくのか、自分でもよくわからなかった。嘘だと見破って欲しかった。
 なのにお母さんは、「そう、がんばってね」と笑って、別の大人と話し込んでしまった。
 あんまり苦しくて、私はパーティ会場を抜け出す。
 洗面所に行くと、鏡でみる佐倉みさきは、白いお姫様みたいなドレスを着ていてまったく似合っていない。もっと怯えた顔をしているものだと思っていたけれど、そこにあるのは無表情で、この苦しみさえ他人事みたいで、やるせなかった。
 私はそのままパ-ティ会場の部屋には帰らず、その隣にある扉を開いた。扉はやけに重たく、ドアノブは冷え冷えとしていた。
 室内は狭く、暗い。
 部屋の隅に膝を抱え込んで座った。
 あんなに重たい扉を抜けて、会場からはプログラムの進行を告げるアナウンスが聞えてくる。私は必死に、耳を塞ぐ。
 スポットライトなんて求めていなかった。みんなの義務的な拍手なんて聞きたくなかった。指は凍えたように冷たくて、鍵盤を押せるはずもなかった。
 助けて、と何度も叫ぶ。
 もちろん声には出せないまんまで。
 心臓の音だけがうるさくて、耳を塞いでいるのにそれはなくならない。
 真っ暗な床をじっと見つめて、どれくらい経っただろう、キイと扉の開く音がした。

       ※

 私は驚いて、そちらを見る。白い光が差し込んでいる。
 くっきりとしたシルエットは、大人のものじゃなかった。私と同じくらいの背。
 目が慣れるまでの数秒、逆光で顔が分からなかった。
 彼は言う。
「こんなところで何してんだよ?」
 その声を聞いてわかる。久瀬くんだ。
 年に一度、このクリスマスパーティだけで会える男の子。
「待ってるの」
 と、私は答えた。
「なにを待ってるんだよ?」
「なんだろ。よくわかんない」
 順番が回ってくるのを? そんなわけがなかった。
 でも私は待っている。なにを。わからない。 
 扉が閉まる。久瀬くんが近づいてくる。
 私はうつむく。
「もうすぐ、ピアノを弾くんだよ」
「ピアノ?」
「うん。舞台で」
「すげぇじゃん」
「すごくないよ。たぶん失敗するから」
「どうして?」
「どうしてかな。ぜんぜん弾ける気がしないの」
 また。
 隣のパーティ会場から、プログラムの進行を告げるアナウンスが聞こえた。
「次の、次だ」
 確認するように呟き、うつむいた。
「お前、ピアノが嫌いなの?」
「ううん。好きだよ」
「でも、なんか嫌そうだぜ」
「うん」
 ――助けて。
 と私は叫ぶ。もちろん胸の中だけで。
「いろんな人にがんばれって言われたら、嫌になっちゃった」
 がんばれなんて、自分勝手だ。
 私を苦しめないで欲しい。私に押しつけないで欲しい。
 声に出して、そう言えたらいいのに。でも私にはそれができない。
「そんなとき、どうしたらいいか知ってるぜ」
 久瀬くんが手を差し出す。
 私は、びくっと身体を震わせる。
「泣くなよ。いこう」
 顔を上げる。うっすらぼやけた視界の向こうに彼がいる。
 私は彼の手をとろうとして、右手をあげて。でも途中で躊躇って、宙でとめて。
 彼はその様子をみて、なんだか不器用にみえる顔で笑った。
「いくぞ」
 そして強引に、彼は私の手をつかむ。
 瞬間。
 どうしてだろう? 涙が滲んだ。
 彼の手のひらは暖かくて。それはとても暖かくて。
 どうしてだろう、これまでとは違う、なんだか懐かしいリズムで一度だけ、胸が鳴った。
読者の反応

コウリョウ @kouryou0320 2014-07-28 10:05:22
起きたら久瀬くんのイケメンエピソードが来てた〜  


しながわりんこ @yuzuyuzuyuzuppe 2014-07-28 10:11:36
ピアノかぁ 演奏は好きだけどコンクールはそんなに好きじゃないって人けっこういるかも  


闇の隠居 @yamino_inkyo 2014-07-28 10:14:43
少年ヒーローの動画はこれを描写してたのか~  





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