高校雑誌と『マイアニメ』の話

学研の高校雑誌編集部では『高1コース』の記事と『高3コース』の受験情報が担当だったのは前述の通り。一応タイムカードがあって、サラリーマンのように当時の学研本社、東急池上線の中原からしばらく歩いたところの大雪が降ったときは社員が滑って骨を折るような坂が脇にあるビルに通いました。もっとも、社員じゃないので月に○日以上来るように、という条件でした。

『高1コース』では原稿取りから記事書きまで、記事も毎月違う内容でエンタメ系から日常ノウハウ系まで。原稿を取りに行くといっても、相手は学校の先生が多く、学校の受付で封筒を受け取るだけ。作家先生の原稿は基本的になし。受付だけとはいえ平日の女子校なんてのはなかなかに入りづらいものでした。

一度だけだったと思うけど、『高1コース』でイラスト描きが急遽必要で、いつもなら漫研に依頼するところだけど、内容が漫研向きじゃなかったので萩原一至に頼んだことがあったはず。いつの何号かは忘れたけど、これは確実に手元にない。あれば貴重品だろうなぁ。

出回り始めていたワープロの記事を担当したとき、いろいろと機能を比べてあれこれ書きました。そこで、日本語書きの自分用には親指シフトがよかろう、とOASYSを選んだんですよね。今も親指シフターです。

学研の仕事は毎月上旬がメインで、15日くらいにヤマを越す。そのあとが『マイアニメ』のヤマ場。こちらは20から25日くらいだったはず。飯田橋の秋田書店に通う必要はなく、作業は基本的に家で進めるわけですが、締め切り間際では秋田書店近くの喫茶店でもよく使いました。

この『マイアニメ』での担当が、あまり表に出たがらない、初期のヲタク系人脈の中核にいる人物。その人脈が活かされて『マイアニメ』はアニメ誌の枠を超えてヲタク文化を開拓していった。この人が命名したわけではないもののコスプレを早くから誌面に載せ、模型関係も充実させ、SFや特撮も扱った。個人的には紹介していただいた先輩と合わせてのお二人が一番の恩人。