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山田玲司のヤングサンデー 第77号 2016/3/28
死ぬ時の「後悔」を減らす方法
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とはいえ、どうあがいても18歳の夏には戻れないってのも確かな事実。
その件に関する1番簡単な対策が、日々を写真に残すことだと思う。
もう1つ、僕にとっての「漫画を描く」という行為もまた、人生の時間を閉じ込めておく行為の1つだった。
先週我らが「ドレスコーズ」のライブに行ってきました。
そうは言っても1万年もすれば誰も彼もいなくなって、「何かを後世に残そう」なんて思い上がった欲望も塵となるわけです。
僕には1つ大きな悩みがある。
まあ、悩みは1つではないんだけど、自分の人生を支配している「最大の悩み」
それは「いつか自分は死んでしまう」という事です。
ふふ。
まあ、当たり前の話なんだけど、この問題は解決できない。仏教でも「生老病死」という、あらかじめ避けられない人生の苦しみとして「デフォルト設定」にされている。回避不可の問題なのです。
そんな「どうにもならない事」に頭をつかうのは時間の無駄だとわかっていても、考えずにはいられない。
何でこんな人間になったのか?と考えると、以前も書いたんですけど、どうも僕には2つの理由があるらしい。
まずは子供の頃に大人から言われた「人生は2度と戻らない日々の連続で、こうしている今も2度と戻らない時間が過ぎていってるんだよ」という言葉。
この話のインパクトによって、僕にとっての「過ぎゆく時」が強迫観念になっている気がする。
もう1つは「曾祖母の死」に立ち会った経験。
僕が小学生の時に母の実家で曾祖母が「僕に話がある」と言って、翌日に他界してしまったのです。
「明日また会えるから明日聞こう」と思っていた僕に、その「明日」は来なかったわけです。
そんなわけで、僕にとってすべての瞬間が「帰らざる時」として感じられてて、過ぎていく時間がいつも切ないし、なんとなく無駄に時間を過ごす事も辛い。
それは今も変わることがなくて、こうしている今も「2016年の3月」という2度と帰らない時間を噛み締めながら生きているわけです。
こういうタイプの人にはわかってもらえると思うんだけど、「2度と戻らない日々」を意識して生きていると、夕方目覚めたりした日の気分は最悪です。
そういう日は前日に充実した時間を過ごしたり、それなりにやるべき仕事はこなしているんだから何も凹むことなんかないんだけど、それができない。
そんなに張り詰めなくてもいいってのはわかっているなのに。
18歳の夏はどうしていた?
とはいえ、どうあがいても18歳の夏には戻れないってのも確かな事実。
今日という日が「2度と戻らない貴重な時間」であることは間違いない。
人間てのは誰もが「明日も同じような感じだろう」と思いながら、ある日突然歩けなくなったり、息ができなくなる日を迎える生き物ですからね。
こうなるとせめて「私は18歳の夏にベストを尽くした」と思えるかどうか、だろう。
できる事はそれくらいしかない。
もしも「あの時ああしておけば良かった」なんて思いばかりだと、ある日訪れる「普通の日々の終わり」は切ない事になる。
まだ「18歳の夏限定」ならいいけど「10代後半から30代全域において後悔しかない」なんて人生だとかなり切ない。
「そういう人」は後悔を続けていても「平気だった人」だと思うので、逆に「楽観力」に長けた人なのかもしれない。
でもなんとなく「油断していただけの人」だとしたら悲しい。
とにかく18歳に限らず、34歳の春だって貴重な「2度と帰らない時間」だ。
ベストを尽くすしかないけれど、それでも時は過ぎていってしまう。
この切なさを和らげるにはどうしたらいいのだろう?
「この瞬間」を閉じ込める方法
その件に関する1番簡単な対策が、日々を写真に残すことだと思う。
今の人達がやたらと写真を撮りたがるのも共感できる。特に「美味しいものを前にした時」とか「みんなと楽しく過ごしている時」なんて「人生のいい時間」を残しておきたくなるのは当然だ。
僕にとっても、写真や動画は「戻らない瞬間」が消えていくダメージを減らすための「抵抗運動」だった。
少なくともその写真の中には「あの日の時間」が閉じ込められている。
そして肝心なのは、その時の自分が何を見ていたか?何を選択していたか?がわかるという事だ。
空を見ていたのか、人を見ていたのか、ご飯を見ていたのか、全てが写真に残される。
それは、その時の自分が何にときめいていたのか?という証拠素材だし、自分が世界をどう見ていたのか?という記録でもあるのだ。
「作品」に刻む
もう1つ、僕にとっての「漫画を描く」という行為もまた、人生の時間を閉じ込めておく行為の1つだった。
僕には18歳の時に描いた漫画が残っている。
18歳の時に撮った写真もある。回避不可能な「終わり」は待っているけど、少なくとも僕はこうして生きてきた、という証拠は残っている。それがある分だけ切なさや後悔が減る気がするのだ。
なので「作品を作る」というのも、「終わり」を迎え撃ついい方法だと思う。
「昔の俺」が作った「今の俺」
先週我らが「ドレスコーズ」のライブに行ってきました。
今回の志磨遼平(ドレスコーズ)は古くからの友人のバンド「お伽話」と共演をしていて、彼が過去に作った曲の中で比較的「地味な扱い」をされていた曲を中心に見事な演奏をしてくれました。
それらの曲達は僕にとっても懐かしい「あの頃聴いていた名曲達」です。僕が本当のどん底気分で聴いていた曲もある。
その曲を作った遼平はステージの終わり近くに「昔の俺すげえ・・」と言いました。
「こんなすごい曲を書いてきた昔の自分は凄い」と言うわけです。
僕も去年の公開放送で「ヒーローとは昨日までの自分」と言ってましたけど、まさにこのことです。
「俺はこれをやってきた」と、自分に思わせてくれるのが「過去の作品(自分)」です。
たとえそれが作品になっていなくても「あの時自分はベストを尽くして生きてきた」と思えれば、「その頃の自分」は「今の自分」を支えてくれているわけです。
「食べてきたもので自分はできている」と言いますけど「今の自分」とは、昨日までの自分が作った「作品」なんですよね。
写真は時空を超える
そうは言っても1万年もすれば誰も彼もいなくなって、「何かを後世に残そう」なんて思い上がった欲望も塵となるわけです。
それでも自分が生きているわずかな間くらいは、同じ時代に生きた人たちや、少し後から生まれてくる人たちなんかと「自分の見た何か」を分かち合いたいものです。
その1番手軽な方法が「写真」で、今回の放送で多くの人が写真コンテストに参加してくれたのも、それが手軽になったからだと思います。
みんなの写真はそれぞれに価値観や美意識が出ていて、まるで「その人」に会っているみたいな感覚で楽しかったです。
饒舌な人もいれば、寡黙な人もいて、写真は本当に「その人」を現してしまうものです。
アートっぽく気取るのもいいし、思い出アイテムとして集めるももいいでしょう。
どっちを選択したかも含めてそれが「その時の自分」なのですから。
あの日の「JOY?」
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