井上雄彦の漫画には「勝つんだ」というセリフがよく出てくる。
彼はスラムダンクの頃から、本気で勝負している主人公に対して「バスケなんて楽しけりゃいいじゃん」というキャラを出して、その対立の中で「やるからには勝ちにいけ」というメッセージを描いていた。
彼は漫画の中で何度も「生きているなら本気で生きろ」と言っている。
僕もそんな彼の主張には共感していて、同じように「本気でやる」ことが大事で、ボロボロになっても諦めないことが「かっこいい生き方」だとずっと思っていた。
そんなわけで、僕の漫画の主人公もまた「ずっと本気で勝とうとする」のヤツばっかりだった。
なんなら寝ないし、物語の後半になると、ほぼ必ずと言っていいほど主人公は血を流している。
それくらい本気に生きないと、先祖に失礼だし、自分のせいで犠牲(食料)になった生き物達にも失礼だと思っていたわけだ。
とはいえ闇雲に「トップ」なんてものを目指して生きていると、良い時もあれば悪い時もある。
おまけに「今回は勝ったぞ」と思っても、常に新しい敵が現れるので、戦いは終わらない。
「俺が1番になるんだ」なんていう生き方を続けるのは、毎日「天下一武道会」に出ているようなもんで、とにかく休まらない。
僕のいる「漫画業界」とはそういう所だ。
雑誌であれば容赦のない人気投票にさらされるし、それをクリアしても単行本が売れないとそれでもう先がない。
いい漫画であっても単行本が売れなければ連載はできないのだから、この武道会(漫画業界)で息を抜くなんてことは許されないのだ!
・・・なんて、気分になるのがこの世界だ。
でも、最近の僕は色々考えが変わりつつある。
過酷なトーナメントの世界
今回2007年頃に始まった「3月のライオン」と「ハチワンダイバー」という漫画について、時代背景を絡めて分析していて思ったのが、とにかく「苦しい」という感覚だった。
これはこの両作品がどうという話ではなく、この時代に強烈にあった「負けたら終わりなんだ」という空気を思い起こさせるからだと思う。
放送ではあまり触れなかったけれど、この時期は「バトルロワイヤル」と「カイジ」も大ヒットしていた時期だった。この2作は更にハードな命がけのトーナメントの漫画だった。
この時期の日本は、表では「ゆとり教育」「癒やし」「昭和30年代」「ナンバーワンよりオンリーワン」みたいな雰囲気もありつつ、実際は「負けたら死ぬよ」という空気が人びとを追い詰めていた。
当時の小泉政権も庶民には「痛みに耐えろ」と言いながら、一方では巨大企業を救っていた。
そもそも日本は、国民全員が生まれてすぐに「学歴(収入)トーナメント」に参加させられる国なんだけれど、そのレースがバブル崩壊の回収の放棄で、最も熾烈になっていたのがこの時期だったのかもしれない。
何しろ政府は「弱者を助けない」と宣言していたし、バブル崩壊で民間企業はバタバタと倒れていた。
こうなるとみんなが「トーナメント」に真剣にならざるをえない。
そんな空気がこの時期の漫画にも出ていたのだと感じる。というか、こういう過酷な漫画がこの時代に選ばれたのには、こんな時代背景があったというわけだ。
「本気」はいいけど、「負けたら終わり」はおかしい
そんなわけで、ハチワンダイバーは特に「苦しい」漫画だ。
真剣師は本当に真剣で、負けたら身ぐるみ剥がされるだけでなく、本当に死んでしまう人まで出てくる。
3月のライオンには「本気で勝負する男たち」を受け入れる女達がいるので、まだ救いを感じるんだけど、それでも「限界まで戦って敗れていくおじさん達」には救いがないようにも見える。
それは奨励会制度という「負けたら終わり」という舞台を選んでいるので仕方がないんだけど、せっかく好きな将棋の世界でプロになっても、何だかみんな幸せそうじゃない(印象だけど)
確かに僕は本気でやればそれなりに満足がいく人生になるのを知っている。
でも、本気で勝負に出て負けた人間に対する世間の「不当な扱い」も知っているのだ。
負けたら「自分には価値がない」という思いにさせられ、そんな気分が「勝つまで」続くのが「トーナメントの世界」なのだ。
でも、これってどうなんだろう?
そもそも、真剣勝負して負けた人間は、勝負すらしなかった人間より価値があるはずだ。
1度負ければ、その間違いは身体に刻まれ、立ち上がればその人は、以前より「強く」なっているだろう。
こういう疑問は井上雄彦も感じていたのか、バガボンドでは「トーナメントの先」を描いている。
「本気で生きる」のはいいけれど、「楽しむな」というのは変な話なのだ。
俺たちは負けてもいいし、楽しんでもいいはずだ。
そんな事を考えていたら、ONE君の漫画を思い出した。
「世界征服なんかしても、モテませんよ」っていう例やつだ。
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