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山田玲司のヤングサンデー 2021/7/30

武田信玄という男をより味わうための参考資料、其の弍

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続いて其の弍、武田家臣団の肖像



①武田家臣団仕分け

武田家臣団をざっくり分けると…


信虎代からの武将

板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、原虎胤、駒井高白斎、横田高松など


晴信代からの武将

山本勘助、教来石景政、飯富昌景、真田幸綱、真田昌幸、春日源五郎、工藤祐長、望月千代女、秋山虎繁など


親族とその他

武田典厩信繁、武田孫六信廉、大井夫人、三条夫人、諏訪御料人、岐秀元伯、快川紹喜など



②武田軍主要登場人物

(アイウエオ順に並べてあります)


板垣駿河守信方(いたがき・するがのかみ・のぶかた)

1485年生まれ。信虎の頃からの武田家重臣。晴信の守役。初代武田四天王のひとり。

飯富虎昌や甘利虎泰とともに信虎を追放する。

諏訪攻めの総大将を務め、諏訪城代に任じられる。

晴信の守役だったこともあってか、武田家筆頭の宿老となるが、上田原の戦いで先陣を務め戦死。享年63歳。

強面。ヒゲはあってもなくてもいい。石橋凌みたいな。ここでは44歳。戦は強いが普通の人。

無骨で不器用で情が深い。でも晴信の繊細さがわからない。うまく距離がとれない。

守役として勝千代に武芸を教えたいのだが本人があまり興味がなく、花や歌やおとぎ話を好み、女子のようにたおやかで気まぐれで、何を考えているかわからない。

主君、信虎がそんな勝千代を嫌っているのも知っている。だからこそ武田家の嫡男として何としても立派な男に育てたいのだが、怒れば泣くし、話をすれば馬耳東風といった感じでいつも空や明後日を見つめている勝千代に、困り果てる。

正直、最初は光栄なことだったが、一門でもない自分が守役なのはとんだハズレくじだったかもしれないと思い始める。

そこでふらふらしていた教来石景政を勝千代の付き人にし、長禅寺に送って自身はなるべく勝千代と距離をおき始める。



飯富兵部少輔虎昌(おぶ・ひょうぶしょうゆう・とらまさ)

1504年生まれ。数えで晴信の18も上。

武田騎馬軍の象徴「赤備え」を作った男。

「甲山の猛虎」と呼ばれた勇壮無比の剛将で、板垣らと同じく武田信虎四天王の一人。

弟は飯富源四郎、のちの山県昌景。

長く信虎と対立してきた国衆だったが、戦に敗れ降伏。

信虎を追放してからは板垣、甘利らと同じく目に見えて台頭し、何も言わぬ晴信を尻目に武田家の勢力拡大のため積極的に行動した。

板垣、甘利などが戦死したのちは武田軍の中核をなし、およそ戦という戦に出ては勝利をおさめ続け、勝ち続けたことで「赤備え」の名を信濃に響かせた。

大きな軍勢を率いるより、少ない手勢を指揮し、大きな敵を打ち破ることを至上としている戦闘狂。

実際、第一次川中島で破竹の勢いの長尾・村上勢約5000を止めたのは、わずか500の手勢を率いた虎昌の赤備えだった。

その功績もあってか晴信の嫡男である義信の守役兼後見役を任される。

第四次川中島ではいわゆる「キツツキ戦法」のための別働隊を指揮したが空振りに終わり、その頃から弟・源四郎に飯富隊を任せ始める。

1565年、信玄の嫡男、義信の謀反に後見人として連座し、自害。

謀反を知らせたのは弟の源四郎であったが、その弟にさりげなく知らせたのは虎昌だったとも言われる。

弟源四郎共々背が低く、小さいからこそ大きな敵を倒すのがアイデンティティ。

生傷が多く、根性のある、向こうっ気の強い面構え。でもよく笑う。

というか、笑った顔がすごい怖い、脅しのような、いわゆる威嚇の笑いをよくする。

兄弟(叔父甥?)なのでやはりモデルはドリーファンクJr.とテリーファンクのザ・ファンクスや岸部四郎&一徳兄弟と言いたいところだが、弟の源四郎は26歳も下なので、その年の差をリアルに考えると山本寛斎と伊勢谷友介の兄弟でもいい。



飯富源四郎昌景(おぶ・げんしろう・まさかげ)

1529年生まれ。晴信の8っ下。

飯富虎昌の弟と呼ばれていたが、26歳違いでは年が離れすぎているので甥っ子という噂も。

近習として晴信に仕え、使番、侍大将と昇り竜のように出世し、のちの武田四天王の筆頭となる。

武勇知略軍略すべてに優れ、冷静沈着、常に初陣の心を忘れぬ慎重派で、まさに風林火山を体現した男。

三国志でいうと関羽や張遼か。

「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われ、戦国最強武将は誰かという議論の時に必ず名前が挙がる武田の武の華。

兄とは違って全然笑わない。馴れ合いを嫌い、酒も飲まず、疑り深くてそうそう人を信用しないので、どの家臣とも適度な距離を保っているが、晴信にだけは深い忠誠を誓っている。

川中島では兄と共に別働隊を率いたが空振りに終わり、危機を察した源四郎は真っ先に信玄の元に駆けつけたという。

そのあと輝虎を追いかけて鬼小島弥太郎と一騎打ちをした逸話が残るが、それは確実に創作。

兄も連座した「義信事件」以後、途絶えていた武田の名跡「山県家」を継ぎ、山県三郎兵衛昌景に改名。

さらに兄の「赤備え」を引き継ぎ、三方ヶ原の戦いでは徳川家康を脱糞させて敗走せしめたほどの生きる伝説となり、その強さを天下に比類なきものとした。

信玄の今際の際に立ち会い、馬場信春らと共に武田家の後事を託された。

1575年、長篠の戦いで敗走する武田軍の囮となって突撃し、全身に銃弾を浴び壮絶な戦死を遂げる。

身長が150〜160CMという小男で、それがゆえに誰よりも負けず嫌い。

唇が上に裂け(兎唇)、鼻が高く、彫りが深い顔をしていたそうだ。

(兄を山本寛斎にするならば)コンプレックスの塊のような伊勢谷友介。

あるいは千代の富士。



大井夫人(おおいふじん)

晴信の母。大井の方とも呼ばれる。信虎と敵対していた大井氏の息女で、和睦のため信虎に嫁ぐ。

晴信、信繁、信廉、黄梅院の母。大井家の菩提寺、長禅寺に岐秀元伯を招き、晴信を養育させる。

優しいけれどすぐ泣き、体も弱い晴信を武家の嫡男にふさわしいようなんとか強くするため、わざと厳しい態度をとる。厳格な教育ママ。

そのために晴信は両親共々に甘えられずに育ち、自分でも知らず知らず心を閉ざしていくことに。

モデルは岩下志麻。



快川紹喜(かいせん・じょうき)

臨済宗妙心寺派の僧で、晴信のブレーンでもあり、後見人でもあった。

1502年、美濃生まれで、晴信の20歳上。

あの「風林火山」の旗を書いたのもこの人で、絶大な信頼を寄せていたというか、もはや心酔していた感じ。

信玄に請われて武田家の菩提寺である恵林寺の住職となり、信玄の葬儀を取りしきった。

1582年、武田家の滅亡の際、かくまった武田の子息?を引き渡さなかった故に寺ごと焼き討ちにあうも、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言を残して焼死。

享年81歳…つまり、晴信の武田家を精神面から支え、すべて見届け、武田と共に滅んだ人。

性格はおせっかいでファンキーな兄貴、って感じ。

エディーマーフィーとか、クリスタッカーとか。



春日源五郎虎綱(かすが・げんごろう・とらつな)

晴信が最も愛した美少年。武田四天王の一人。晴信の6つ歳下。通称、源五郎。

「逃げ弾正」と称された戦の名手。その軍略差配は晴信そっくりで、決して負けぬ戦をする男。

1527年、甲斐国石和の大百姓、春日大隈の五男?として生まれるが、1542年、父・大隈が死去したことで生じた遺産相続争いに敗れ身寄りがなくなっていたところを晴信に拾われる。

16歳から奥近習(付き人兼セフレ)、使い番として働きながら、晴信、勘助、景政などから文武の薫陶を受けメキメキと頭角を現し、25歳の1551年(村上攻め)には100騎を預かる足軽大将に任ぜられる。

取り立てられてから晴信の傍で数々の戦を共にし、おそらく武田軍中、晴信と過ごした時間が一番長い男。

川中島においては拠点となる海津城築城を山本勘助と共に務め、その城代を任されるほど晴信からの絶大な信頼があった。

1556年には川中島覇権のために北信の名家、香坂家の婿養子となり姓を受け、香坂弾正忠昌信と名乗り川中島衆を率いるが、地政が安定してきた66年には春日姓に戻っている。

晴信と交わしたラブレターなども見つかっているが、何より特筆すべきは在りし日の武田家の姿を今に伝える『甲陽軍鑑』を記したこと。

『甲陽軍鑑』は虎綱が勝頼の代になって急に疎んじられた自分の立場から、慢心する武田家を諌めるために記した諫言書という体であるが、行間から滲み出るのは亡き信玄に当てた崇拝と哀惜の念ばかり。

いわば『甲陽軍鑑』、春日虎綱が最愛の信玄に贈った、最後の、追憶のラブレターでもある。

めちゃめちゃ頭がキレる後輩キャラで、いつも爽やかな笑顔の仮面を被っているが、少々毒舌。

セリフにいちいち皮肉が効いているというか、爽やかな毒を孕ませている。

出自もあって武田家の旧臣たちからは疎まれているが、本人は晴信にさえ気に入られていれば幸せなので何も気にしていない。

晴信の師でもある山本勘助を自分も師と仰ぎ、年上の教来石景政は兄のように思っているが、歳下なのに武家であり位も上の飯富源五郎には嫉妬している。

姉との確執もあって、女嫌い。

イメージは田中圭か、風間俊介。



教来石景政(きょうらいし・かげまさ)

のちの馬場美濃守信春。

1515年生まれで、晴信の6っ年上。

武田四天王の一人で、初陣以来40数年で合戦70回、一度も傷を負わなかったことから“不死身の鬼美濃”と恐れられた戦上手。

ちなみに鬼美濃の異名は先代四天王の原虎胤から受け継いだので二代目である。

知勇芸品兼ね備えた快楽主義者。どっちかというとマゾ。

武川衆という身分の低い小さな国衆の出で、成り上がりで四天王にまで駆け上がった。

勝千代の幼少期から近習として使え、晴信の初陣である海ノ口城攻めでは城主、平賀源心を打ち取った。

その軍才を生かし、作戦立案、先陣、奇襲、殿軍など、晴信代の武田軍の中核をなし縦横無尽に活躍した。(晴信の生涯の戦すべてに関わっているのは信春だけ)

第四次川中島ではいわゆる「キツツキ戦法」の中で一番重要な三つの奇襲部隊の一つを指揮した。

信玄に亡き後を頼むと言われた一人であったが、勝頼とはソリが合わなかったらしい。それでも主君を思い長篠の戦いで殿を務め、勝頼を逃がした後に壮絶な戦死を遂げる。その様を聞いた信長が「天下に比類なき働き」と絶賛した。享年61歳。

飄々とした風のような男でつかみどころがない。岩鬼のように葉っぱをくわえた高田純次。

女好きで、老若男女問わず誰とでも仲良くなれる人たらし。

晴信とともに勘助の薫陶を受け、用兵や築城術に長け、武田の忍び集団「三ツ者」を組織したりと、裏表で縦横無尽に活躍する。



岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)

長禅寺の住職で、大井夫人の相談役。勝千代の学問、仏法の師。

大井夫人に招かれて長禅寺に入山した。

長尾虎千代における天室光育だが、景虎と対称化させたいので性格はとても厳しく、いつもしかめっ面。

この岐秀元伯により幼少の頃から晴信は、論語などの四書五経、孫氏など兵法七書を叩き込まれる。

元伯は晴信の飲み込みの早さに驚くが、どうも心が入っていないことに戸惑う。

言うことはよく聞くし、おとなしく優しい子なのだが、どこを見ているかわからない時がある。

1年が経った時に晴信は教えられたことは充分修めていたが、元伯は学問だけでない大切なことを学ばせるために苦心していた。

イメージはペップ・グアルディオラ。



工藤源左衛門祐長(くどう・げんざえもん・すけなが)

のちの内藤修理亮昌豊。

彼もまた晴信が全幅の信頼を置いた武田四天王の一人。典厩信繁と並ぶ、真の副将と称された。

1522年、信虎代の重臣であったが信虎の苛烈さについて行けず反乱を起こして伊豆に逃れた工藤虎豊の次男として生まれる。

晴信の1つ歳下。

1542年、関東を流浪していたが信虎追放を聞き武田家に帰参。

その後、祐長は晴信の代えのきかない副将として常に武功を立てていたが、一度として感状(当時の感謝状。褒美の約束も記していた)をもらうことが無かった。

このことについて晴信は「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評して敢えて一通の感状も出さなかったという。

一方の祐長も「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったという。

これは二人の信頼関係の厚さを示すものであるが、あまりにも信頼が厚いのが不思議な部分ではある。

その全幅の信頼ゆえに司令官のような職を任され、晴信とは別行動を多く取っていた。

攻めるというよりは守りに長けた武将で、深志城、箕輪城など、重要拠点の城代を歴任し、攻め取った城や地域の安定を任された。

それでもここぞという戦には必ず馳せ参じ、第4次川中島などでは妻女山を攻める別働隊の一つを指揮したが、それが空振りとなったことで典厩信繁や勘助が討ち死にしたことを誰よりも悔いている。

その後は箕輪城の城代となり西上野一帯を任され、上杉に対する抑えとして活躍した。

性格は思慮深く温厚で、目先のことに惑わされず大局を見て軍略を組み立てる万能政治家。

のび太と出来杉君を足したみたいな、めんどくさがりやで怠け者なんだけど頭いいから宿題とかは全部キッチリやってからダラダラするタイプ。

生粋の実務野郎で、仕事を与えればすべて効率よく処理するが、自ら仕事を創り出すタイプではない。

戦も外交・政治の一部だとわきまえていて、むしろ軍事より内政の方が得意。そもそも戦が嫌い。

諸国を流浪していた経験から民の暮らしの苦しさが分かり、決して無理なことはせず力を抜いて家臣や民をよく治めるので人望も厚かった。

特に典厩信繁が討ち死にした後の武田軍をまとめた一番の功労者であったことは立場的にも間違いなく、曲者ぞろいの武田軍中でもいつしか皆を見守る母のような存在になった。

おそらく下戸。笑顔が多い。話を聞くのと誤魔化すのがうまい。常識人。無駄が嫌いで贅沢をしない。昼寝が好きで犬と遊ぶのも好き。何もしない時間がないと動けなくなる。

モデルはV6の長野くん。



真田源五郎昌幸(さなだ・げんごろう・まさゆき)

1547年、上田生まれ。

真田幸綱の三男であり、真田信之、信繁(幸村)の父としても有名。

7歳から人質として甲府に入り、晴信の奥近習衆として仕え、その利発さから晴信の大のお気に入りとなり、果ては「我が眼の如し」とまで言わしめた麒麟児。

晴信の側で一心にその軍略を学び、のちにあの秀吉からは「表裏比興の者」と称えられ、宿敵徳川家康をして「稀代の横着者」と恐れられた謀将。

第四次川中島がなんと初陣で、晴信の傍で伝令役として活躍。

その後、名門・武藤氏を継いで武藤嘉兵衛と名を改めたが、長篠の戦いで散った兄2人の後を継いで真田家に復帰し、甲斐真田当主となる。

武田家滅亡後は滝川一益、上杉景勝、豊臣秀吉と次々に主君を変えながら戦国を生き延び、関ヶ原では真田の家を守るため、自身と幸村は西軍に、長男の信之は東軍に分かれ、家名存続を果たす。

晩年は高野山九度山に流されるも幸村と共に再起を伺いながら、大坂の陣の前に逝く。

家康にとってはまさに天敵で、信玄に続いて生涯戦で一度も勝てなかった相手がこの昌幸であった。

モデルはもちろん、草刈正雄。



真田源太左衛門幸綱(さなだ・げんたざえもん・ゆきつな)

武田家きってのキレ者で、勘助と双肩をなす晴信の軍事のブレーン。

真田昌幸の父であり、信之、信繁(幸村)の祖父。「攻め弾正」という渾名を持つ。

1513年、信濃国小県の国衆、海野棟綱の子として生まれたとされているが諸説ある。

その後武田、村上の連合軍によって破れた海野氏を離れ、上野(群馬)の上杉家家臣、長野業正に仕えたのち、信濃侵攻を始めた晴信の元に駆けつけ旧領回復のため尖兵を務めた、というのが武田に仕えるまでのざっくりした来歴。

この来歴も出仕の時期も諸説あるので確実なことだけ言えば、1544年あたり、幸綱32歳頃から武田家に仕えていたということくらい。

その後は信濃先方衆として主に調略担当でその知謀を存分に発揮して第四次川中島の6年後、なぜか引退。

おそらく後述する勘助亡き後の三ツ者統括など裏の任務に従事したと思われる。

幸綱のその一番の武功はやはり砥石城を落としたことであろう。

晴信が二度にわたって攻めながら落とせなかった難攻不落の砥石城を、一晩で落城させたその知略で、見事真田家を再興し、新参者で外様ながらも武田家の軍略になくてはならない名家となっていった。

しかし、どうやってあの砥石城を落としたか、それはどこにも記されていない上、幸綱以前の真田家のことも幸綱の創作ではないかという説もある。

さらにはぶっちゃけこの人、真田でもなんでもないかもしれない。

この、何者なのかわからない、というところにこそ真田幸綱の本性がある。

もとより全てを把握などできない。わからないからおもしろい。何より百姓、間者、坊主、娼婦、乞食、使えるものは全て使う、というのが晴信の武田軍の器の大きさだからこそ、この得体の知れない男が晴信に見出された理由であろう。

上田原で村上に敗れた晴信が新たな人材を募っていた時に出仕した、あるいは東信濃に明るい人材を三ツ者の中から勘助や景政が見つけ出した、というのでもいい。

もっとも誰も彼の本当のことなどわからないので、海野氏の嫡流だとか長野氏に仕えたとかいうのもその真偽を確かめるすべもないが、上田界隈のことに詳しく人脈もあることは確かで、実際にそのコネクションを使って砥石城を調略する。

後述する望月盛時、千代女夫婦とのつながりがあり、三ツ者をさらに本格的な諜報機関に育てる役目も担った。

武田家滅亡後はこの三ツ者がそのまま真田忍者となり、後世の真田十勇士などのモデルとなった。

真顔で冗談を言う人。嘘なのかどうなのかもわからない話をする。

花が好きで野山に詳しい。予想外なこと、発言をする。

幼少期にとんでもない何かがあったっぽい人。それは作者もわからない、武田軍の特異点。

モデルは、板尾創路、岸部一徳。



武田信虎(たけだ・のぶとら)

説明不要の甲斐の国主。暴君。短気だが恐ろしく頭がキレる。ワンマン社長タイプで、ぜんぶ自分で解決しようとする。自分の周りにイエスマンを集め、自分と似たタイプの武将ばかりを厚遇する。

その結果、信虎の代の主だった家臣は板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰、原虎胤など皆、粗暴で、剛直で、豪快な武断派ばかり。

そんなだから軟弱な晴信を疎んじ、素直でまっすぐな弟、信繁を溺愛する。

その空気は家臣内にも伝わり、いつしか晴信の周りからは人がいなくなる。

モデルは宍戸錠や、荒ぶる吉田鋼太郎。



武田典厩信繁(たけだてんきゅう・のぶしげ)

1525年生まれ。晴信の4歳違いの弟。幼名は次郎で、元服して左馬之介と名乗る。典厩とは左馬之介の唐名。ニックネームである。

第四次川中島で柿崎景家の突撃を受け止めて奮戦ののちに戦死。享年37歳。

性格はとても素直で優しく、真面目。

兄を慕い、常に武田家全体を思う武田一門衆の筆頭。武田の副将と呼ばれた。

バランス感覚に優れた生まれながらのナンバー2で、武田の精神的支柱でもあったようだ。

内政や軍事など幅広く活躍し、特に1558年に息子の信豊のために記した武田家の奥意(家訓)『信繁九十九箇条』は秀逸。春日虎綱の「甲陽軍鑑」にも多大な影響を与えたとされる。

兄晴信との仲は良かった。いつも笑顔で、いつまでも遊んでくれたし、いろんなことを知っていて、いつも驚かされてばかりだった。そんな兄が大好きだった。

父と兄の中があまり良くないのは知っていた。父がいつも兄の悪口を言うからだ。

そんな父が怖かった。なぜもっと、仲良くできないのだろうかと素直に思ったが、兄者をもっと大切にしてくださいとは言えなかった。そうすれば父が変わるとも到底、思えなかったからだ。

それでも自分を愛してくれている父が、嫌いなわけではなかった。

ただ兄を差し置いてかわいがられている自分が、少し優越感を感じている自分が、嫌だった。

それくらい信繁は自己批判のできる子供だった。その辺は、兄と似ていた。

ただ、その深さが、晴信と違った。

自己批判も内省も行き過ぎればどうしようもない。

そういう意味で信繁は、武芸も知性も感性も、どうしようもないほどちょうど良い才能を持っていた。

そんなわかりやすく利発な子供であったからこそ、父・信虎は信繁を偏愛したのであった。



望月千代女(もちづき・ちよめ)

東信の豪族だった望月氏の望月盛時の妻で、甲賀忍者を構成する「甲賀五十三家」の筆頭である上忍、望月氏の出身の女忍者。望月千代、とも。

この甲賀望月家は、伊賀の服部/甲賀の望月と並び称される名家で、元々つながりがあってその仲を深めるための政略結婚であったのかもしれない。

息子がなんとあの山中鹿之介と言われているが、真偽は定かではない。

1543年、旧知の仲であった真田幸綱の仲介で、夫である盛時とともに晴信に仕えた。

「三ツ者」を本格的な諜報組織にしたのもこの女であり、身寄りのない孤児や娼婦を集めて、性技や祈祷、呪術などを仕込ませた「歩き巫女」と称される女の間者部隊も編成し、甲斐武田のくノ一の頭領として君臨する。

砥石城攻めでは真田幸綱と呼応し、内部から砥石城を撹乱し落城へと導いた。

生没年不詳。おそらくバイセクシャル。性技百般に通ずる男たらし。

男を馬鹿にしているというか、可愛く思っているフシがあるが、晴信は今まで知っている男とは何かが違うので魅かれている。

モデルはキャメロンディアス。

ちなみに夫の盛時は第四次川中島で戦死。

夫なき後は羽を広げるように活躍し、武田家の暗謀を担うことになる。

いつかこの望月千代女を主人公にして越後の軒猿、相模の風魔を交えた関東忍三国志を描いてみたいと思わせる、魅力的で謎に満ちた女怪。



山本勘助晴幸(やまもと・かんすけ・はるゆき)

山本勘助晴幸、言わずと知れた信玄の軍師…というのはどうやら嘘。

そもそも軍師というポジション自体がない。

身分的には足軽大将で、晴信の旗本として各隊への伝令役を担っていたようだ。

だからと言って武田軍の軍略立案から外れていたということではなく、身分的には低いが真田幸隆と共に晴信のブレーンとして活躍したというのが定説。

これは江戸時代の軍記物の影響が大きいが、とりあえずおもしろい方がいいので俺はこれを採用。

そもそも勘助自体が後世の創作だという向きもあったが、2006年かなんかに新しく発見された当時の正式な文書の中で山本勘助の名が見つかり、実在が確定された。

1493年生まれで兵法者になるため20歳で諸国を武者修行し、安芸武田家に仕官するが、大内氏に滅ぼされて負傷し、祖国の今川を頼る。しかしその異形さに仕官を断られ、長年腐っていたところを1543年、50歳で板垣信方に拾われて晴信に仕える。

「甲陽軍鑑」などでは隻眼で指も何本かなく、足を引きずって歩いた不細工な男として有名。

諸国を武者修行し、あらゆる兵法を納めたとされ、その知識と経験から、晴信のみならず春日虎綱の師としても慕われた。

三ツ者と呼ばれる間者衆を組織し、武田軍の諜報活動を取り仕切り、捕虜や罪人を金山で働かせその中から優秀な者を選んで「百足衆」を組織し、棒道と呼ばれる軍用道路の整備や信玄堤の工事など、甲斐の発展に裏から大きく貢献した。

とりわけ築城においては当代随一と言われ、その最たる海津城は、武田側の大局的な川中島支配と信濃制覇を決定付けた。

第四次川中島においてはあの「啄木鳥戦法」を進言したとされるがこれも後世の創作。だがここで戦死したことは間違いない。享年69歳。

勘助と典厩信繁を失った武田軍だが、勘助が遺した海津城と、信繁が遺した武田家家訓により大崩れすることなく、むしろ結束を強固にして天下最強と呼ばれる程に大きくなる。



以上です!

ここまで読んでくれたあなたはもうすっかり武田家ファンだね!

それでは放送をお楽しみに( ^ω^ )




奥野晴信


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