不登校の「最大の効能」とは何か?
僕が学校を大嫌いになったのは、中学の時の「ある体育教師」のせいだった。
体育大を出たばかりのマッチョなその男性教師は、授業中「王様」の様に振る舞い「できるやつ」を贔屓して、「できないやつ」をみんなの前で笑い者にしていた。
少し太めの男子生徒に「何食ったらそんな体になれんだ?」とか平気で言うのだ。
彼を嫌いになった決定的出来事は、多くの人の心に「生涯消えない傷」を追わせる「あれ」をやっていたことだ。
「あれ」とは、言わずと知れた「できるやつ」が自分のチームに欲しい人を1人づつ選ぶ、という恐ろしい「あれ」の事だ。
数名の「できるやつ」が「お前はいらねえ」「お前は来い」とかやるやつだ。
そして最後には半泣きの「いらないやつ」数人が残る。
「できるやつ」は「お前の方がましかもな」と選別し、最後はクラスで1番「いらないやつ」が決まる。
今の僕がこの現場にいたら、真っ先に「それ」をやらせている教師に「いらないのはお前だ」と言うだろう。
この残酷な現場をニヤニヤと見ていた「あの時の体育教師の顔」は忘れない。
僕はその教師と何かと言えば対立し、卒業式ではずっとそのデリカシーのない顔を睨んでいた。
高校へ行くと学校のすべての質が下がっていた。
「荒れるバカ高校」だったので、注意すると「即切れ」するシンナージャンキーの生徒がフラフラしている様な学校で、教師達はその状況をコントロールできなかった。
「おいおい」「だめだぞ」とか言って、おしまいなのだ。
学校行事について「これは何でやるんですか?」と聞いてもまともに答えられない。
すっかりバカらしくなって僕は一切の行事に参加するのをやめた。
授業も聞かず、制服も止めて私服で登校した。
自作漫画と自主アニメの発表のために文化祭だけは出た。
すると今度は「体育祭に出ない玲司はずるい」と言ってくるやつが現れる。
出たくなかったら自分も出なければいいのに、その勇気がない、というクズ野郎だ。
そんなわけで、僕は「不登校の人」を「勇気ある人」だと思っている。
しかし、この話には大きな問題がある。
それは、世の中には「学校が楽しかった」という大人が沢山いる、という事だ。
その中には「素晴らしい先生に出会い、多くを学んで大人になりました」という人もいる。
学校で私は「かけがえのない友人」と出会い、最高の思い出と、今に至る絆が生まれたのです。
なんて人もいる。
学校がまともに機能していた地域と時代に「その環境に合った自分」でいられた幸運な人達だ。
今でも一部の人達は、部活に燃えてたりして、それなりに学校で成長したりもしていると思う。
僕はその人達に関しては全く否定しない。
問題は学校の多くが「かつてのもの」ではない、という現実だ。
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