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山田玲司のヤングサンデー 第84号 2016/5/16

ナガブチ、ヤザワを超えるものとは?

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この世界には2種類の人間がいる。「ナガブチ」と「ヤザワ」だ。

と、去年は番組でそんな話をよくしていました。

これは「俺を(俺の人生の戦い)をわかってくれ!」というタイプの演者さんと、「みんな楽しんで!」というタイプの演者さんを、長渕剛と矢沢永吉というタイプの違う2人の演者を例にとって分類するというものでした。

この話は「自分をわかって欲しいから何かを作る」という思い、つまり自己の承認欲求がモチベーションになって「表現」する時代から、「自分はもういいからみんなに喜んで欲しい」という時代になることについての話でもあります。

もちろん「自分と同じ悩みや苦しみ、喜びや悲しみ」などが生々しく描かれていると、それが作者の個人的な体験や偏った「思い」なんかであっても、人は共感し、それで癒やされたり力をもらったりもします。
その成功例が長渕剛や太宰治や尾崎豊などの「私小説」タイプの表現者です。

一方でそういった個人的な思いから距離を取って何かを作る人達もいます。
スピルバーグの映画はスピルバーグの個人的な傷(家族が崩壊していた、など)もそのベースにあるものの、基本的に彼自身は表に出ません。
作り手の戦争体験や学生運動体験から生まれた「ウルトラマン」シリーズも、作り手は裏方に徹して「自己表現」はしません。
ディズニーや手塚治虫も基本的にこのタイプです。

興味深いのは「自分をわかって欲しい」という思いから世に出た人が、世間に認められるにつれ「自分はもういいから、みんなに幸せになって欲しい」というように変化していく人が多いことです。

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代表的なのは井上陽水だと思う。
「傘が無い」などの、内省的で攻撃的な初期作品は、後に唱歌のような「少年時代」まで生み出すようになる。
小田和正も桑田佳祐もそうだし、映画監督だと「セックスと嘘とビデオテープ」から「オーシャンズ・イレブン」に至ったスティーブン・ソダーバーグなんかも思い浮かぶ。

そんなわけで、自分のことばかり考えて、自分が認められることを「当面のゴール」にしていた人は、やがて「みんなの幸せ」を願うようになる、というパターンがある、って話なわけです。

そんなふうにいちものように勝手に世界を分析してわかったようになっていたのですが、先週は久々にそういう浅い自分の分析を覆されるような経験をしました。


何がと言えば、そうです、先週番組で募集した主題歌の件です。
僕を含めスタジオサイドは、おそらくデモテープのようなものが数曲送られてくるんだと思い込んでいたのですが、いざ箱を開けてみると、そこには番組への愛情がぎゅうぎゅうにつめられた本格的な楽曲ばかりでした。

それは、僕らの番組に対する「洒脱の効いたラブレター」でした。
ナガブチ、ヤザワの世界ではないものだったのです。しいて言えば「君のためだけに作った曲」です。
「君のために君を思って作った君が喜ぶためだけのために作った料理」です。

僕もおっくんもそんな「愛情料理」を食らったことなんかありません。
歌詞の端々に僕らの番組をいかに愛してくれているかが伝わってきます。
それを何曲も連続で聴かされれば、さすがの僕らも言葉を失いますよ。

「ナガブチ、ヤザワ」を超えるものはこれなんですね。

何百億円かけて、何年もかけて作られた大作映画も「ありがとう」と書かれた誰かの手紙には叶わないわけです。

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