踏み付けられた小天使

三島由紀夫と北野武の天才と欠陥について

2015/05/19 12:09 投稿

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 三島由紀夫と北野武の二人は、天才かと問われれば、天才だと答えられる数少ないアーティストと言えるだろう。ちなみに、この場合、北野武は映画監督としての姿を言っている。

 僕もその事に対して異論はない。この二人は天才か?と言われれば、「天才だ」と答えざるを得ない。しかし、僕は同時に、この二人に、優れたアーティストが本来保持していなければならないものが欠けている事を見て取る。そしてこういう事を言っていたのは、確か吉本隆明で、僕の問題意識はそこから発している。

 三島由紀夫と北野武の二人を並べて見ると、この二人の「才能」「天才性」は明らかなように思う。しかし、そこには何らかの欠けたものがある。では、それは何かと言われるとーー僕はそれを言いがたいのだがーー、それはオーソドックスな芸術に対する信頼、あるいは人生に対する希望のあり方、あるいは他者に対する信頼、そこから来る絶望のようなもの、ではないかと思う。これは説明がかなり難しいのだが、三島や北野の世界観というのは元々乾いており、そこには絶望も希望も入り込む余地がないように思う。つまり、彼らの作品を見ると、ツルツル乾いた氷のような場所を滑っていく感覚があり、情念がとどまる場所がない。

 以前に「3-4X10月」という映画を見た事がある。これは北野武の映画の中でも、優れた方の映画かもしれない。しかし、この作品を見て、僕はなんとも言えない印象を受けた。映像に対して、北野武は自らの情念を放散させるように描いており、そこに何かしら、留めるものがない。何かしら、本来芸術に必要なはずのある「抵抗」がない。では、この「抵抗」とは何か。

 三島由紀夫も北野武と同じ事で、三島由紀夫の作品を読むとツルツル滑るような感覚を受ける。例えば、代表作の「金閣寺」。金閣寺では、主人公が金閣寺を燃やすまでの経緯が綴られているわけだが、しかし、この主人公は最初から最期まで自分自身の核に出会う事はできない。そしてそれはおそらく、三島由紀夫自身もそうだったろう。

 三島は、多少タイプが似ている芥川龍之介と比べればわかりやすいかもしれない。刻苦勉励によって自分の文体を彫刻的に彫り上げたという点では、三島は芥川に似ている。しかし、芥川には「蜜柑」とか「沼地」のように非常にオーソドックスな作品がある。これらの作品は本来、芥川が世界に対して希望を持ちたい、世界に対して明るいものを見たいという、そういう新たな思想が裏返って出たものである。

 おそらく、我々ディレッタント、技術も努力も欠いた僕のようなディレッタントでは、こうした通俗的な観念があっても、それは「直接」作品に出てしまう。しかし、それでは良い作品にはならない。あくまでも、希望は、現実に打ちのめされた後に出てきて、その真価を発揮するのだ。例えば、夏目漱石の虞美人草という作品は、どう考えても、駄作である。しかし、漱石が元々持っていた資質は、虞美人草によって発揮されていたとも言える。そしてその資質はそれ以降の「それから」に辿りつく事によって、独特な形で昇華されたのだ。

 僕は三島由紀夫の全作品を読んだわけではないが、しかし、おそらくは三島に「蜜柑」のような反転した世界を描く事は無理だと思う。表面的な形式が似ている作品はあるかもしれない。しかし、「蜜柑」のような、深さの反転した世界というのを三島が書く事は無理だと思う。それは彼に、そもそも絶望が欠けているからであり、そのために真の希望も見出させないからだ。もちろん、希望、絶望というのは単なる言葉にすぎない。僕が言わんとするのは、ある心の深さ、自己対象化、そしてそれをひっくり返す力、そのような事を言おうとしているのだ。(説明しにくいが)

 他の例を上げれば、太宰治だ。太宰には芥川と同じように「黄金風景」という短編がある。これは太宰にとっての「蜜柑」のような作品に当たっている。ここで、太宰は、時として現れる生理的現象、基本的に暗い色調で覆われた太宰作品の中にふと浮かぶ明るい調子を描く事ができている。「走れメロス」でももちろんかまわない。しかし、北野武ーー三島由紀夫のラインではそもそも、彼らに暗さが欠けている為、明るさも浮かばないという印象を受ける。そしてそれは、作品の表面的なあらすじとか、登場人物の暗さ、明るさを意味しているのではない。そうではなく、作品全体を支配する作者の情念の深さ、その暗さ、明るさを言っているのだ。

 北野武も同じ事で、北野武は映像を常に直接的に世界に解放してしまう。本来はそこで言いよどんだり、迷ったり、立ち止まったりしなければならないが、その部分が決定的に欠けている。人を殺したり、陵辱の場面がそのままに映像に現れたりする。しかし、それは、少年少女の恋愛を描いている時でも同じなのだ。北野武の中で、本来、心に留めるべきところで、それは直接世界に放散されてしまう。そしてそれはそのまま映像となってしまう。だから、ある意味で、北野武は本当に才能に恵まれていると言えるかもしれない。しかし、「才能」だけでは、「本当に」優れた芸術作品とはならない。

 もちろん、北野武の映画は、芸人の余技というレベルを越えている。松本人志の映画や、太田光の小説などとは比べる事ができないレベルに達している。しかし、それだからこそ、僕は彼の作品に抵抗と違和感を覚える。しかし、それは北野武の天才性を充分感じているからこその事でもある。この辺りの判断は自分には難しい。

 僕は以前に書いた太宰治論で、太宰は最期まで自己対象化する事を忘れていなかったという旨の事を書いた。それは人間失格に対する分析だった。人間失格のラストでは最期に、暗い主人公に対する、他者の視点が微かに現れる。太宰は常に、絶望に対して、ユーモアによって逆説的に抵抗するという事を忘れなかった詩人だったが、崩壊直前でもその事を太宰は忘れはしなかった。そしておそらく、三島由紀夫にかけているのはこのユーモアの点である。といようり、三島に欠けているのは、この最後の他者の視点である。三島由紀夫は、いわば言いっぱなしの、告白しっぱなしの太宰治みたいなものである。告白し、なおかつそれが何かを他者の視点によって相対化するという事が太宰文学の本質だった。しかし、三島の恐るべき才能は、告白して、それを世界に投げて、それで終わってしまう。小林秀雄は三島由紀夫に対して「なんでもかんでもあんたが頭で発明としたものでしょ」という事を言ったらしいが、それは全く正しい。結局、三島の最後の自決も三島が自分自身にこしらえた劇だった。しかし、そこで三島は、あまりにも真面目すぎ、あまりにも真剣すぎたとも言える。そこで、自分は滑稽な存在だという事、自分は笑うべき存在であると同時に、それを自分はするのだ、という二重性の問題はなかったのではないか。僕の考えでは三島ーー北野らが自殺に傾く傾向があるのと、太宰ーー芥川が自殺に傾く傾向があるのとでは、傍目には似たようなものに見えるだろうが、本当は違うものだと思っいてる。それは少しだけ、ずれて違うのだが、この「少し」が非常に重要だと思う。

 余りうまく言えなかったが、僕の北野武、三島由紀夫に対する印象はそうしたものだ。二人共既に、世界的な評価を受けたアーティストであり、それに見合った力があるという事は言うまでもない。しかし、それにも関わらず、この二人は、本来、芸術初心者にも備わっているかもしれないあるオーソドックスな観念、正義感、善悪観、世界に対する信頼、そこから来る絶望…のようなものが欠けているのではないかと思う。その点が自分にとっては、二人に対する疑問となっている。そしてこの事は当然、二人の才能が欠けているものを示すものではない。そうではなく、才能以上に大切なものがこの世にあるのではないか、というそういう問題意識と関係している。
 


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