踏み付けられた小天使

形式を越える音楽  ー神聖かまってちゃんとD猫殿下ー

2014/11/02 12:06 投稿

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 この二つのアーティスト(神聖かまってちゃんとD猫殿下)には一見、何の共通性もなさそうに見える。神聖かまってちゃんはロックバンドだし、D猫殿下はピアニストである。神聖かまってちゃんの音楽技術は拙劣なものだし、殿下のそれは達人的なものだ。

 しかし、にも関わらず、この両者の音楽に僕は心を打たれる。それは何故かと言うと、この両者共に、彼らの表現意志、表現意欲がその形式を打ち破っているからだ。彼らは共に、自分達の歌を歌う為に、それ以前の形式を破壊する事をためらわない。彼らは叫ぶ。彼らは歌う。ある者は自らの声と、歪んだギターで。ある者は、細かく調整され尽くしたピアノという楽器によって。しかし、どちらも、それらの音楽が「過去」に属していた形式を破壊し、「現在」たろうとする。彼らは過去の形式を破壊し、何より、この今、現在というその瞬間に極限的に集中する。そしてそこに始めて、未来への扉が現れる。そしてそういうものが、芸術の本質と呼べるものなのだ。

 一般に「デザイン」と「芸術」との両者は違うものとされている。何故だろうか。それは、デザインというものには必ず、ある種の反復性があるからだと思う。デザインが、例えば、ポロックのような芸術作品であってはならない。芸術とデザインとは、微妙に重なり合っている領域であるが、しかし、デザインは過去の形式を反復する要素が芸術よりも強い。過去を反復する要素が強い方が、我々の感性と認識に大して安定的である。それは僕らの感性を脅かしはしない。それは僕らの積み上げたてきた「過去」を壊しはしない。だから、それは見ていて、聴いていて、安心できる何かである。しかし、デザインが反復だけだと飽きてしまう。だから、デザインは常に、過去の中に巧妙に、現在、そして未来を薄く溶かして入れておかなくてはならない。だから、デザインとは常に、新しいものを標榜した古いものである、という運命を背負っている。そしてそれが芸術になろうとすると、必然的にそれは世界から孤立してしまう。だから、デザインと芸術とは違うものである。芸術とはもっと、孤独なものである。

 YOUTUBEにあるアーティストの動画を適当に開いて聴いてみれば、大抵の場合、そこにある類形性が認められるだろう。それは必ず、そのカテゴリや分野に閉じこもっている要素が感じられるだろう。そしてそれはかなり優れたアーティストですら、そこに閉じこもっている何かである。もちろん、ある程度以上のアーティストは、そのジャンルを部分的には破壊する。しかし、それを全面的には破壊しはしない。ある分野、ある反復的な形式を完全に破壊する事には、勇気がいる。音楽にもっとも必要な才能が「勇気」だと言えば、人は笑うだろう。絶対音感? 三才からのピアノ? しかし、僕は言う。本当の意味で天才になるには、その者に、世界から孤立して自己自身となる勇気が必要である。僕はそう思っているし、常々そう感じている。この世界の中で孤立する事には、おそらく、死ぬより辛い何かがある。にも関わらず、それをくぐらなければ人は真に生きる事ができないのだ。

 神聖かまってちゃん、そしてD猫殿下の音楽には絶えず、過去の形式を破壊していく何かがある。例えば、彼らが、目の前にある明確に決められたリズム、音程、音量などがあるとしても、彼らは自分自身の支配者であるので、彼らはそれをたやすく越えていく事ができる。これは繰り返して言ってきた事だが、彼らは、音楽につかえている従者ではない。彼らこそは(例え演奏の間だけとしても、その一瞬だけだとしても)、音楽の支配者なのだ。彼らは音楽を道具にして、それを調べとして、自らを奏でる事ができる。しかしほとんどのアーティストはむしろ、自らが音楽によって「奏でられている」存在なのだ。

 従って、両者は僕は、今のアーティストの中では傑出していると思う。今述べた事が、僕がこの両者を褒めるその根拠だ。この両者にもおそらく、それぞれに欠点がある事だろう。普通の人同様に。しかし、彼らに欠点があろうとなかろうと、彼らがその楽音、シャウトによって「現在」、そして「未来」をこの世界の中に顕現させたという事だけは確かだ。大抵の人間は、芸術に仕え、学問に仕え、会社に仕え、人に仕えて生きている。そこに自由はない。人は、一般に、自由を求める時も、恐れのあまりに集団であり続けようとする。だから彼らにはいつまでたっても自由は手に入らない。自由とは孤独のその先にあるものである。過去の形式を破棄する恐怖に耐えたものに与えられる恩寵である。だから、この両者はその一線を越えたのだ。彼らは音楽によって自由になったのであって、彼らは音楽によって不自由に、苦渋に満ちた表情にさせられたのではない。彼らは、日常では自分自身ではない、そのような存在を音楽の中に解き放つ事によって、自分自身となったのだ。つまり、彼らは音楽によって始めて自己を完全に表現し得たのだ。

 芸術=表現という形式が正しいのであれば、どんな人間にも自己がある限り、全ての人間が天才になる余地があると言える。そしてこの両者はそうなった。しかし、人はこれからも形式の前でとどまり続けるだろう。そしてこれから先も、ある種の孤独な変わり者達は、自らの勇気と技術だけを武器に、この一線を越えるだろう。そしてこの線を越えたものだけが、新たな形式の創造者となるだろう。だから、本当の意味での形式とは、形式を破壊し自己を露わにした人間にだけ与えられる褒章のようなものなのだ。



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