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資本主義・社会主義・共産主義・民主主義

2020/08/08 13:29 投稿

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 資源には限りがあるため、社会が保有する資源を管理することは重要な問題である、社会には限られた資源しかなく、そのため人々が手に入れたいと思う財・サービスのすべてを生産できるわけではないことを希少性という。
 経済の本質は希少性の概念によって表される。希少なモノは自由に手に入れることはできず、何をどれだけ、どのように作り、どう分けるか、という経済の基本問題つまり資源配分の問題が生ずる。
 社会がその希少な資源をいかに管理するのか。
 それらの問題を社会的に解決する仕組みは「市場」と「計画」に大別される。
 「計画」は中央当局の指令によって資源配分を行うが、適切な指令のためには膨大な情報が必要であり、人々が自発的に働く誘因は少ない。計画経済では、政府などが生産量や生産方法あるいは生産物の分配について指示を行う、そこでは各個人の自発的な意思は尊重されることは少ない。社会主義あるいは共産主義は計画経済を基本としている。
 「市場」では価格を媒介とした人々の自発的な意思に基づく自由な取引によって資源配分がなされる。経済主体間で共有する価格貨幣で測られた財に対する評価を表している。価格は財の取引量を決め、利用者を特定化する働きをもつ。市場で売り手相互あるいは買い手相互の競争が行われている、そこでの取引の多くは貨幣を媒介として行われる。希少な資源を競合するさまざまな用途の間で配分しなければならないが、市場経済は需要と供給の作用を利用してその課題を果たしている。資本主義といわれている国々は基本的に市場経済の形態をとっている。
 「価格は財の取引量を決める」とは、需要量に関しては、価格が下落すると需要量は増加する、価格が上昇すると需要量は減少する、という「需要の法則」を基礎として説明される。供給量に関しては、価格が上昇すると供給量は増加する、価格が下落すると供給量は減少する、という「供給の法則」を基礎として説明される。ほかにも数多くの要素が需要量と供給量に影響を与えるが、最も重要な要素はその財自身の価格である。
 均衡状態では買い手も売り手も、取引価格や取引数量を変えるインセンティブを持たない。競争的市場経済においては、実際の取引価格は需要と供給を一致させる均衡価格となる傾向がある、これを「需要と供給の法則」と呼ぶ。
 ある価格のもとで、この財を消費したいと思う消費者は、その消費したい量だけ財を購入し消費する。ある価格のもとで、この財を生産し供給しようと思う生産者が、供給したい量だけ供給する。消費者も生産者もみな、価格を所与(与えられたもの)とみなして行動することで、財市場において需要と供給が一致する均衡(需給バランス)へと導く、この価格の調整機能を、「価格メカニズム」と呼ぶ。財市場での価格メカニズムによる調整は、価格が財の取引量を決めるように働くことで、需要量と供給量は釣り合っていくことになる。
 財市場で調整された価格は、生産者と消費者の意思決定の結果なので、その価格は、各財の社会にとっての価値と、社会がその財を生産するための費用の両方を反映したものとなるのである。アダム・スミスの偉大な洞察は、価格が調整されることで、多くの場合、個々の意思決定主体を、社会全体の厚生を最大化するような結果へと導くという点にあった。
 資本主義の原動力は、市場に参加する各主体の行動、企業のミクロ経済上の行動は、資本主義体制においては当然のことですが、最大利益の追求です。

 資本主義を正当化する根本の論拠は、利潤の追求という人間の悪しき本能から出発して人類の福祉に至る、というもの。
 資本主義の基本である市場原理または市場メカニズムの「市場」とは、企業や個人が、商品・サービス・労働力を自由に売買する場を指す。
 市場とは、経済主体間で生産要素(主に資本財、労働、土地)や財・サービスが交換される「場」のことです。市場は生産要素や財・サービスが取引され、価格が決定される概念上の「場」です。そしてその市場では、生産者が供給しようとする量と消費者が需要しようとする量が釣り合うよう、価格が決まってきます。市場はその価格メカニズム(価格が財・サービスの需給が一致するよう働くしくみ)により、多数の生産者と多数の消費者を効率的に結びつける。
 この原理の長所は、人々が自分の利潤の最大化のために生産・販売・労働するとしても、市場での競争に勝つには、良い商品やサービス・労働力を適正な価格で供給しなければならない点にある。
 自己利益(私益)の追求が、社会全体の利益(公益)に自動的につながるという、このメカニズムを、経済学者アダム・スミスは「見えざる手」と名づけた。
 競争市場では、消費者や生産者などのすべての主体は、価格を与えられたものとして「利己的な行動(合理的な行動)」、消費者であれば所得に基づく予算制約のもとでの効用最大化行動、生産者であれば技術的な制約のもとでの利潤最大化行動、をとると考えられる。
 そうした行動の結果として実現される競争均衡は、適当な条件のもとでのパレート最適(財を分けるにあたって、全ての消費者の効用を同時に高めたり、他の効用を下げずに誰かの効用を高める余地のない状態)であることが示される。こうした考えはスミス以来、伝統的に「神の見えざる手」の働きであると表現されてきたものであり、現在では厚生経済学の基本定理として知られている。厚生経済学の基本定理は、市場機構の「効率性」を端的に表している。
 利用可能な希少な資源から最大限のものを経済が得ている場合、その状態は効率的であると呼ばれる。
 効率性の観点から、希少な資源からいかに「効率的」に財やサービスを生産し、それらのものを必要とする人々や企業に届けるかを考えていくことになる。
 ここで効率的とは、人々の幸福を少しでも高めるという目的にとって「無駄なく」ということです。それは「必要としている人や企業に必要なだけ届ける」ということでもある。
 財やサービスは最も生産性の高い生産者によって生産され、最もそれを欲する人々によって消費されたとすると、効率性が達成されたといえる。
 あるの取引量が市場均衡数量(需給が均衡する数量)よりも、取引量が多い場合は必要としてないない人が財を消費していることになり、取引量が少ない場合は必要としている人が財を消費できずにいることになる、ともに社会的損失が発生しているとして、効率性の達成を失敗したといえる。
 効率性について考える際の重要な概念として「機会費用」があります。ある行動の機会費用とは「その行動をとるために犠牲にした行動や機会から得られるはずだった最大利益」「あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である」「あるものを獲得するために放棄したものを、そのものの機会費用と呼ぶ」本来は得られたであろう収入を失うことの費用のことです。
 希少な資源を効率的に配分するには、機会費用の概念がとても重要です。機会費用を考慮に入れず表面的な「費用」のみにとらわれるならば、誤った選択をしてしまうかもしれません。その結果、資源を効率的に配分することはできなくなってしまいます。
 しかし、この市場原理と市場機構は効率的な資源配分の仕組みではあるが、うまく解決し有効に対処できない事柄を、市場(価格メカニズム)が効率性の達成に失敗する「市場の失敗」と呼んでいる。その代表的な要因として、外部不経済(公害や環境問題)、公共財(公園、道路、警察、消防、国防)、分配の公正あるいは平等の問題(貧富の差など)がある。
 この資本主義体制の経済が円滑に行われている社会においては、一方では経済上の自由主義による自由企業制度が発達しつつ、他方では自由企業制度の行き過ぎを戒める独占禁止の措置が採られる。
 独占市場などの不完全市場は市場均衡(社会的余剰が最大になる)を阻害させ、社会的余剰(社会全体の利益)を損失させる。独占企業は生産量を抑え価格を高めに誘導することにより、利潤を最大化しようとする、そのため独占市場では社会的損失が発生する。市場が独占状態にあるときは、市場から得られる社会厚生は最大化されない。独占禁止の措置は、こういった市場の失敗が起こるのを防ぐためである。
 それと並んで、業者や農民は協同組合を、消費者は消費組合を、労働者は労働組合を作ってそれぞれの地位の向上を図り、経済生活を安定せしめて行くことができる。
 その上に、国家としても色々な社会政策を実行することによって、失業や貧困や不安を防止し、もしくは少なくともそれを緩和する道がある。
 進んだ資本主義の国では、このようにして、私企業の伸び伸びした活動をいたずらに押さえつけることを避けつつ、過度の自由経済に伴う弊害を是正し、政治を民主的に運用することによって、経済生活における民主主義を着々として実行している。
 資本主義は、このように時代とともに次第に進歩もし、改善もされ、資本主義の大筋の建前を変えることなしに、経済的民主主義の方向に向かって、発展しつつある。
 しかし、先進資本主義の国々では自由経済の行き詰まりがかなり強く現れ、その結果として段々と資本主義から社会主義の方向への転換が行われるようになった。
 広い意味での政治は、社会の中で対立する利害や価値の対立と紛争を権力的に調停解決する人間の営みである。その点で、調停が市場のような自動調整システムに基本的に委ねられる資本主義の市場経済とは異なる。
 政治とはこのように、対立と紛争を規制や誘導といった手法を使って、目的意識的に調整していくものであり、そのための方法として社会主義の政策を実行していくことになる。
 それでは、社会主義とはどのようなものであろうか。
 資本主義の社会では、個人や社会が生産手段を私有し、資本家の経営する私企業が経済の中心となる。
 そうして資本を持たない人々の多くはこれに雇われて、労働によって得た賃金でその生活を維持していく。
 その場合、労働者は自由に職場を選ぶことができるのであって、封建社会のように、因襲や身分によって一定の仕事に縛りつけらていることはない。その意味では、経済上の自由主義の中には「労働の自由」が含まれている。
 したがって、資本主義は、その点でも自由を重んずる民主主義の要求に合致するものと考えられて来た。
 しかし、それでは、労働者に真の自由があるであろうか。
 資本主義の下では、労働者の生活費は労働によって得た賃金でまかなわれる。もっとも、広く労働者というと、農民や一般の給料生活者も含まれるが、ここでは主として工場等で働く労働者について考えてみることにする。
 それらの労働者は職にありつけなかったり、失業をしたりすると、たちまち生活に窮することになるから、何はともあれ仕事を与えてくれる所を探して、そこで働く。
 働く場合に、賃金などについて色々と言い分はあっても、そこで雇ってもらえないと生計を維持することができなくなるから、経営者側の申し出る条件に甘んぜざるを得ない。
 職業の自由とか、契約の自由とかいっても、名ばかりで、経済生活の自由は、主として資本家にとってのみ有利に用いられる傾きがあった。
 かくして資本主義は、生産力の増大によって、国民生活の水準を向上させるには役に立ったが、そのもたらす利益は、一方的に資本家にかたよることを免れなかった。
 もちろん、資本主義は企業の自由を保障するから、労働者に対しても、機会さえあれば、資本家になる道が閉ざされているわけではない。
 しかし、機会だけはあっても、資本がなければ資本家にはなれない。したがって、無統制の資本主義の下では、資本を私有する人々と、それに雇われて働くほかはない人々との間に、はっきりとした区別ができてしまう。
 これでは、経済上の不平等がますます甚だしくなることを免れない。しかも、労働者階級は社会の大多数を占めているのであるから、自然の勢いに放任された資本主義は、できるだけ多数の人々の幸福をできるだけ向上させていこうとする民主主義の根本精神と矛盾することになる。
 資本主義に伴うこのような欠陥を是正するためには、二つの方法が考えられる。
 その一つは、資本主義の仕組みそのものは変えないでおいて、資本家と労働者との隔たりを緩和するための「社会政策」を実行するというやり方である。
 すなわち、賃金やその他の労働者の労働条件を、経営者と労働者の間の約束だけに任せておかないで、あらかじめ最低賃金を法律で定めたり、労働時間の最大限を限ったりして、労働者が不当に不利な地位に立つことがないような措置を講ずる。
 しかし、それだけではもとより不十分である。そこで、労働者が団結して経営者側と団体的に交渉しうるような組織を作ることが工夫される。
 働く手を持っている大勢の労働者が団結すれば、非常に大きな力になる。したがって、団体的に経営者と交渉するようにすれば、労働者の立場はよほど有利になる。
 また、憲法によって労働者の団結権や団体交渉権が保証され、また労働基準法、労働者災害保険法、失業保険法が設けられて、労働者の生活に伴う不安を取り除くための努力がなされつつある。
 それと同時に、組合が発達して自らの力で自らの利益を守るようになれば、資本主義の大筋を変えることなしに、経済生活における民主主義の目的を達成することができるであろう。
 これに対して、資本主義の欠陥を取り除くためのもう一つの方法は、社会主義を実行することである。
 この考えを主張する人々によれば、今述べたような社会政策を行っても、生産手段の私有を認める資本主義の原則を変えない限り、労働者の地位はとうてい根本からよくはならないし、資本家と労働者の争いは容易に解決しえない。
 そこで社会主義者は、経済上の平等を本当に実現するためには、生産手段の私有を許す資本主義を廃して、資本を国家または公共団体の所有に移すほかに道はないと主張する。
 つまり、それによって資本家と労働者の対立をなくするとともに、公企業の形で生産力の増大を図るべきだというのである。
 このように、社会主義者は、経済上の配分を平等にするための最も進んだ方法は、資本主義の経済組織を根本から変えてしまうにあると論ずる。
 しかし、資本主義の立場からいうならば、そのようにして全ての生産が国営に移されると、資本家が自由競争によって利益の追求に一生懸命になっていた時のような刺激が失われるから、果たして資本主義の場合と同じように生産を高めて行くことができるかどうかがあやぶまれる。
 社会主義的な経営方法を採用することは、経営者と労働者とを同じように取り扱う点で、社会主義の要求にはかなう。しかし、資本主義の長所を生かして行こうとする立場からみるならば、そのような組織の下では、各人がそれぞれの利益のために生産に励むという強い原動力を減退させるおそれがある。
 そこで、市場経済において、自らの労働や創意は多くの場合に自らの利益につながる(利潤動機による経済的誘因)、つまり「仕事に精を出せば出すほど利益があがる」という資本主義市場経済の強みを発揮しつつ、勤勉によって得られた収穫に対しては、労働者もまた高い賃金という形でその分けまえにあずかるようにしていくならば、生産の向上とあわせて、資本主義経済の枠内で社会主義にかなった経営が行なわれることになるであろう。
 各人がそれぞれの利益のために生産に励むという強い原動力が減退して生産が下がり、資源の高度の利用や費用の節減への熱意が減ると、配分は平等になっても、勤労大衆の生活水準が全体として低下するおそれがある。
 また、自由競争による市場経済の「需要と供給の自動調節作用」(価格によって市場が需要供給を自己調整する、競争によって生産性が上昇する)、がうまくいかないために、社会主義経済では何をどれだけ生産すればよいかを判断する確かな手がかりがなく、その結果として多くの生産力を無駄にするおそれがある。
 その他、いわゆる官僚統制や国営事業にみられるような、実情にそぐあわない企業の経営が行なわれやすいところに、この種の国家社会主義的な行き方の弱点がある。
 各主体の意思決定が、その主体の情報のみによって可能であるような仕組みは、情報分権的であるといわれる。市場経済は情報分権的である。これに対し計画経済では適切な計画を立案するためには、人々の好みや能力についての多くの情報が必要になる。好み(必要性)が多様化し、技術進歩が起こるにつれて、計画に必要な情報は膨大になる、そして情報だけもっていても、それが有効な活動に結び付く必然性はない、つまり計画当局が膨大で時々で変化する情報を把握し分析することは困難である。こうして実情にそぐあない計画経済が立案され運営される。
 それが資本主義の側から社会主義に対して下される批判の要点であるといってよい。
 これに対して、社会主義の論者は、そういう心配はないと言って、次のように説く。
 なるほど、社会主義では利潤の追求という刺激は失われるが、労働者は国民に対する義務と責任とを感じて、大いに生産に努力するであろう。(ソ連で運営された計画経済下では、組織や労働者に課される生産のノルマを達成できなかった責任者と労働者に対して、厳しい罰など時には命に関わる制裁があった、祖国の献身または恐怖によって労働するといえるかもしれない)
 また、国営の生産事業の内部でも、色々の方法で競争を進めることができるから、社会主義を実行したからといって競争がなくなったり、生産を低下させるとは限らない。
 更に、社会主義経済では、資本主義経済の特色だといわれる需要と供給との間の自動的な調節作用に代わって、国家が全体の生産を総合的に計画し、それによって合理的に経済を運営して行くから、無駄や浪費ははぶいて、国民生活に必要なものを、必要な量だけ生産していくことができる。
 その点では、資本主義の自由競争の方がずっと生産力を浪費することになる。なぜならば、必需品(穀物など)よりも贅沢品(食肉など)が生産され、競争のための広告費とか、品物の保管費などが大きくなり、それだけ無駄が行なわれる。
 世界の飢餓の原因は、食糧生産が追いついていないからではない、事実、世界中の一人ひとりが十分に食べられるだけの食料が生産されいてる。しかし、その足りているはずの食料のうち、主に豊かな先進国で3分の1が食品ロスとなっている現実がある。
 また、生産される穀物は世界中の人間が生きていくのに必要な量の2倍を生産している、穀物は人間が食べるだけでなく、ウシ・ブタ・ニワトリなどの家畜のえさになっている、結果として、世界の2割足らずの先進国が世界の穀物の半分以上を消費している。
 一握りの資本家が貴重な水資源を操作することで地域の水利権を独占し、水を別の商品へと変換した財として、果物、ナッツ、野菜を生産し世界市場で販売しており、地域住民は干ばつや地下水の枯渇で深刻な水不足に陥った。
 生きるため生活するため、万人に必要であり希少性のある自然資源の「水が高価格の商品になる」という現実に、干ばつや地下水の枯渇で深刻な水不足に陥った住民のみならず、世界中が気づきつつある。
 河川や地下水などの水ように、私的に消費されるが、他の人を排除せず、自由な利用が可能で、過剰な利用や消費により枯渇する可能性をもっている財・サービスが「共有資源」であり、地球環境を構成する大気・水質・土壌・動植物の分布などもその例である。現在こうした「共有地の悲劇」と呼ばれる現象が実際に繰り返され、あるいはそれが繰り返される危険性はきわめて高い。
 こうした環境破壊や汚染などに代表される外部不経済(社会的不利益)が発生しているときは、社会的に最適な生産・消費量と均衡生産・消費量が乖離する。市場経済は情報分権的であるため、個々の生産者や消費者は財価格を指標に考慮するが、自らの行動が生み出す外部不経済は考慮せずに生産・消費活動を行うからである。
 このようなときは、政府の市場介入により、社会厚生を増大させることができる。消費や生産に課税もしくは補助金を与えることにより、生産・消費量を社会的最適水準に誘導できる。公共財と共有資源の場合は、政府が直接財を供給する(もしくは公共財または共有資源の供給を規制などを通じて調整する)ことになる。
 それは、社会主義の「計画経済」によってのみ除かれるであろう、と。
 資本主義がよいか、社会主義によるべきかについては、このように大きく議論が分かれている。
 しかし、この問題について判断する場合によく注意しなければならないのは、資本主義といい、社会主義といっても、決して普通に本に書いてあるように、また、実際問題から離れた議論の中に出て来るように、はっきりと二つに区別されてしまうようなものではなく、その間に幾つもの中間の形態があり、さまざまな程度の差があるということである。
 すなわち、公式論的にいうならば、資本主義は、生産手段の私有を基礎として経営される経済組織であるのに対して、社会主義は生産手段の私有を認めない。
 しかし、生産手段の私有を認めないといっても、それはどのような種類の生産財を意味するか。すべての生産手段の私有を禁じ、すべての産業を公企業化してしまえば、それはもちろん完全な社会主義に相違ない。
 しかし、例えば単に土地を国有とし、鉱山その他二、三の重要産業を国営としただけでも、十分に社会主義的な政策であると認められうる。
 けれども、その時には、依然としてその他の生産財の私有が認められているのであり、したがって、社会主義的だといわれる経済の中でも、それらについては資本主義の、または資本主義に近い仕方での生産が行なわれているのである。
 逆に、全体として資本主義的な経済組織が行なわれている社会であっても、特に国民の福祉に関係の深い幾つかの企業に統制を加え、これに対する国家の管理を実施した場合には、既にそれだけ社会主義的な要素が加味されているのであるということができる。
 それなのに、第19世紀的な無統制の資本主義と極端な社会主義とだけを比べて、どちらが良い、どちらが悪いと議論してみたところで、実際にはなんの役にも立たない。
 だから、実際問題として大切なのは、このような様々な社会経済の運営のしかたの中で、どういう方針を採用し、どの程度に二つの要素を結びつけて行くのが、国民経済の民主化のために、本当に適当であるかを考えることである。
 それには、自分たちの社会がどのような経済条件の下にあるか、自分たちの国が現在どんな国際環境の下におかれているかを、十分に考え合わせてみなければならない。
 現実の具体的な条件を度外視して、空な理論だけで事を決めるぐらいむだな、いやむしろ危険なことはない。
 また、今日のような複雑な世界において、外国との関係を無視して経済の再建や国民生活の向上を図りうるはずはない。
 民主主義の政治が行なわれているところでは、我々は、多数決の原理にしたがって、資本主義の長所を発揮していくこともできる、大なり小なり社会主義的な政策を行なうこともできるし、両方を併用して行くこともできる。
 自由競争の利益に重きをおく政党が政治の中心勢力となれば、資本主義の根本の組織は動かさずに、経済の民主化を図ろうとするであろうし、国会の多数を占めた政党が、重要産業の国有法案を通過させたとすれば、それだけ社会主義の線に近づくことになる。
 ゆえに、我々は、日本のおかれた内外の情勢を冷静に見きわめ、各政党の動きをよく注視して、どういう政策を支持すべきかを判断しなければならない。
 ただ、その場合に特に注意を要するのは、全体主義的な方法によって社会主義を実現しようとする、「共産主義」の態度である。
 共産主義は、まず社会主義を徹底させることを目ざしているのであるが、その特色は、資本主義を最初から根本的に悪いもの、もしくは、歴史とともにまもなく滅びてしまうものと決め手かかっている点にある。
 したがって、多数決の方法によってその時々の具体的な事情に適した政策を採ることに飽き足らず、暴力革命や、いわゆるプロレタリアの独裁などという非民主的な方法に走ろうとする傾きがある。
 我々は、民主主義の根本の政治原理たる多数決によって、自由企業制度の長所を生かすこともできるし、自由経済の弊害を除き、行き過ぎを是正して、高度の経済的民主主義を実現していくこともできる。
 ゆえに、この弾力性に富んだ政治のやり方に疑念をいだき、暴力や独裁によって他の人たちの意志を鑑みることなく抑圧し、少数の意志を貫こうとする全体主義の誤りに、陥ることがないように、深く戒める必要がある。

 資本主義の経済生活における民主主義を実現するためには、消費者の利益を考えるにあたって、最も大切なことは、できるだけ「消費の自由」を与えることである。
 市場における消費者の行動は、消費財に対して評価を行いつつ自分自身の効用を最大化しようと、消費財に対する需要、すなわち消費財の何をどれだけ購入するかということ、ならびに自分の保有する労働などの生産用役(労働力)の供給となって現れる、これを消費者の合理的行動の結果としてとらえ、消費者の合理的行動を資源配分を決める市場機構の仕組みに利用する。
 「消費の自由」とは、競争市場における各消費者の行動は、自分自身の所得に基づく予算制約のもとでの効用を最大化しているという意味で利己的かつ自発的であり、社会全体の効率性を考えているわけではなく、また他から強制されているわけでもない、ということである。
 「情報の分権性」とは、各消費者に求められているのは、自分自身の所得に基づく予算制約と効用に関すること以外は、価格についての情報のみである。どの財がいくらで売られているかを知っていればよいのであって、他の消費者の効用は知る必要がない、ということである。
 「適当な条件のもと」で、競争均衡では、消費の自由と情報の分権性をもった各消費者のそうした行動によって、結果としてパレート最適(財を分けるにあたって、全ての消費者の効用を同時に高めたり、他の効用を下げずに誰かの効用を高める余地のない状態)である資源配分が実現される、という厚生経済学の基本定理の主張である。
 市場均衡では、他の人々の状態を悪くさせることなくある人々の状態を良くする方法はない、そしてこれが効率性の定義なのだ。
 ただし、効率性を測る概念であるパレート効率性は、資源配分の結果に対する平等性や公平性を問題とする望ましさを測る概念としては、とても弱い概念である。
 何が一番必要か、真っ先に何を買いたいかは、原則としてその人が最もよく知っている。
 人にはそれぞれ好みがあり、また、生活上の必要も異なるから、これを一律におさえることはなるべく避けなければならない。
 もちろん、物資の少ない時には、消費の割当や制限を行なうこともやむをえないが、それでも、「消費の自由の精神」はなるべくいかされるべきである。
 消費者生活を支えるものは、根本においては生産である。生産が向上して来ない限り、消費生活の向上は望まれない。
 あらゆる生産は、決して生産者だけの利益のために行なわれるのではなく、国民全体の生活を豊かにし、その福祉を増進するために、欠くべからざる意味を持っている。
 わが国の生産はどこまで発展するであろうか、国民すべてに仕事を与え、その生活を維持させることができるであろうか。日本の経済が果たして十分に民主化されるかどうかは、結局、すべてここにかかって来る。
 生産がふるわないために、国民の生活水準が低くなり、いたるところに失業者があふれるようでは、経済生活における民主主義はとうてい現実されえない。
 それどころではなく、経済の不振と混乱とは、やがて政治上の民主主義をも危うくし、民主国家としての歩みを困難ならしめる。
 経済政策の失敗と不況が全体主義や共産主義などの擬似国家社会主義の台頭を招き、結果的に全体主義政権を生んでしまう。日本経済のこれからの見通しの前途は決して安心してはいられない。
 人は弱いので、淡い希望にでもすがりたいもの。いつかは少しはよくなるという希望がなければ、人は生きてはいけない。
 大恐慌による資本主義経済の混乱では、知識人やエリートは共産主義に希望を見出し、労働者は社会主義(ニューディールなど)またはファシズムに希望を見出した。
 資本主義諸国で多くのエリート・知識人たちが、資本主義に不振と絶望を感じ、民主主義には失望を感じた、そして共産主義の「資本主義体制の搾取と阻害から人類が開放される未来」という理想的イメージの誘惑に魅了されていった。その背景には、大恐慌による経済の混乱があった。

 民主主義の反対者が一番強く非難する点は、多数決の原理である。それは、「頭かずの政治」であり、「衆愚政治」である、民主主義に反対する者は、そういって民主政治をたたきふせてしまおうとする。
 民主政治に対するこのような非難から導き出されるのは、「独裁主義」である。多数決によって行なわれる民主政治を衆愚政治であるといって非難する立場は、それに代わるべき政治の根本として、「指導者原理」を主張する。
 最も有能な最も賢明な、最も決断力に富んだ、ただひとりの人物を押し立てて、その指導者に政治の絶対権を与え、国民は指導者の命令通りに足並みをそろえてついて行くのが一番よいというのである。
 独裁主義が民主主義に対して非難を加えるもう一つの点は、「個人主義」である。民主主義は、すべての人間を個人として平等に尊重し、他人の自由を侵さない限り、公共の福祉に反しない限り、各人の自由を保障する。
 しかし、独裁主義者にいわせると、各個人がそれぞれその自由を主張し、かってに自分たちの利益を求めることを許すと、社会全体の統一が乱れ、国家や民族の利益がないがしろにされる。
 独裁主義者によると、重んぜられるべきものは、個人ではなくて、国家全体であり、民族全体である。個人は全体の部分であり、全体の部分としての価値しか持たない。そのように論じて個人主義や自由主義を攻撃し、その代わりに「全体主義」を主張する。
 各人は自己の利益も、あるいは自己の生命さえも、喜んで全体のために投げ出さなければならないと要求するのは、このような全体主義の結論にほかならない。
 全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。
 世の中で一番尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。
 かくして、政治に対する国民の批判を封じ、政党の対立を禁じ、議会政治を否定して、絶対の権力を握った独裁者にすべてを任せ、まっしぐらに一つの政策を貫いていこうとする。
 過去ではこのような独裁主義は悲惨な運命のどん底に国民をおとしいれた。民主政治が「衆愚の政治」であるならば、独裁政治は、ひとたびあやまちを犯した場合には取りかえしのつかない「専断の政治」ではないのか。
 「人間の理性」の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁政治は、失敗を犯すと、必ずこれを隠そうとする。そうして、人間の理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。
 だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
 これに反して。民主主義は「言論の自由」によって政治の誤りを常に改めて行くことができる。絶えず政治を正しい方向に向けて行くことができる点に、「言論の自由」と結びついた「多数決原理」の最もすぐれた長所がある。
 独裁主義は、個人主義を攻撃し、自由主義を非難する。そうして、その代わりに国家全体の発展を至上命令とする全体主義の哲学を提唱する。
 部分たる個人に全体のためへの犠牲を求めるのは、全体の権威をかさにきて発せられる命令をもって、国民をむりやりにひきずっていくためにほかならない。
 そこには、国民の個人としての自由と幸福とを奪っても、社会主義の「計画経済」などの独裁者の計画を思い通りに強行しようとする底意がひそんでいるのである。
 民主主義は、個人を尊び、個人の自由を重んずる。けれども、民主主義の立場は、正しい意味での個人主義であって、決して利己主義ではない。
 民主主義者は、国家を重んずるべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利をふみにじることに対しては、あくまでも反対する。
 国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともどもに助け合い、一致団結して築き上げた祖国であればこそ、愛するに値する。

 社会主義という場合には、それは独裁主義とは関係がない。
 生産手段の私有を廃しするという意味での社会主義は、議会政治によっても実現されうるし、もとより暴力革命を必要とするものではない。
 過激な共産主義によると、「議会政治を利用して社会主義を実行しようというのは、資本主義がどんなに強い地盤の上に築かれているかを知らない者の考えである」とする。
 支配階級であるブルジョア階級は巨大な資本の力をもって政治権力を握っているから、金と権力にものをいわせて、被支配階級であるプロレタリア階級など社会主義勢力の拡大を防ぎ止めようとするに相違ない。
 したがって、過激な共産主義の指導者は議会政治を否定して、支配階級に対して武力闘争によって起こされる暴力革命こそが古い支配階級に対して被支配階級がとどめをさすと力説した。
 この共産主義の立場は、議会政治を通じて社会主義を実現しようとする立場を排斥し、そのためには暴力革命に訴えるのもやむをえないとし、革命が成就した後も、いわるゆ「プロレタリアの独裁」を必要とした。
 共産主義者は、なぜ、「プロレタリアの独裁」という政治組織を必要とするのであろうか。
 この問いに対する共産主義者の立場からの答えは、こうである。すなわち、プロレタリアの革命は決して一度で完成するものではなく、それが一応は実現された国でも、まだまだブルジョア階級(ブルジョア思想)との闘争を続けていかなければならない。
 したがって、純粋に無産勤労大衆だけの世の中になって、階級の対立(思想の対立)が全くなくなってしまうまでは、プロレタリアが政治の独裁権を握って、革命の精神を徹底させて行く必要がある。これが共産主義の考え方である。
 また、独裁政権が長期間にわたり国民を支配する体制を維持するために、外国勢力による脅威を訴え、大衆の愛国心を喚起することで、国内(内側)の不満を外国(外側)へ向けて、政府に対する国民の求心力を保つ方法もとられる。
 共産主義は、一つの絶対主義である。絶対主義は、自分の立場だけが絶対に正しいとする考え方であるから、もとより反対の立場が存在することを許さない。
 ひとたびいわゆる「プロレタリアの独裁」が確立されるならば、そこでは、もはや共産主義に反対したり、計画経済などの政府の計画や政府の政策を批判したりすることは許されない、国内メディアを厳しく統制し、言論の自由を弾圧し、人権侵害を是認し、政府へのいかなる批判を認めない。
 もしも、ある人の言論が共産主義のわくを越えたり、その理論と対立したりした場合には、その人はたちまち「反革命主義者」や「ブルジョア思想」という烙印を押されて、強制収容所に入れられ再教育や奴隷労働を強制したりして、弾圧されて社会から排斥されてしまう。
 それでも支配体制は経済状況によって動揺するために独裁体制は十分とはいえない、そこで国民を団結させる共有されたイデオロギーが必要となり、「国民が自国以外の世界に対して対抗する」というストーリーを内包した愛国教育が進められた。
 子供の思考には、大人よりもはるかに大きな影響を与えることができ、幼児教育は大人への再教育よりもはるかに効果がある、だからこそ幼稚園から大学まで、社会主義の核心的価値・国家のあるべき歴史とその目指す方向についての教育を通じて、体制にとって有害なアイディアを排除しつつ、効果的かつ効率的に国民の思想や考えを愛国教育によって長期間拘束した。そういった国内で常に実践している思想戦を国内だけに留めずに国境を超えて、介入主義的な学術面や思想面などでの警察活動をも輸出し始める。
 いわゆる「プロレタリアの独裁」の下では、存在しうる政党はただ一つ、共産党あるのみである。共産党以外の政党は、すべてブルジョア政党として、禁止されてしまう。
 さらに、恐怖により抑圧する体制も敷く、体制への批判的な表現や言論や活動の告発と密告を奨励し、告発の文化を根付かせることで人民を相互に監視させる。彼らは自国民の声を抑圧するだけにでは満足せず、国境を超えて民主国家をも黙らせようとする、いわば恐怖政治とデジタル監視の輸出である。
 意見や利害が対立している限り、その中の秩序を維持するためには集団の構成員を従わせる強制的な力が政治には必要となる、この強制力を権力(政治権力)という。民主制では三権分立させることで、権力を法律により規律するが、独裁政治では法体制が独立なものではなく、権力が法律を作り、権力が司法を行い、権力が法律を行使するため、独裁政治では法律とは人民を支配するツールである。
 謀略や陰謀を含む暴力によって得られた一党独裁権力の下では、「自国と共産党への謀略や陰謀が存在すること」が前提とされ、反革命勢力から革命を守るためにインテリジェンス機関(秘密警察、情報機関など)を必要とした。
 民主国家では警察や軍隊と同じく、インテリジェンス機関(秘密警察、情報機関など)もまた、国民の理解と支持のもとで運用されるべきであるが、共産主義一党独裁の政治支配体制下では、インテリジェンス機関も警察も、国民を弾圧するツールになる。
 共産主義の一党独裁国家は法治国家ではない、そのため法で個人の権利や私有の財産が守られることはない、それらは権力により剥奪されたり守られることになるので、共産主義の組織は権力による均衡を保つ必要がある、組織内で権力の衝突を繰り返す権力闘争状態が絶え間なく続く。国境を超えて国際社会と民主国家をも権力で強制できる影響力を浴す、いわば権力闘争の輸出である。
 共産主義一党独裁権力に市場経済が加わると必然的に汚職が発生する、私有の財産や企業資産と市場影響力を守るのは権力だからである、すべての実業家たちの政治権力と結びついていない民間の富は、捕食者的な権力支配体制の下では必然的に不安定になる。
 もし市場経済を、汚職の比較的少ない政府と両立させたいのであれば、経済を動かす実業家たちには独立した司法体制によって守られる法的権利が必要になる。ところが共産主義の一党独裁国家では、まさにこれこそが決定的に提供できないものだ。なぜならその定義からして、党は法の上に存在するものだからだ。
 共産主義の一党独裁国家の実業家たちは、独裁組織の政治の方向性に極めて好意的であると判明しているが、これは結局、彼らが富と影響力を蓄積できたのは権力支配体制下であることを考えれば当然だろう。国境を超えて金で政治権力・影響力を買う賄賂腐敗文化を輸出する。
 共産党は、国民に対してプロパガンダによって自国と共産党(政府)を同一視させる、つまり「共産党(政府)」と支配下にある「自国」という国家を同じものと考えるよう国民に信じ込ませる。
 そうすることで「共産党(政府)を批判することは祖国の裏切り者」という罪悪感を国民に持たせるとともに、「自国を愛しつつ共産党(政府)を批判する」ということを防ぐねらいがある。
 しかし、「政府」と「祖国(政府の支配下にある自国)の"区別"は、政府が行なう政治を正しい方向へ国民が政府を批判することで向けて行くには、根本的に重要な概念である。

 政治的な自由に立脚しつつ、それによって国民全体の経済的福祉を実現しようとするのは、経済的民主主義の立場である。
 国民自らの意志によって経済的民主主義を実行し、その方法について自由に意見を戦わせ、多数決で政治の方針を決めて行くというのは、確かに暇がかかるであろう。
 人によって価値観や求める利益は異なる、そういった複数の人々から構成される集団においては、考え方の違いや利害の対立は避けられない、こうした状況の中で、多様な意見や利害の対立を「絶えず調整し続ける」ことで、社会全体の秩序が維持される。すなわち「考え方の違いや利害の対立は絶えず続く」ということである。
 共産主義者の立場は、独裁によって一挙に問題を解決しようとするのである。
 しかし、その代償として政治上の自由を放棄し、批判を許さぬ「上からの命令」によって動かされるようになるとするならば、果たしてそれは「人間の理性」によって行動するゆえんでありえようか。
 自分が暴力によって革命を成したので、相手も暴力によって自分を転覆させようとするに違いないと恐れ、自分が工作で謀略・陰謀を仕掛けたので、相手も謀略・陰謀をやってくるに違いないと恐れる、「自分が暴力や謀略・陰謀をすればするほど、相手も自分にやってくるに違いない」とする病的な猜疑心は人間の理性に反する愚かしさがある。
 民主主義を採用する国家においては、国民は主権者である。国家の制定する法律や、そのもとで内閣がおこなう決定は政治であり、そうした決定は国民がおこなった決定とみなされる。主権者として国民は、政治を監視するだけでなく、より良い政治を実現する責任を負っている。すなわち民主政治は国民全員の「人間の理性による行動」にかかっている。
 民主主義の原理にてらしてみれば、自由を重んじ、平和を愛しつつ、政治的民主主義、社会的民主主義、経済的民主主義を築き上げて行く以外に、賢明な民主国家の国民の進むべき道はない。
 闘争と破壊とによってではなく、平和と秩序と理解の上に、少数の特権を持つ人々のためではなく、生きとし生けるすべての人々にとっての幸福な社会を打ち立てて行こうというのが、民主主義の理想である。
 (民主主義──文部省著作教科書 文部省(著) 引用編集)

 (目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 クライブ・ハミルトン(著) 引用編集)
 (詳説 政治・経済 改訂版[平成30年度改訂]文部科学省検定済教科書 引用編集)
 (ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史 山内智恵子(著) 引用編集)
 (経済学・入門 第3版 (有斐閣アルマ) 引用編集)
 (ベーシック経済学 -- 次につながる基礎固め 新版 2018 有斐閣アルマBasic 引用編集)
 (マンキュー入門経済学(第3版)2019 N・グレゴリー・マンキュー 引用編集)
 (スティグリッツ入門経済学 第4版 ジョセフ・E・スティグリッツ 引用編集)
 (クルーグマンマクロ経済学日本語2009 引用編集)

■アダム・スミスは以下のように述べている。
 人間はほとんどいつでも他の人々からの助力を必要としているが、他の人々の利他心だけを頼りにしても無駄なことである。
 彼らの自己愛を自分に好都合な方向に惹きつけたり、自分がしてほしいとおりにすることが彼らにとっても得になるのだということを示したりすることができれば、思いどおりのことを実現できる可能性は高まるだろう。
 「私のほしいものをくれたら、あなたもほしいものを入手できるだろう」というのが、そうした提案のどれもが意味していることである。
 そうした形で、われわれは、自分の必要とする助けのほとんどを、互いに入手しているのである。
 われわれの夕食は、肉屋や酒屋、パン屋の利他心に依存しているのではなく、彼ら自身の利己心の尊重に依存しているのである。
 われわれは、彼らの人間性にではなく利己心に訴えるのである。
 われわれの必要性について語るのではなく、彼らの利益について語りかける。
 まわりの市民たちの利他心に依存しているのは物乞いだけである。
 どの個人も、公共の利益を促進しようと意図してはいないし、自分たちがそれをどれだけ高めているのかも知らない。
 誰もが自分の利得のみを考えているのであり、そうすることで、他の多くの場合と同様に、見えざる手に導かれて、自分の意図していない目的を促進しているのである。
 公共の利益が利己心に入っていないことも、社会にとって悪いわけではない。
 利己心に突き動かされることで、本当に意図した場合よりも効果的に公共の利益を促進できることが多いのである。
 (マンキュー入門経済学(第3版) N・グレゴリー・マンキュー 引用)

■経済学の重要な洞察
 経済学の重要な洞察は、需要と供給の力が自由に働いているときには、価格が希少性の尺度となるということである。
 けれども価格の役割は希少性を表すことだけではない。きわめて重要な経済情報を伝える働きも持っている。
 土地、労働、資本のような資源の価格が高くなれば、企業はその使用量を節約しようとする。また生産している財の価格が高くなれば、企業はできるだけその生産を拡大しようとし、一方で顧客はその財の使用量をできるだけ節約しようとする。
 このように価格は、経済がさまざまな希少資源を効率的に利用するインセンティブを生み出しているのである。
 (スティグリッツ入門経済学 第4版 JEスティグリッツ 引用)

■インセンティブと情報、価格、所有権、利潤
 市場経済が効率的に働くためには、企業と個人は十分な情報を持ち、かつ利用可能な情報に基づいて行動するというインセンティブを持たなければならない。
 市場経済は、価格、利潤、および所有権を通じて情報とインセンティブを個人や企業にもたらす。
 価格は、さまざまな財の相対的な希少性についての情報を提供する。
 価格システムによって、その財のために最も多くのお金を支払ってもよいと考え、かつ支払い能力のある人々の手に、それらの財がわたることが保証される。また、価格は希少性についての情報を消費者に提供し、消費者は自分の消費を調整してこれに対応する。
 同様に、価格は個人がさまざまな財をどのように評価しているかについての情報を企業に提供する。利潤を追求する企業は、価格のもたらす情報に反応するように動機付けられている。
 企業は、消費者が望むものを、最も効率的な方法で、すなわち希少な資源を最も少なく利用する方法で生産することによって、利潤を増加させる。
 同様に、合理的な個人も、自己の利益を追求するため、価格に反応するようになる。彼らがより高価な財ーある意味では、相対的に希少な財であるーを購入するのは、そうした財がそれ相応に大きな便益をもたらす場合だけである。
 価格は、個人や企業が合理的な意思決定を行うために必要となる情報を提供してくれるのである。
 個人や企業の利潤動機が有効に働くためには、所有権が付随した私有財産がなければならない。
 (スティグリッツ入門経済学 第4版 JEスティグリッツ 引用)


■交易(取引)はすべての人々をより豊かにする
 あなたが毎日享受している財・サービスは、世界中の多くの人々が提供してくれているものである。
 そのほとんどの人たちを、あなたは知らない。
 そうした人たちに依存することよって、あなたの生活は成り立っているのである。
 このような相互依存が可能なのは、人々がお互いに取引(交易)するからである。
 人々があなたに財・サービスを提供しているのは、気前がよいからではない。政府が彼らに命令して、あなたの欲求を満足させているわけでもない。
 彼らがあなたや他の消費者に自分たちのつくった財・サービスを提供しているのは、何らかの見返りがあるからなのである。
 (マンキュー入門経済学(第3版) N・グレゴリー・マンキュー 引用)

■市場経済におけるパレート効率性の条件
 ・交換の効率性:生産されたもののすべてが効率的な方法で個々人に分配されなければならない。価格システムは、交換の効率性が達成されることを保証する。
 ・生産の効率性:他の財の生産を少なくすることなしに、ある財をより多く生産することは不可能でなければならない。価格は、企業にその使用する投入物の希少性を伝えるシグナルである。
 ・生産物構成の効率性:経済によって生産されている財の構成が、人々の選好を反映したものでなければならない。選好の変化は、需要と供給の働きを通じて、速やかに価格の変化に反映される、次にこの変化が企業の生産の変化をもたらすのである。
 (スティグリッツ入門経済学 第4版 JEスティグリッツ 引用)

■通常、市場は経済活動を組織する良策である
 どのような経済システムにおいても、希少な資源を競合するさまざまな用途の間で配分しなければならない。市場経済は、需要と供給の作用を利用してその課題を果たしている。
 経済にある多数の財・サービスの価格は、需要と供給の組合せによって決定する。
決定した価格は、資源配分を導くシグナルとなる。
 誰が限りがある希少な資源(例:海辺の贅沢な土地)を獲得するだろうか。その答えは、誰であろうとその価格を支払う意志がありかつ支払える人である。
 限りがある希少な資源(例:海辺の贅沢な土地)の価格は、需要量と供給量が正確に一致するまで調整される。
 このように、市場経済においては、価格が希少な資源を分配するメカニズムとなるのである。
 同様に、価格は、それぞれの財を誰が生産するのか、またそれぞれの財がどれだけ生産されるのかを決定する。
 例として農業を考えよう、われわれが生きていくためには食料が必要なので、誰かが農場で働くことが絶対に必要である。
 それでは、誰が農夫になり、誰が農夫にならないかを決めるものは何だろうか。
 自由社会においては、政府の計画部門がそれを決定し、適切な食料の供給を保証しているわけではない。
 その代わりに、膨大な数の労働者の職業に関する意思決定が基礎となって、農場で働く労働者が決められているのである。
 この分権システムがうまく機能するのは、「意思決定が価格に依存している」からである。
 農夫になることを選ぶ人が十分な数に達するように、食料の価格と農場労働者の賃金(彼らの労働の価格)が調整されているのである。
 経済とは、相互に依存した多用な活動に携わる人々の大きな集まりである。
 分権化された意思決定によって混乱状態に陥ってしまうことを防いでいるものは何だろうか。多様な能力と欲求を持った膨大な数の人々の行動を整合的にしているものは何だろうか。満たされるべきニーズが本当に実現されることを保証しているものは何だろうか、これらの問いへの答えは、一言でいうと「価格」である。
 (マンキュー入門経済学(第3版) N・グレゴリー・マンキュー 引用)


■市場で各消費者は自分の選好を正直に表明している
 通常の財の場合には、みずからの選好を正直に表明しない限り、その財を消費することができません。市場でのその財の価格(社会的共通な基準の貨幣で測られた価格)より自分の評価のほうが高ければ、消費者はその財を買う(所得制限された予算の範囲内で買う)でしょうし、それによって消費者の選好を表明したことになります。
 このように、各消費者がみずからの選好を正直に表明することが、市場取引によって最適な配分が実現できることの背景にあります。
 (入門経済学 第4版 伊藤元重 引用)

■市場の機能によってより豊かになる
 市場での自由な活動に委ねれば、もっとも効率的な生産者のところに資源が集まり、もっとも低コストで生産が行なわれます。
 そしてそのように生産された財やサービスは、それをもっとも必要とする人のところに配分されます。

 市場には、新しい技術を開発し、積極的な投資を行うようなダイナミズムが備わっており、それが経済成長の原動力となるのです。
 市場経済の重要な特徴は、そこでさまざまな形のきびしい競争が展開されているということです。
 生産者間の競争によって資源のロスが小さくなる。企業が利益を求めて競争をするためには、生産のむだはできるだけ減らさなくてはいけません。むだの多い生産方法をとっていたら、利益をあげるどころか、競争に敗れて倒産してしまうかもしれません。
 市場経済においては、実に多様な形で競争が行なわれており、それが個々の労働者や経営者に、効率性を高めたり、よい製品を開発したりするインセンティブを与えています。
 市場経済における競争は、適者生存あるいは自然淘汰というメカニズムを持っています。競争の過程で、生産性の低い企業や労働者は、淘汰されていってしまうのです。
 (入門経済学 第4版 伊藤元重 引用)

■相互作用、経済が働く仕組み
 経済とは多くの人々の生産活動を調整する仕組みである。私たちが経験しているような市場経済の場合、この調整は特定の調整者なしに行われている。
 各個人が自分の選択を自分でしているのだ。だが、この選択は決して相互に無関係に行われているわけではない。各個人の機会は、したがってその選択は、他の人々によってなされた選択に大きく依存しているからだ。
 市場経済の働きを理解するには、私たちは、私の選択があなたの選択に影響し、逆にあなたの選択が私の選択を左右するという相互作用を研究する必要がある。
 経済的相互作用を調べれば、個人的選択の帰結は一人ひとりの個人が意図したこととはまるで違うものになる可能性があることにすぐ気づく。
 私の選択があなたの選択と相互作用を起こすのはなぜだろうか。
 一人ひとりが自分の必要なものを全部自前で取り揃えるなんて、やってみることはできるかもしれないが、そんな生活は悲惨なものになるだろう。
 誰にとってもはるかに良い生活は、「取引」すなわち、仕事を分割し、各人が他人の必要とする財やサービスを自分が望む財やサービスと交換することだ。
 この世に市場経済があるのは、取引利益が存在するからだ。仕事を分割し取引することで、2人の人たち(あるいは60億の人たち)は自給自足でいるよりも欲しいものをより多く手に入れることができる。
 取引利益はこのような仕事の分割、経済学者はそれを特化と呼ぶ。
 社会全体で人々が分業し取引をする市場経済(特化することを可能にする市場)では、各人が1つの仕事に特化して他の人々と取引するとき、社会全体としてより多くのものを生産できるようになる。
 自分の欲しい財やサービスを市場で手に入れられることを知っていれば、人々は安心して自給自足を捨て特化する気持ちになれる。
 人は自分の暮らしを良くしようとし、自分の状態を改善しようとする、すなわち「人は自分の暮らしを良くする機会を逃さない」という原理が経済全体で相互作用することによって、人々は市場が自分たちの欲しいものを提供してくれると思える。
 実際、私たちは市場が生活必需品を提供してくれると信じている。

 (クルーグマンマクロ経済学日本語2009 引用編集)

■政治の安定、財産権、過剰な政府介入
 暴動でビジネスが破壊されそうなときにそのビジネスに投資したり、裏で政界とつながりのある者があなたのお金を盗み取れるときに貯蓄を行ったりするのは、意味がないことだ。
 政治の安定と財産権の保護は、長期の経済成長にとって不可欠なものだ。
 アメリカのように成功した経済で長期成長が達成できたのは、良い法律、それらの法律を履行させる制度、それらの制度を維持する安定的な政治システムがあったからだ。
 法律は、個人の財産は本当にその人のもので誰もそれを奪えないことを定めていなければならない。裁判所と警察は誠実で、賄賂を受け取って法律を無視するようなことがあってはならない。また法律が気まぐれに変わることがないよう、政治システムは安定していなければならない。アメリカ人はこれらの前提条件を当然のものと思っているが、そうである保証は全くない。
 しかし、過剰な政府介入は経済成長のブレーキになる可能性がある。経済の大きな部分が政府の補助金で支えられていたり、輸入圧力から保護されていたり、あるいは競争から隔離されていたりすれば、自助努力が欠如して生産性が損なわれる傾向がある。
 成長率が国や時期によって違うのはなぜか、最も単純な答えは、急成長する経済では物的資本の蓄積や、人的資本の増加や、急速な技術進歩が、あるいはそれら3つすべてが持続的に起きている傾向があるからだ。
 もっと深い答えは、経済成長を促す政策や制度、すなわち物的資本・人的資本の増加や技術進歩を促す人間の努力が確実に報われるような政策や制度があるから、というものだ。
 (クルーグマンマクロ経済学日本語2009 引用編集)


■国内総生産(GDP)の分配面からみたGDP
国内総生産=雇用者報酬+営業余剰・混合所得+(生産・輸入品に課される税-補助金)+固定資本減耗
 一国の生産活動は、生産に参加した経済主体に対する分配という観点からもとらえることができる。すなわち、われわれは、労働者として働けば賃金という報酬を受け取ることができるし、土地や資本(資金)を生産活動に提供すれば(労働と時間を提供しなくても)その分だけ賃貸料や利子(配当金)といった報酬を受け取ることができる。
 これらの報酬は、いわば生産活動に従事(労働と時間を提供しなくても)したことの代償として支払われるものであり、生産活動によって得られた収入は、このような報酬として分配されると考えることができるのである。
 このように生産活動への報酬として支払われた所得は、要素所得といわれる。要素所得は、雇用者報酬と営業余剰・混合所得から構成されている。
 (マクロ経済学・入門 第5版 有斐閣 引用編集)


■トランプ大統領、共産主義犠牲者の国民的記念日を宣言

 トランプ大統領は2017.11.7、共産主義犠牲者の国民的記念日を宣言した。
 本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボルシェビキ革命から100周年を記念するものです。ボルシェビキ革命は、ソビエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。
 前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は1億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。
 今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します。

■福祉国家①
 社会主義勢力は「資本主義経済の下で、貧しい人や社会的弱者を救うのは、政府の役割である」という社会主義的発想に立って、資本主義経済の自由競争を規制し、政府の統制を強めることで、「福祉国家」を実現しようとした。
 しかし、社会福祉によって働かずとも人並みの生活ができると分かれば、労働意欲や自主独立の気概は後退していく。
 一方、社会福祉を行なうにために政府機関を多く必要とするから、政府は必然的に肥大化する、しかも福祉の資金調達を名目にして、国民の資産を税金と称して合法的に奪っていくことになる。
 福祉国家の路線を歩めば、その肥大化した権力に溺れる者がいずれ現れて、社会福祉を餌に国民の私生活にまで干渉し、自由を抑圧する全体主義国家となっていく危険がある。
 すなわち、市場の自由競争や個人の自由を否定する政府の規制や統制による計画経済政策が結局、独裁体制をもたらし、その経済活動の方向は必然的に「国民の自由、自主独立の抑圧」を意味する。

 しかも、この福祉国家の体制は国家社会主義、官僚統制主義を拡大させる、その延長線上に、共産党一党独裁の共産主義体制がある。

■福祉国家②
 国民が国家による不当な支配から解放され、自由をめざす自由権(自由権的基本権)が中心であった時代には、個人の権利に国家が干渉すべきでないとされ、財産権は不可侵とされるほど強く保証されていた。
 しかし、資本主義経済が発展し、貧富の差が拡大したことから貧困の増加と社会不安が広がり、国民生活の秩序を乱す深刻な社会問題に発展した。
 国民が国家に対して人間らしい安定した生活を要求する、社会権(社会権的基本権)の必要性が主張された。国家が社会権を補償することで、個人の自由は実質化する。
 財産権は一定の制限をうけるべきだとの考えが広まり、日本国憲法は経済的自由権を保障した条項において、「公共の福祉」による制約を認めている。
 経済活動の自由については、他の人権との調整という観点だけからではなく、福祉国家を実現するという社会政策的な観点からの制限も認められている。
 日本国憲法では生存権、労働基本権、教育を受ける権利が保障され、社会的弱者の救済や医療、福祉、教育の充実を任務とする福祉国家がめざされている。

■福祉国家③
 広い意味での政治は、社会の中で対立する利害や価値の対立と紛争を権力的に調停し解決する人間の営みである。
 その点で、調停が市場のような自動調整システムに基本的に委ねられる経済とは異なる。
 政治とはこのように、対立と紛争を規制や誘導といった手法を使って、目的意識的に調整していくものであり、そのための具体的な方法が政策である。
 その意味で政治には政策が不可欠であり、政策が統治の基本なのである。
 現在の政治が行なう政策活動は、多面性と複雑性を持っている。その背景は、いうまでもなく20世紀に確立した政治体制である福祉国家体制にある。
 福祉国家による政府の基底社会への多面的な介入は、すべて政策活動なのである。福祉国家の下での政府の肥大化は、政策の肥大化と同義である。


■暴力に基づいた秩序とアンドロポフ
 後の1967年にソ連のKGB議長に就任することになるアンドロポフは、1956年のハンガリー動乱のときにブタペスト駐在大使だった、そこでの動乱時にアンドロポフはハンガリーの秘密警察幹部らが国民に憎まれ、街頭に吊るされる光景を目の当たりにした。
 一見磐石に見えたソ連共産党の一党独裁体制があっという間に倒されそうになったハンガリー動乱の記憶が、一生頭から離れなかった。
 少しでも民主化を認めれば、民衆を抑え切れなくなって、真っ先に殺されるのは自分たち秘密警察だ、と。
 アンドロポフは、その後、チェコスロヴァキアでも、アフガニスタンでも、ポーランドでも、共産主義主義体制が危機に陥ると、軍事力だけが自らの生存を保障できると信じて強硬手段を使い続けた。

 (ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史 山内智恵子(著) 引用編集)

■愛国教育~国民的屈辱の歴史教育~
 この「屈辱の歴史」という考え方や、現在の「国家の偉大なる復興」が、今日の世界における中国の役割を理解する上で最大のカギとなる。
 中国共産党は、愛国教育運動を通じて「中国の独特な社会主義の建設という偉大な目標」のために国民を団結させて「大衆の愛国的な情熱を煽った」。
 中国は外国列強の手によって百年の屈辱を受けた。「19世紀半ばのアヘン戦争から百年間にわたり、中国は外国人によって脅され、屈辱を受けた」というものだ。
 中国共産党は長年にわたり、封建的勢力に対する階級闘争や、人民を抑圧する反動的な勢力の影響力は中国国内でいまだにある、とのストーリーを編み出してきた。そして今度は「外国勢力による脅しと屈辱に対する戦い」というストーリーを語り始めた。
 中国共産党は人民の拡大成長への願望を具現化しつつ、屈辱の「悔しさと恥」を決して忘れず、もう一度偉大な国家になる道を示すことで、国民の目から見た正当性を復活させようとした。
 愛国教育や教化運動を通じて新たに形成された、強力な中華ナショナリズムの歴史観による自国優位主義または例外主義いわゆる"中国の国家的誇りの感覚"のおかげで、中国共産党への忠誠の要求から国家への忠誠の要求へのシフトが可能になった。
 このような迷惑な愛国主義に関する話に気づいた中国系の識者の何人かは「中国人の中には強力だが隠された、自分たちの持つ劣等感によって突き動かされている者もおり、この感情は外国からの承認によってしか緩和できない」と論じているほどだ。
 もし外国の承認が限定的なものであれば、当初のプライドは憤りや怒り、そして強い不安感に突然変わる。このような制御不能の感情は、中国共産党自信にとっても脅威となる。

 (目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 クライブ・ハミルトン(著) 引用編集)

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