わんこ(Rocklimit)が何か書いてるとこ。

吹奏楽コンクールの意味とは

2018/03/27 00:28 投稿

  • タグ:
  • 吹奏楽
  • コンクール



今回はちょっと真面目な内容。

なのでその分、ブログらしくわかりやすさ重視で。






事の始まりはTwitterのタイムラインに流れていた、
一つの記事とそれに付随したいくつかのツイート。

「金賞獲らなきゃ意味ないの?」

という、ちょっと過激にも思えるタイトルの記事なんですが。
上記の記事を書いた方はいわゆる「プロ」の方でして、
同時に現役の生徒さん達を指導する立場でもあります。
途中の話はバッサリ省くとして、お話の要旨は概ねぼくの意見と一致するところです。



詳しいことは上記リンクから記事を読んでいただくとして、
ここではぼく自身の(元・吹奏楽部員としての)思いや考えを述べてみたいと思います。







なぜコンクールで優劣が付いてしまうのか?



これはねー、言いだしちゃえばそもそも
「果たしてコンクールは吹奏楽の活動に必要なのか?」
みたいなところにも行き着くお話だと思うんですよ。
それと、吹奏楽コンクールの歴史にも踏み込むお話にもなってくると思います。
ぼく自身は今や現役の吹き手ではありませんし、
指導や運営の立場として関わっているわけでもないので、
あまり踏み込んだことは言えません。



ただ、自分自身も参加した立場の人間として、そして今離れた立場の人間として、
吹奏楽コンクールがなぜ存在するのか、なぜ優劣が付くのか、については、

「競争原理によって参加する生徒達の意欲と技術の向上を図る」

ということなんだ、という風に思っています。




まあ…… いきなりこう言われてもちょっと納得し難いものもあるかも知れません。







ただ実際、ぼくが現役時代に実際に経験したパターンとしまして、


『目標も、目的意識もなく』

『ただ漫然と、毎日活動して』

『演奏会本番で、ズタボロの演奏をして満足して終わる』




というのは、今にして思うと楽しかったとは言い難いものがあったな、と感じています。





せっかく、楽器というものに触れて。
せっかく、曲というものを目の前にして。
せっかく、音楽というものを作る現場に居合わせて。
その時間がどれだけ貴重で意義深いものだったかなんてことも考えず、
その当時のぼく達は果てしないとすら思えた放課後の時間を、練習すらろくにせず、
適当に遊んだりダベったりして過ごしていたのでした。


「響け!ユーフォニアム」を観たり読んだりしたことのある人には、
上記のような状況には何か、思い当たるフシもあるんじゃないでしょうか?





とまあ、これは実はぼくが小学生の頃のお話です。
結局ぼく達は大して上手くなることも無いまま、その部を引退しました。
引き続いて中学、小学校でも楽器やってたし……と流れで吹奏楽部を選択したぼくは、
ここで色々なカルチャーショックを受けることになります。









あ、脇道に逸れる話はザックリ割愛で。



そろそろ本題に戻りますが、コンクールの評価=賞というのは相対のものです。
金:銀:銅=4:4:2とか3:4:3とか、比率については諸説ありますが、
基本的には参加した学校の全てが金賞か銀賞か銅賞を受け取ることになります。


そして金賞の中からさらに、上位大会に進出できる数校が選ばれる……という仕組みの中、
なんで銀とか銅とかあるんだ!
わざわざ2段階目・3段階目なんて付ける必要ないだろうが!!
という気持ちになったことがぼく自身にも数度ほどあります。






そんな経験から今言えるのは、こうして優劣が付けられるということ、
もっとハッキリ言えば銀賞や銅賞が与えられる、ということには、
『他者』というものを意識しながら研鑽することで『自分』をより向上させる
という、これを促そうとする意図があるのではないか、ということです。








ここからはハッキリ言います。

自分が吹いていて楽しいだけの音楽は、いつでも出来ます。
自ずから向上心のある人は、コンクールなど無くても勝手に自己をどんどん向上させ、
そして聴衆の心を震わせるような演奏をしてしまうかも知れません。
しかし、そうなれるのは殆どの状況下で、ほんの一握りの人だけです。

後の人達は「吹いている」「演奏している」という事実に満足して、向上を辞めます。





ぼくがこれを知ったのは中学を経て先、高校で吹奏楽部に入部した時でした。


全然やる気のない状態が数年続き、先輩達は練習時間中にお菓子を取り出して食べたり、
トランプやボードゲームをして遊んだり、練習をサボって帰ったり……
そして演奏会では肝心の音楽面はそこそこに、演劇の方に力を入れてみたり、
合唱パートを取り入れてみたり、客席に向かってアメ玉を配ってみたり。



それはエンターテインメントという大きい括りとしては、面白い試みだったかも知れない。
けど、何かが違う
ぼく達は演劇部ではないし、放送部でもないし、
単に聴衆に笑って貰えばいいだけの集団でもなかった筈です。







結局、ぼくの代の多くの部員達はそんな状況に失望して、部活を辞めていきました。
半数ぐらいは秋から春を待たずに辞めていったと記憶しています。
そのへんから
「このままでいいのか、これじゃいけないんじゃないか」
という気持ちが残った部員達の中に生まれ始め、
そして少しずつ練習の光景は変わっていきました。



勿論、そんな風に変わっていく部活の空気に、逆に馴染めない人たちもいました。
そんな人たちもそれはそれで辞めていき、次の春を迎える頃に部員数は半減していました。
2・3年だけで半減ですから、今にして思えば良く部活動として維持できたと思います。




この辺のことを思い返すと、今でも胸が熱くなります。
こういうこともあったせいで、
余計に「響けユーフォ」には入れ込んでしまったんですよね……
と、また脱線しそうなので戻るとして。





何もこのお話から
「こうならないためにもコンクールに注力することが大事だ!」
と言いたいわけじゃありません。
定期演奏会にしたって、地域のコンサートにしたって、
しっかりとした意識でもって日々の練習に取り組んで、
本番で最高の演奏が出来るようにする。
それがきちんと実行できるならそれでも良いじゃないか、とぼくは思います。
コンクールへの出場だって、部員全員の合意が得られるのなら、
辞退したって別にいいじゃないか、とすら思っています。



ただ1人2人はそれで良くても、30人、50人、それ以上、と人が集う中では、
そのきちんとした意識を全員が維持し続けることは、
とても難しいものがあるのではないか? とも思います。




相対評価であるところのコンクールで、金~銅といった賞が付けられる。
これは見方によっては結構残酷な事でもあります。
三年間、一生懸命練習を頑張って、技術を演奏を表現を高め続けて、
今年のメンバーこそ、曲こそ過去最高だ! と思って挑んだとしても、
あっさり銅賞で終わることもあるのです。
他校がどこも自分達より圧倒的に上手かったら、必然としてそうなります。
逆もまた有り得ます。
他校が勝手に落ち込んだら、実は大して良くもない自分達の演奏でも、
金賞になり、代表選出されることだってあるかも知れません。
結果が悪くなくても、力を出し切れずに悔やんで終わるかも知れませんし、
力が出し切れなくても結果が良ければ全て良し、としてしまうかも知れません。
それがコンクールです。
冷たい言い方になるかも知れませんが、コンクールとはそういう場なのです




そんなコンクールについて、金賞至上主義を掲げること、
あるいは賞にこだわることが必ずしも意味のあることかと聞かれれば、
ぼくはハッキリ「そんな事は無い」と言うと思います。



コンクールに参加する以上、必ず優劣が付く。
そしてより優れた(と審査員に認められた)団体は、上位大会に進出できる。
この前提だけを純然たる事実として、あとはそんなものに心を振り回されることなく、
純粋に自分達の音楽を、技術を磨くこと。
それを本番というただ一度きりの場で、淀みなく全て出し切ること。
そしてその結果を踏まえて一人一人の中に「次につながる何か」が生まれさえすれば、
それは来年も吹奏楽部に残る人たちにも、その年限りで辞めてしまう人たちにも、
価値のある経験として残るものなのではないでしょうか。







ただ……
一つだけ、これは誤解の無いように述べておきたいことなんですが、
いわゆる「超強豪校」の生徒たちだって、金賞獲得を宿命づけられたような人たちだって、
「目指す結果に向かって努力し、その過程で次につながる何かを得る」
というプロセスは、踏まえているのではないかと思います。
方法論と言うか、順序の違いなのかなと。
金賞が、代表が、全国出場が当たり前! みたいな吹部の人たちだって、
日々血ヘドを吐くような努力をしていたりすると思います。
けれど出場枠の関係でレギュラーになれない、レギュラーになったけど結果が付いてこない、
みたいなことだってあったことでしょう。
そこで腐っておしまいにしたらそこまで。
「何かを得て、それを次の何かに活かした」ら、音楽がどうとかは何ら関係ない、
「その人の人生において、意味のある時間だった」と言えるものが、
そこには確かにあったのだと言えるんじゃないか、とぼくは思います。







しかし、これを「目的」と言い切ってしまっていいかどうか……については、
ぼく自身も悩んでしまうところがあります。
指導者目線を想像して言えば、これを「目的」としたら、
完全に生徒たちへの押し付けになるでしょう。


現役当時を生きていたぼくの目線で正直に言えば、上位大会に勝ち上がれるということは、
「このメンバーでもう一回、大舞台を踏めるぞ!」ですとか、
「もう少し長く一緒に演奏できるぞ!」ですとか、
「遠くの宿舎で皆で楽しい時間を過ごせるぞ」みたいな、
完全に邪心入りまくりのことでしたからね。
それを「目的」に日々の練習を頑張っていた、という側面は、否定しづらいところです。






その一方で、銅賞で終わってしまうことの意味についても。
「なにくそ」という気持ちが生まれるところに意味があるのか?
それとも「自分達は銅賞だったんだ」という敗北感や劣等感で終わってしまうのか?
結果に振り回されない、と言葉で言うのは簡単だけど、実際にコンクールに出た以上、
結果を意識しないというのはとても難しいものがあります。
特にそれが最上級生にとって最後の大会になるなら、尚更のことですよね。




そのへんについては実は、コンクールという一度きりの舞台とその結果ではなく、
何気なく行っていた日々の練習の中で、決まるものがある
と、ぼくは思っています。
「そこ」に向かえるかどうかは、顧問の先生による指導力は勿論のことですが、
バンドメンバーとなる部員達の側の意識や取り組み方が、大きなウェイトを占めます。
それで飯を食っていく「プロ」の世界はともかくとして、学生アマチュアの領域では、
ぼくが思うのはそんなところです。





~~~~余談~~~~



高校時代、ちょっとした縁があり、
いわゆる「プロ」の指揮者の方からご指導を仰ぐ機会をいただけることがありました。


ぼくが所属していたトロンボーンのパートは当時、色々と事情があって、
「パートリーダーが主導権を握って日々の指導をする」
という一般的な練習方針を取ることが難しかったため、
「下級生でも能力のある人たちから遠慮なく声を上げてもらう」
という形で音づくりをやっていました。
上級生であってもそれらを取り入れ、どんどん音を改善し、そして臨んだ指導合奏で、
「トロンボーンの音がいいねぇ! 今まで見た中で一番良い」
という掛け値なしのお褒めをいただきました。





それはお世辞も多分にあったと思いますが、
自分たちなりに「こうするのが良い」というのを試行錯誤しながらやってきた答えとして、
この上もない最上の評価でした。
その時の経験は間違いなく、自分にとっては「次につながる何か」となり、
そしてコンクールの結果をも丸ごと呑み込んで吹奏楽での思い出を良きものとした、
まさしく金言として、今でも自分の中に残っています。



それは言ってしまえば

「自分の費やした努力に対して、報われる何かさえあれば、それで良い」

ということなのかも知れません。

それが人によって、コンクール金賞だったり、
仲間と過ごす少しでも長い時間だったり、
周囲の評価や客観的事実であったり、という違いであるだけなのかも知れません。


けれど、ぼくにとってその一言は、コンクールでの金賞よりも価値のある一言だった。
そういう体験があったことが、ぼくの9年間の吹奏楽人生の中で、
何よりも幸福なことだったのではないだろうか。
と、ずいぶん大人になってしまった今は思っています。






コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事