わぐのブロマガ

『たまこまーけっと』の魅力を語る

2013/04/03 23:07 投稿

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はじめに

 私は、昔から持ってたブログに、一話ごと『たまこまーけっと』の感想を書いていました。
その最中に、このブロマガを始めました。
ということで、こちらでも『たまこまーけっと』のことを書いていこうと思います。

 一話毎に書いていた昔の方のブログと共通するところがあると思いますが、
それは、放送当時の感想が、全話を振り返ったときと変わっていないことを意味します。
ちなみに、それが、その昔のブログとなります。
たまこまーけっと各話感想 目次

では、全体を通して『たまこまーけっと』の深い作品の魅力を語っていこうと思います。


 物語の『在り方』について

 『たまこまーけっと』の魅力を語る前に、この『作品』の特徴ゆえに、
物語の在り方について、考える必要があると思います。
私と読者の間で、世にある『作品』全体の認識にズレがあった場合だと、
具体的な話をしても、私が伝えたいことが、しっかり伝わるとは思わないので、
念のためです。

 『たまこまーけっと』は、一言で言えば『特殊』です。
それは『物語の在り方』として特殊』であるということです。
『物語は、かく在るべき』という先入観を持っている視聴者、
あるいは、そのテンプレートに従って把握しようとしている視聴者は
『たまこまーけっと』に、戸惑うことになったでしょう。

 私は、以前、この作品を船に例えたことがあります。

 従来の物語が『目的を持って、島の港から、他の島を目指す船旅』であるのならば、
『たまこまーけっと』は、目的を持たずに海をたゆたうイカダである。


 『何がしたいのかわからないアニメ』
私は、この作品に対し、このような評価があったのを覚えています。
この人は、間違ったことを言っていません。
まさにその通りだからです。(私も2話を観終わったときに、そう書きましたから)

 『たまこまーけっと』は、主人公の目的を明示していません。
ただ、そのことで『たまこまーけっと』に
価値を見出す人と見出さない人に『相違』があるとするならば、
それは視聴者の『物語』に対する、スタンスの『相違』ではないでしょうか?

 『何がしたいのかわからない。よって、つまらない』と、
それをイコールで結ぶことができる人は、
従来の『物語らしい物語』を求めているのです。

 『たまこまーけっと』を好む視聴者は、物語としての流れよりも、
その中にある普遍的なテーマを楽しんでいます。

 例えばスポーツ観賞でも、サッカーのルールを理解して、やっと楽しめる人もいれば、
どうすれば勝利になるのかを知らなくても、選手が、流れるようにボールを渡していく、
その華麗な動きだけを見て楽しめる人もいるでしょう。

 先入観にとらわれずに、その肝心な部分を見つけることができるかどうかが、
最大の分かれ道であり、そのような分かれ道(賛否両論)が存在するという点でも
『たまこまーけっと』が特殊なのです。

 『たまこまーけっと』は、物語の(あるいは主人公の)大きな目的がわからない。
……と言って、楽しめない人がいることは仕方ありません。
しかし、それが『作品』として、不出来であると批評するならば、
そのような人は偏狭であると言わざるを得ません。
 その人は『物語を物語として、物語的に楽しむ以外に道はない』という、
物語という先入観に捕らわれた人と言えるでしょう。
 
 だからといって、その『物語という先入観に捕らわれた人』を非難するのは酷です。
『たまこまーけっと』が、アニメというメディアであり、物語の体をなしている以上、
『物語らしい物語』『アニメらしいアニメ』のみを理解し、
それだけを欲する人がいるのは当然です。
むしろ、そちらの方が正常であり、そうでない視聴者の方が、
特殊であることを認めなければなりません。
 そして、従来のアニメの目的を金科玉条とするのであれば、
その人たちを見捨てた側に責任があります。
つまり、悪いのは京都アニメーションであり、
アニメを単なる『エンターテイメント』以外の何物でもないとするならば、
『エンターテイメント屋』の姿勢として、失格だったと言っても差支えないのです。

 反対に制作者側の擁護のために、さらに『だからといって』と加えされて頂くなら、
昨今の風潮も鑑みる必要もあるでしょう。
不幸と言えば不幸。私のように特殊な視聴者から見れば、絶好の機会と言える風潮です。
 今や、物語を作ると光の速さで世間に広まり、才能のあるなしに関わらず、
頼まれもしないで評論家を請け負った人々が持論を展開します。
そして、その人々が言うには、どうやらアニメには『中身』があり、
あるのが当然だと考えているのだとか……。
さらに『中身』がある『内容がある』作品を『良い』アニメと思っているようです。

 ここで、既に、私の価値観と違っています。
私の考えで言えば、アニメは『エンターテイメント』としての需要を果たしていれば、
それで充分であり、『中身』など、無くてもいいのです。
アニメを見ていて『中身』がある作品に出会えたのならば、それだけで儲けものなのです。
 メディアという点でも、テレビ局は、バラエティ番組やドラマと同列に扱いますし、
スポンサーだって、それが『文芸作品』ではなく『エンターテイメント』だから、
協力するのでしょう。
時代の流れから見ても、それが大学教授たちではなく、
子供たちの間で話題となっていたことを考えれば、そのことに納得できるでしょう。
 ですから『中身』のあるアニメにしか価値がないと思っている人は、
見当違いというしかなく、さらに言えば、
そのような『作品』を欲してたまらないのであれば、もっと視野を広げるべきなのです。
 なぜなら、そこまで『作品』としての質を重視し『中身』に飢えた文化人であるのならば、
アニメなどを見てないで、偉大なる文豪の純文学を漁った方が、
その人にとって効率的だからです。

 アニメに『中身』や『内容』を求める人は、
喩えるなら、クッキーや、チョコレートなどの入ったお菓子箱を探り、
必死で『ビタミンC』を摂取しようとする人なのです。
そんな人を見かけたら、私は「お菓子だけでなく、果物を食べてみませんか?」と勧めます。
 とは言っても、アニメの中には、そのような珍しい作品もあるもので、
先ほどの例え話でいうところの『ビタミンCが多く含まれているお菓子』は存在します。
 ですから、アニメに『中身』を『求めること』自体は、
まったくの見当違いというわけではありません。
 私も、そのようなアニメがあることを知ってから、さらに欲して探してしまいます。
 ただ『中身』ある作品を探したあげく、そうでなかったアニメを
こき下ろしているのであれば、それは見当違いとしか言いようがありません。

 少し脱線しますが、さらに、ここで追及していきます。
 そのように批判している人たちに限って、有象無象のアニメの中から、
珍しい『中身』のある作品を、態々、槍玉に挙げます。

 『中身』のないアニメが許せない! というのであれば、
それは『見当違い且つ偏狭』だけで片付きますが、
『中身』が詰まった作品を『中身』がない! と言うのであれば、
それは偏狭とか、そういうレベルではありません。『変人』です。
 喩えるなら、99個の石ころと、1個のダイヤモンドを机にならべて、
石ころには目もくれず、ダイヤモンドに目を付けると、態々、その宝石をかかげ
『これには価値がない』『まったく美しくない』と大声で言うようなものです。
 『美しくない』のが許せないならば、99個の石ころを題材にして 、
99回、それを行えばいいというのに、
何故かその人は、唯一のダイヤモンドを題材にして、それだけについて、
何度も何度も非難するのです。
 彼か彼女かは知りませんが
(パソコンで文字が打てるので猿の可能性はないにしても、
 社会的人間には近くない、その人物)は、何故、このような奇行を行うのでしょうか?

 その人は『美しくない』のが許せないのではなく、
それが『美しい』と評価されてることが許せないのです。
そして、自分が、その輝きを理解できないことに対する劣等感を認めまいと、
必死に評論をしようとするのです。
ダイヤモンドがあること自体に、自分のアイデンティティが脅かされると感じているのです。
 また、話題になっているそれを『価値がない』と言うことによって、
自分を玄人に見せようという思惑もあります。
傍から見れば滑稽ですが、その人の中では『こう言えば、自分は玄人のように思われる』と、自己満足できるから、それで充分です。
 そう考えれば、その人たちが純文学という『中身』満載の書物を読まずに、
あえてアニメの中から『中身』を見出そうとしている理由もわかってきます。
その人たちは『中身』を吟味するだけの能力がないのです。
彼らが理解できるのは、表面を追うだけで理解できるアニメだけなのです。
 そんな彼らが行き着いた結論がこれです。
『アニメしか楽しめない自分は、劣等感を持っている。
 ならば、自分が文学的・芸術的な楽しみ方を覚えるのではなく、
 アニメの方を、高尚なものとして扱ってしまえばいい』

 そんなわけで、アニメの感想で『中身がない』と言っている人がいるとしたら要注意です。
賢明な人や、賢明ではないが、そうありたいと思っている人は、
その人の言葉には、何の価値もないと判断し、一顧だにしないのが正解です。
 『中身』のあるアニメについて、色々と検証したいのであれば
『中身がない』と得意げになっている人ではなく
『この作品には中身がある。なぜなら……』と具体的な解説している人を
参考にする方が効率的でしょう。

 話を戻しましょう。今はとにかく、そんな面倒な連中が増えました。
 その結果、エンターテイメントのみを考えて、ただの娯楽作品に専念したら
『中身がない』と言われ、
純文学や舞台芸術の演出をアニメに取り入れ、暗喩や演出に力を入れたとしても、
アニメ・漫画しか見たことのない、読解力の劣った同じ連中が『中身がない』と
言うだけなのです。

 どんな作品を作ろうと、同じ評価を受けるこの現状を鑑みれば、
理解できない人を置き去りにしてしまう要素がある
『たまこまーけっと』のような質を追求した『作品』が作られたとしても、
京都アニメーションをひどく難詰することはできないでしょう。
 私としては(自己中心的な考えを推し出せば)、むしろ、そんな連中はさっさと見捨てて、
監督の哲学を前面に出した、質の高いアニメを作ってほしいものですが……

 過去に『氷菓』という作品がありました。
このアニメを観たことのある人なら分かると思いますが、
この作品は推理小説でありながら、そのトリックの奇抜さや
事件の重大性を魅せるものではなく、謎や推理を通して描かれる登場人物の心情描写と、
その心情変化をメインとしたものです。
 読解力に関係なく、普通の人間ならば、第一話のAパートで、その演出意図を理解し、
暗喩のちりばめられた、この物語を楽しむ方法(見方)を把握します。
 その一方で、一部の人間が、10話、20話、最終話まで、そのことに気付かずに、
「トリックがしょぼい」とか、見当違いなことを評論家の如く言い続けたのです。
『なんで、この人、頼まれもしないで22話も苦しみながら見続けたのかな?』と
疑問に思いますが、それは置いといて……
では、製作した京都アニメーションは、この人たちのために、
わざわざお膳立てした娯楽要素満載、文学的要素皆無の
『スーパーエンターテイメント氷菓』を作るべきだったでしょうか?
 ここまで頷きながら読んでくれた人がいるのならば、私と同じ答えでしょう。
私は、そうでなかったことに感謝しています。

 『たまこまーけっと』を楽しむ最低条件

 まず、魅力について語る前に、一つ前提を言わなければいけません。
本来なら言わなくてもいいのですが、なにかとネットには、
そういう連中が多いから念のためです。
 私は『たまこまーけっと』を評するにあたって、この作品をあまり楽しめなかった人や
先入観にとらわれてしまった人に対しても、微力ながらも、楽しみ方の一つを、
アドバイスしていこうと心構えで書いていますが、
どんなに言葉を尽くしても、それが無駄な人種がいます。
 それは、一般的な道徳心を持ち合わせていない人です。
これは無理です。その前提から外れています。
例えば……他人の幸せを喜べない人。他人が不幸が嬉しい人。
楽しめないのなら見なければいいのに、乏しめることによって、
自己を正当化し、そのことに喜びと満足を感じる人。
自分が楽しめなかった作品を楽しんでいる人がいること自体が、許せない卑屈な者。
 これは読解力以前、社会的人間としての能力がかけている人です。
(さらに不特定多数の場で罵ったりするのであれば、ネットマナーすら守れない人)
 
 『たまこまーけっと』は、そういった残念な人たちのことなど眼中になく、
正常な人間のための娯楽ですので、
私の文章も、私より10倍優れた人の文章も、なんの役にも立たないことを伝えておきます。
 愛情の欠如した人間が『若きウェルテルの悩み』という名作を読んでも意味がないように、
コミュニケーションの重要性を蔑にする、社会的能力の欠如した人間が
『たまこまーけっと』を楽しめるはずがないのです。
(たいていは自覚もないでしょうが)仮に、その自覚があるのならば
『たまこまーけっと』のことはさっさと忘れて、その人にも理解しやすい、
動物本能に訴える刺激的・暴力的・性的なアニメなどを楽しんだ方がいいと思われます。
(ありがたいことに、そのような作品は、世の中にあふれている)

 『たまこまーけっと』の文学的挑戦

 エンターテイメントの要素を減らしたことは、
アニメ本来のエンターテイメントとして『悪い』『失格』だったとしても、
それを承知の上で作られた『たまこまーけっと』は、
『作品』としては一流の仕上がりとなりました。
私はそうしてくれたことに疑問を抱きながらも、
私好みの作品となったことに満足しています。

 私は、『たまこまーけっと』を『物語らしい物語』ではない。
と言いましたが、それは物語性を蔑にしているという意味ではありません。
むしろ、その逆であり、一番伝えたかった『温かい交流』のために、
物語に制約をかけて、しかもそれを作り上げたのです。

 イギリスのノーベル文学賞受賞者バーナード・ショウは、
とある芸術論文の中で、こう書いています。

 反作用を起こす力だけを人物化しても反作用をドラマとして描くことはできない。
新しい勢力が対抗するような既成の権力も人物化する必要があるのであり、
そうすれば両者の衝突にドラマを求めることができる。
衝突こそあらゆるドラマの本質的要素だからである。

 『権力』という単語は、評論の対象としている芸術について述べていることなので、
ここでは無視してもいいです。
重要なのは『衝突こそあらゆるドラマの本質的要素』という部分です。
なるほど、これはまさにその通りで、私たちが『これがドラマだ!』と謳うとき、
その思考が浅はかだろうが深かろうが
対立する関係の衝突であるのは疑いようもないのです。

 『たまこまーけっと』は、極力、その衝突を避けていました。
多くの人がギャグで『イオンモールが来た!』というコメントをしていましたが、
まさにドラマを描くのならば、そっちの方が手っ取り早いのです。
『デパートができても、私は情が交わされる商店街が
 温かくて好きだから、絶対に負けませんと、
主人公に、デパートができたことに因る苦難を重ねていき、
カタルシスとともに『愛の勝利』を謳えばいいのですから。
敵対する関係を描けば、こんなにも簡単ですしドラマ性があります。
しかし、それでは安っぽいことを制作者はわかっていただろうし、
そんなことを描く気にもならなかったのでしょう。
 表面上はドラマとして面白いのですが、そんなエンターテイメント性など知ったことか! 
と、制作者は別のアプローチで作品に深みを持たせたのです。

 時に、シナリオ上は、衝突しなければならない場合もありましたが、
それは、互いを排除しようと敵対する関係にはありませんでしたし、
むしろ、歩み寄る場合もありました。
 物語中で『たまこが妃になる』という展開は、衝突として描かれたのですが、
上記のデパートのような敵対関係ではありません。
それは、王子についての項目で詳細を書いていこうと思います。

 『人と人との繋がり』その蓄積である日常を描くために
『ドラマの本質的要素』にすら、手放してしまった。
こんなことが、普通の人にできるでしょうか?

 たとえば、貴方がこんな企画を任されたとしましょう。
 『赤・青・黄色・緑・黒の正義のヒーロー戦隊の、
  正義を賛美するドラマを描いてください。
  ただし、悪の怪人の類のものは、一つも出してはいけません』
 
 私ならば筆を折ります。

 『たまこまーけっと』は、人と人との繋がりを破壊するような脅威を登場させることなく、
つまり、作用だけを映して作用を描くことに成功したのです。そうすることができるのは
特殊な『力』の利用にあったのですが、それは、たまこの項目で説明しましょう。

 登場人物の役割と、役割破壊による人物描写

 物語は『物語らしくない』。ドラマの本質的要素は安易に利用しない。
……ばかりでなく、登場人物もまた特殊です。
 純文学や劇詩を読むと、登場人物は寓意的役割を持っていることがわかります。
というより、それがわからなければ、読む意味がないのですが……。
『たまこまーけっと』は、これを有効活用しています。
 
 『たまこまーけっと』は『寓話』の性質を持ちながら、
完全な寓話ではなく、やはり最後は『人情』がものを言う物語です。
 そのため登場人物を『概念の擬人化』にすることを認めませんでした。
それは、京アニのポリシーなのでしょう。
登場人物には血の通った人間であり、それこそが魅力なのですから。
 
 先ほどと同じように、ショウの言葉を借りましょう。

 寓話は、ドラマの才能が無い者の手にかかると一貫性を失い読解不能となってしまうことを
忘れないでいただきたい。ある観念をドラマ化するやりかたはひとつしかない。
その観念に捕らえられた人物を舞台に乗せること、しかしその人物はあくまでも人間的な衝動の
持ち主であって、我々にとって身近な、従って興味を引かれる存在であることである。
 
 『観念に捕らえられた人物』『我々にとって身近な、従って興味を引かれる存在』
たしかに『たまこまーけっと』の人物は、これに当てはまります。
しかし、それだけではありません。
 『たまこまーけっと』が特殊な点は『観念に捕らえれた人物』が変わっていくことで
一層、魅力的な人間に描かれるところです。

 イソップ童話に見られるような強欲な動物は、ずっと強欲です。死ぬまで強欲です。
その動物は強欲を原因として、命を落とします。
これが、教訓を第一とした基本的な寓話の魅せ方ですが、
『たまこまーけっと』の魅せ方は違います。
 強欲な動物は存在します。その動物は、わかりやすいほど強欲に描写されます。
しかし、ある出来事によって、その『強欲』を改めてしまいます。
その変化によって、その動物は命拾いをすることになります。
 この『変化』というもの。変化こそが『たまこまーけっと』のキーワードであり、
その動因が人と人との交流の中にあることは、自ずと理解できるでしょう。


 登場人物の魅力
 
 ここからは、全12話を通して、上記の役割に注目して、
登場人物を見ていきたいと思います。

 北白川たまこ

 『肯定の探究者』

 たまこは主人公の役割を持っています。それは経験によって変化する主人公ではなく、
周囲に変化を与えるタイプの主人公です。
たまこは何事にも捕らわれない、自由な人物として描かれます。

 たまこが、何かを変えたいと思うと、周りはそれに応えてくれます。
(2話のバレンタイン、6話の肝試しなど)
 彼女自身の本心は詳しく描写されず、視聴者側からは彼女の本心は、ぼやけて見えます。
博愛精神を基盤としており、あとは餅と商店街のことが大好きであるとしか
把握することはできません。
もっと言えば、大して物事を深く考えずに、頭がゆるいとさえ思われます。
それにも関わらず、彼女は周囲に愛され、彼女の望むことに周囲は応えます。
 短絡的な人は、ここに『たまこまーけっと』は実態のない理想郷を感じ、
全ては朧な幸福にすぎないと考えます。
 以前、ニコニコニュースで『たまこまーけっと』について、
見当違いも甚だしい記事が載っていたのを覚えています。
解釈が明後日の方向を向いているならまだしも、
その上、表面上の出来事すら理解できていないようなので、
反論するのも馬鹿らしかった覚えがあります。
 彼女の望むことはなんでもかんでも叶い、商店街の人々が使用人のように
動いているように見える人は、2話のバレンタインの企画で、
彼女の父親、豆大が反対したという重要な点を見逃しています。
 2話では、流行を利用しないことに危機感を覚えたたまこが、商店街のためにと、
バレンタインらしさを取り入れることを提案します。
豆大は、伝統を重んじている頑固な性格のために、その企画には乗りません。
しかし最終的には、彼も流行を取り入れることになります。
この変化の原因はなんだったでしょうか?



 もちろん、これが解答です。
彼女が、その身を張って、商店街のために働きかける。
その娘の姿に心を動かされた豆大は、伝統を捨てて、たまこと商店街に協力をするのです。
 商店街の人々が、たまこに協力する理由はこれが原因です。
愛するもののために努力する人間を、私たちは立派に思い、協力したいと考えます。
利害が一致しているなら、なおさらです。
 商店街の人たちは、自分たちがたまこに愛されていることを実感していおり、
彼女はそのための努力をしてくれていることを知っています。
そこまでわかっているのであれば、協力したいと思わない方がおかしいでしょう。

 たまこが愛されているのには理由があります。
彼女は、皆を愛し、そのために進んで努力してくれているからです。
彼女が望むものは、なんでも周囲の大人が叶えさせてくれるのではなく、
叶えるための努力をしているから、そんな彼女を、大人たちが支えようと思うのです。
 それを把握した上で、なお、この構図に疑問を抱くとしたら、
それは卑屈であると言わざるを得ません。
 彼女はあらゆることを肯定しようとしますが、それは妥協ではありません。
肯定するために、実際に変えていくことのできる人間です。
自ら、変化していくことを訴えかける意志と、行動力の伴った少女です。
 
 『自由も生活も、日毎にこれを勝ち取ってこそ、真に享受するに値する人間と言える』

 私が大好きなこの言葉は、文豪ゲーテの代表作『ファウスト』で、主人公ファウストが、
結論出した、理想的な人間の在るべき姿です。
偉大な学者が学問、享楽、美を経て、事業によって導いたこの解答と同じ理想を、
たまこは『愛する』故に、それを自然に行っているのです。
ですから、たまこの純粋な行為に『現実では……』『ただの理想であり……』と
何かと理由を付けて受け入れようとしないの人がいたのならば、
その人は『物語』を読むことさえ、向いていないと私は考えます。
 彼女が、その努力の結果受けとった幸福を『幸せの押し売り』のように
感じる人がいたのであれば、そんな人は『ファウスト』で、
ファウストが至高の幸福を感じる場面でさえ、感動することはできないのでしょう。

 彼女は、まるでオン・オフを切り替えるスイッチのように、
色々な人を変化させていきました。
・1話のデラ『移動から滞在』(アットホームな)優しさによって。
・2話の豆大『伝統から流行』たまこの努力によって。
・3話の史織『外から内』『消極的から積極的』たまこの優しさによって。
 5話においては、彼女に翻弄された人物として、みどりともち蔵が描かれており、
たまこの無自覚な言葉によって、みどりはもち蔵に対して一種の仲間意識が
芽生えることになります。

 このように、周囲を変化させるたまこですが、彼女自身は終始一貫しており、
頭の中は上記のように、餅と商店街のことばかりなのです。
これには不気味であるとすら思います。
 長い間、たまこの博愛精神は描かれますが、
何故、彼女がそこまで博愛たりえるのかは、全く描かれないのです。
そこで最終話が活きてきます。
 最終話のたまこは、『たまや』の前で内心を吐露します。
過去を語り、ここに生まれ育ったことに感謝します。
ここで、たまこの今まで隠されてきた博愛精神の源が明かされます。
彼女の博愛精神の原因となっていたのは、彼女がずっと与え続けてきたのと同じく、
商店街の人々の博愛によるものだったのです。

 ドラマを描くのには、衝突が必要でした。
しかし『たまこまーけっと』は、衝突のために、
強調したいもの(ここでは『愛』)の敵を作りませんでした。
敵と衝突して敵を倒し、力を見せつけて強調する手法を選びませんでした。
 たまこを博愛精神の持ち主を描き続け、最後の最後で、彼女がそのように育った原因を、
種明かしのように、思い出として語らせます。
その回答が『彼女自身も、同じように博愛を受け続けて育ってきたから』というものです。
 『たまこまーけっと』全12話で描かれていたのは、
たまこから商店街へ愛を注ぐ運動であり、商店街からたまこへ愛を注ぐ運動でした。
このサイクルは、物理エネルギーのように消耗するものではなく、
互いに与えられ、それをさらに原動力にして、また繰り返すという構図です。
 この構図を成り立たせることのできる、つまり、作用のみで作用を描くことができる
『特別な力』が、これなのです。

 『幸せのための不変』

 たまこの価値観は言うまでもなく『人との温かい交流』を重視し、
それを宝物にしています。
11話で、たまこが貰った『商店街のメダル』は、その交流の証です。
 『温かい交流』は、たまこの精神を構築させたものでもあるので、
メダルを失えば取り乱すのも理解できるでしょう。

 『商店街との人たちとの温かい交流』それが毎日続き、蓄積され、
たまこの『幸せな日常』ができあがりました。
それが、最終話にて、彼女の進路の決定打となります。
 たまこが11話、最終話で直面した選択肢は、このように表現できます。

 『幸せの日常』の継続か? 
 それを打ち切り
『王子の妃になる』という『特別な幸せ』を得るか?

彼女は、もちろん『特別』よりも『日常』を選びます。
 ロマンティックな夢物語を実現させるよりも『いままで通りである』という宝物を、
彼女は守り抜きました。
 
 メチャ・モチマッヅイ 
 
 『幸せのための変化』

 登場人物の2番目、主人公の次に、このキャラクターを持ってくるのは
不思議に思うでしょう。
 たしかに『たまこまーけっと』では、彼は脇役です。
それどころか『障害』であると思う人もいるかもしれません。
たまこを戸惑わせ、たまこの宝物である『日常』の脅威となったのであれば、
それも間違いではありません。
 しかし、彼について正しい認識をしなければ、この物語の魅力が損なわれます。
彼は、第2の『たまこ』だからです。

 彼は最終話にやってきて、たまこを困らせた存在であることから、
ラスボスのような立ち位置でした。

 彼は『特別な幸せ』という、たまこが直面する選択肢の一つを担います。
王子の妃となる『特別な幸せ』商店街で過ごす『日常の幸せ』
対立関係として描かれました。
 そして、たまこは『日常の幸せ』を選び、王子は断られます。
しかし、ここで間違えないでほしいのは、
王子は悪人でもなく敗者でもないということです。

 そもそも、何故、彼が妃を探しているのかということについて、知っておくべきでしょう。
11話の冒頭にて、その理由が述べられます。
『伝統ではそうなっている』それが理由です。
つまり、妃を探している理由は、王子が『妃が欲しい』と、望んだわけではなく、
それが『伝統』という『不変』の性質によるものだったからです。

 11話、最終話と、たまこは妃候補に選ばれます。
そして王子の来日により、少しの間、日常を失いました。
この点に関して、彼女を『被害者』という認識をしても構いません。
しかし、そうするなら、同時に王子も『被害者』であるということも
認識しなければならないでしょう。
 彼は『伝統』によって、一年間デラと離ればなれとなり、
その後にチョイとも離れることになったからです。
つまり、彼自身も『日常』を失っていたのです。
 
 最終話にて、王子はこういいます。「もう占いはしなくてもよいよ」と。
(チョイが笛を吹くのを止めるよう手振りをして)
続けて、デラとチョイと一緒にいたいこと、自分が今まで寂しかったことを告げます。
 彼は『妃を探す』という伝統によって、デラとチョイと離れてしまうぐらいならば、
その伝統を捨て去ってしまおうと決意しました。
つまりは、彼も、たまこ同様『温かい交流』を重視したのです。
 自分が変わること、変わっていくことを受け入れることに勇気がいることは、
作中で様々な場面で表現されています。
彼は、その勇気を発揮する人物でもあるのです。

 このように考えると、
王子は『伝統』という名の『不変』によって『日常の幸せ』を失いました。
たまこは『王子の来日』(特別)という『変化』によって『日常の幸せ』を失いました。
王子は『日常の幸せ』を取り戻すために、『伝統』を捨て『変化』を選びました。
たまこは『日常の幸せ』を取り戻すために『特別』を捨て『不変』を選びました。

 このように、二人は『変化』『不変』と、選択内容はコントラストを成しながらも、
求めるものは『温かい交流と、それによって作られる日常』と、全く同じなのです。
 どちらも日常を一度失ったことにより、日常を再認識している点でも共通しており、
最終話にて商店街を『祭り』のようだと、同じ感想を口にしているのも、
制作者の意図したところでしょう。
 さらに言えば、共通する『特徴』。持っている『小物』によっても、
共通点が見つかります。
『花の香り』はもちろんのこと、たまこにとって、
『日常』の象徴である『メダル』と、チョイの日本での暮らしを意味する『折り鶴』が、
王子の留め具と類似している暗喩による演出も、たまこと王子の類似性を表しています。
(この暗喩については、別の解釈もあると思ってます)






 以上のことが、私が王子のことを『第2のたまこ』という所以です。
この人物描写は、かなり秀逸で、軽い口調で言った『占いはしなくてもよいよ』の一言で、
人物に対する評価が、『障害』から『同志』へと変わってしまうことを考えれば、
一言、一言が気を抜けないぐらい深いのです。
メチャ・モチマッヅイについて、このような認識をできていないのならば、
かなり損をしているとさえ思います。
 
 ドラマのためには対立が必要であり、王子の存在は、ドラマのために、
対立関係でなければなりませんでした。
それでも、制作者は王子を『悪意ある敵』ではなく『無理解の破壊者』でもなく、
『血の通った人間』、それも
主人公と同じ『人との繋がりを愛する』心の持ち主として取り扱いました。
 これだけの芸当は、そうそうできるものではなく、
『絶対に、登場人物を粗雑に扱う気はない!』という制作者の心意気に感動しました。

 そもそも、表面上だけを見ても、王子は敵と見做してはならない
シナリオになっていました。
 たまこと王子は、普通に出くわしたとしても違和感はなく、それが自然な流れです。
それを『たまこがメダルを落とし、それを探し回っていたところで、王子が見つけてあげる』というシナリオにしているのですから。

 北白川豆大

 『不変の護り手』

 豆大は『伝統』に捕らわれた人物です。そして、特別なことには魅力を感じず、
『日常』を遵守する人物です。彼は見るからに頑固職人として描かれますが、
それも、たまこの項目で書いたとおり、娘の姿には心を動かされ、
商店街の人たちと協調性を重視しました。
 そんな彼ですが、やはり、頑固なところは変わりません。
しかし、そんな性格が、最終話にて、たまこの助けとなりました。

 商店街の人々は、日常生活になんの不満を抱いていないものの、
日常とはかけ離れた特別なものには興味を抱きます。
その特別なものが『王子の来訪』だったわけですが、
それによって、たまこはシャッターだらけの商店街を目にしてしまうのです。
その光景は、たまこのつらい過去を思い出しますし、
たまこが宝物としているものでもありません。

 その中で、彼女の家族が『たまや』を維持し続け、
たまこに「おかえり」と言ったことは、
どれだけ、彼女を安堵させることになったでしょうか?
商店街の中が特別な存在に靡く中、豆大が日常で在り続けることで、
たまこは、本当に自分が愛しているものを再認識することができました。
それが、彼女の「ここに生まれてよかった」という日常賛美の語りに繋がるのです。

 北白川あんこ

 『殻の概念と核の概念』

 あんこは、豆大の娘でありながらも『伝統』を嫌い、外見重視の『流行』を求めています。
どちらかというと、ライバル店の吾平に近いタイプです。
『あんこ』という名前を嫌い、『アン』という外国人の名前で呼ぶことを強要したり、
子供っぽいに思われるのを嫌っています。学生帽も、まともに被ろうとしません。
 彼女は『革新・グローバル』という、分かりやす過ぎるほどの
『概念の擬人化』として、描かれていました。
そんな彼女が『概念の擬人化』から『血の通った人間』へと昇華した話が4話となります。
 4話は、あんこが一人の少年を好きになっていることを知らせる話であり、
それと並行して、あんこが商店街の外に行くのを諦めて、
ある転機により、自分の意志によって商店街に留まる話でもあるのです。

 まず、恋愛方面の面から考察してみましょう。
 
 『なんのために、竜也は必要だったか?』
 竜也くんを覚えていますか? 名前からして既にイケメンの小学生です。
みどりもかんなも、あんこは、彼に愛していると勘違いしてしまうほどイケメンです。
 もし、小学生のあどけない恋を、ただ単純に描きたいのであれば、
竜也は必要はありません。柚希だけを出せばいいのですから。
その逆に、あんこの恋をしている相手を竜也という設定にしてもいいのです。

 4話は、何故、ミスリードの必要があったのかを理解しなければ楽しめません。
柚希は、竜也と比べるなら容姿は劣ります。
それは視聴者側からも、物語の登場人物の感性からでも共通の認識です。
 しかし、柚希は極端なまでに『優しい』人物と描かれました。
ほんの少しの登場で、その穏やかで優しい人物であるとわかり、
『内面』の良さが滲み出ているのです。
以上のことから『外見』の竜也、『内面』の柚希という構図ができあがります。
 今まで描かれてきた『外見重視』のあんこのことを考えると、
彼女が恋をするとしたら、それは竜也に違いありません。
しかし、実際は柚希に恋をしていました。
 これは、あんこという人物の、主義・主張が一貫していないということではありません。
あんこの主義・主張が、本心ではなかったということを意味しています。
その証拠として、あんこは口には出していませんが、
彼女の心に占める母親への思慕は大きく、
今はそれが与えられないことに、寂しく思っている描写があるからです。
 彼女は、確かに流行や特別なものは好きですが、
本心で求めているのは『優しさ』であり、『内面の温かさ』です。
だからこそ、柚希のような少年に惹かれてるのであり、
それを表すために、竜也という少年も登場させる必要があったのです。

 この、観念に捕らわれた人物、つまり『概念の擬人化』として描かれた人物を、
物語の中で、違和感を出さずに、役割を破壊させるという展開は、
かなり特殊であり、レベルの高い人物描写です。

 視聴者だけではなく、物語の登場人物も、そのギャップに驚いた人物がいます。
それは、みどりです。彼女はこういいます「あんこって、すごくいい子だよね」
 では、どうして『良い』のでしょうか?
 イケメンのクラスメイトがいるというのに、その子ではなく、
それより容姿の劣るクラスメイトを選ぶことが『良いこと』になるわけはありません。
むしろ(種を残すという)動物本能的な考え方をすれば、悪いことでしょう。
 みどりがあんこを『いい子』と言ったのは、あんこが『外見』だけではなく、
『内面』で判断することのできる子だとわかったからです。
つまり、みどりのあんこに対する誤解が解け、認識を改めたということです。

 『商店街に対する見方』
 
 では、次に、4話であんこが商店街に留まったことについて考察してみます。 
好きな男子と博物館に行くことより、商店街に選んだあんこの心情は、
どんなものだったでしょうか?
それには、もちろん、亡き母親のことが関係しています。
 あんこは、昔は祭りが好きでした。そして今はそうでもないです。
その理由は、母親の有無によるものです。
 彼女は「お姫様みたい」と言われて嬉しかったお祭りの思い出がありました。
今では、どんなお祭りでも、それを願うことはできません。
 その中、偶然、稚児の手伝いをすることになったのは、大きな転機でした。
あんこは、昔、母親にしてもらって嬉しかったことを、その稚児にしてあげるのです。
与える、与えられるの関係は逆ですが、
煩わしく思っていた商店街という場が、母と娘のような関係を作り出せる場となったことは、
あんこの本心を満足させる結果となりました。
 彼女は、稚児の願いを受け入れます。彼女は商店街の外に出ることを諦め、
稚児を見守るために商店街の祭りに参加します。
 商店街での交流に、価値を見出したあんこに待ち受けていたものは、
大好きな柚希の訪問と、アンモナイトという形ある宝物でした。
これは、内面を重視したご褒美のようなものでしょう。
(ちなみに、この4話で対比されていたのがもち蔵で、彼はたまこに
 『格好いいところを見せよう』と外見重視の行動に出ていました。
 その結果が惨憺たるものだったことは、あんことコントラストを成しています)

 『受け継がれる精神』

 4話は考察しやすく『中身』のある話ですが、あんこの役目は、9話にもあります。

 9話は、過去から現代へ、繋がれていく想いが描かれています。
豆大とあんこは、表面上は相反する観念に捕らわれた人物としていますが、
その二人に、共通点を持たせることで、本当に大事なところは、
しっかりと受け継がれていることが強調されます。
 9話の冒頭にて、豆大とひなこの会話があります。
このときの豆大は、自分の名前のせいで、少し恥ずかしい想いをしました。
(豆大と豆大福の間違い)
現代に舞台は移っても、それは繰り返されます。
あんこが柚希に餅を渡すときも、名前が原因で恥ずかしい想いをします。
(あんこと餡子の煩わしさ)

 あんこの本心は『優しさ』を求めており、その優しさは、母親がくれたような
愛情であるのならば、柚希との別れは深い意味を持ちます。
『別れ』というものを既に経験しており、それが再び繰り返そうとしているのですから。
 せめて、あんこは、最後ぐらい自分の気持ちを伝えようと思うのですが勇気がでません。
そこに登場したのが『餅』です。この餅によって、柚希と会うことの名目が作られました。
それだけでなく、彼女が会いに行った結果、
あんこは、柚希と正月に会えるという情報まで手にいれることができました。
つまり、あんこと柚希は『餅』によって、また繋がることができるのです。
 『商店街のおせっかい』『もち屋の娘という宿命』など、
あんこは、煩わしく思っていたものによって、度々、救われることになります。
 この点においても豆大との共通点が描かれました。
豆大とひなこが餅によって繋がりを持ったように、
あんこと柚希も餅によって繋がることができたのです。
 
 常盤みどり

 『言葉にできない気持ち』

 みどりは『カリスマ』という役割を持ちます。
2話は『バレンタイン』という、自分の気持ちを伝えるという行事を題材にしながらも、
『伝えずとも、大事な気持ちがある』ことを示した粋な話です。

 2話において、みどりは、男女問わず、誰からも愛される人となります。
誰からも愛されるという点では、たまこも同じですが、愛情の種類が違います。
たまこは『庇護欲』をそそり、守ってあげたくなる少女ですが、
みどりの場合は『憧憬』です。たまことは反対に「守ってもらいたい」と
慕われるタイプです。その点で、たまこは、みどりの相性は抜群です。
 危なっかしいたまこにとって、みどりはとても頼りになる存在ですし、
頼りにされていることを自覚しているみどりにとって、
たまこは守ってあげたくなる存在です。

 2話で、みどりは、たまこのノートに書かれた『ハート型の何か』に驚きます。
学校で、恋愛やバレンタインの話題を耳にしていたので、
それをチョコレートと思ったのです。
みどりは、それが、ただの(商品)の餅であることを知って、安心します。
たまこが、誰かに恋心を寄せていることは、みどりにとって、とても動揺することなのです。
それは、『たまこの恋愛』は、上記のような関係を崩してしまうからでしょう。

 みどりは、たまこを守ってあげたいと、特別な想いを寄せています。
その度合いは不明です。
強い友情であるか、恋愛感情であるかも不明です。性愛を含んでいるとも描かれていません。
 私が見たところ、恋愛感情と言うよりも、強すぎる友情であり、
みどりの独占欲はかなり強く、行き過ぎたもののように感じました。
一話を見ても、彼女のたまこに対するボディタッチは、かなり多いのですが、
それは性愛ではなく、独占欲を満足させるもののように感じました。
 女性が好きなのではなく、偶然、たまこを好きになったようにも見えますが、
みどりのチョイに対する態度をみると、少女に、全く興味がないわけではないようです。

 みどりの、たまこに対する感情の度合いが、
どの種類であり、どの程度なのは、特に重要な点ではありません。
注視すべき点は、みどりは、そのことに対して『疑問』を持ったということです。
『自分は、このような感情を抱いていいのだろうか?』
『自分の、この感情は正しいものなのだろうか?』
 たまこが好きなことに対して、みどりが悩まなければならなかった理由は様々でしょう。
同性愛者と見られたくない、または自分がそうであると認めたくない。
ということもあったでしょうし、
この感情が、今の関係を崩してしまうのではないかと思ったのが、一番の理由でしょう。

 そのみどりが変わることができた(『疑問』から『納得』)のは、
たまこの『商店街に対する愛』に勇気を貰ったこと。
そして、友人であり、理解者でもあるかんなから
『誰が誰を好きになってもいい』と言う言葉を貰ったからです。
 結局、みどりは、バレンタインになっても、たまことの関係を崩さないために、
自分の気持ちを伝えることをしませんでした。
しかし、隠している気持ちは、みどりにとって大切で、とても尊いものです。
『言葉にできない気持ち』というのは、
名状しがたい、曖昧な思春期特有の感情であることと、
相手に伝えてはならない自分の想いという、二つの意味を持っています。

 『不変のための抗い』

 みどりは、自分の『言葉にできない気持ち』を大切に持ち続けたまま、
友人関係を守っていきました。
その友人関係の障害となったのが、もち蔵です。

 5話は、『外部の介入』という脅威を『内側』から描いたものでした。
鎖国してたのに、黒船が来たときの江戸幕府と同じ状態です。

 みどりと同じ感情を持っているもち蔵は、みどりにとって脅威でした。
もち蔵は男性であり、彼がたまこに干渉していくことは、
恋愛が生まれ、友情が崩れる危険性があるのです。
 自分が同性であったがために、心の中から出さなかった感情を、
もち蔵は、異性であるために、それをやってのけるのです。

 みどりが行ったことを、性別を変えて考えてみましょう。
例えば
 『たまこが男性で、もち蔵を女性に変更』
 『みどりを男性に変更』
 このように、みどりともち蔵のジェンダーによるハンデを0にした場合、
みどりが、どうしようもなく卑怯な人間になります。
 みどりが、女性であることを差し引いても、卑怯であることは間違いありません。
だから、この話でみどりを嫌いになる人がいたとしたら、それは当然のことです。
 ですが、私は好き嫌いとかではなく、
『彼女は、そんな卑怯な手を使わなければならないほどに追い込まれていたのは何故か?』 
と考えました。
答えはもちろん、大事な物が壊されそうとしていること。
それに自分が不利な立場だったからです。
 その証拠に、彼女は、もち蔵が男性として優位ではないこと
(たまこは彼に恋愛感情を抱いていない)を知ると、
警戒心があっさりと解けるばかりか、彼を同志として扱います。
 
 5話におけるみどりは『弱さ』を担当していたわけですが、
みどりの性格が、あのようなもので、彼女は『カリスマ』を担当しているのですから、
どうしても表面上は『強がり』として、描くしかありませんでした。
その結果、みどりに関しては『警戒心があると、強引で卑怯になる』人物であると、
描いてしまったわけです。
 『たまこまーけっと』は『幸せの形』を描く物語であり、
その上で、5話という障害さえも、隠すことなく描いたのです。
それはそれで素晴らしいのですが、ならば、せめて
『自分の弱さに耐えきれず』以上のフォローが、あればよかったと思います。
そこは少し残念な点に思えました。

 それでも、11話、最終話において『たまこがいなくなるのでは?』と不安定になり、
途端に弱くなる描写は、みどりが5話で見せた黒さをそれなりに
薄めているように思いますし、最終話で、みどりが、仲の良いかんなでも史織でもなく、
同じ心情でいるもち蔵を見上げ、微笑み合っただけでも、彼女は救われています。

 『カリスマの崩壊』

 みどりの、誰からも慕われ、後輩からも『(クジの)引きが強そう』など、
よくわからないことまで信頼されている彼女ですが(おそらくハロー効果でしょう)
それが、ことあるごとに、弱さを見せることによって
(あんこ同様に『役割破壊』という手法で)、人間味が引き出されました。
 みどりが、常に人気の的であったことは、彼女の人格形成にも影響を及ぼしました。
彼女は、人から頼られている自覚と共に成長し、プライドの高い人物となりました。
それは格好悪いを見せることはできないという恐怖(プレッシャー)も抱くことになります。

 10話は、まさに、その恐怖に怯えているみどりを、
友人たちが取り払おうとする話でした。
 人間観察に秀でたデラは、2話の段階で、『強がるな』と言って、
みどりのプライドを見抜きますし、
トキワ堂のおじいさんは『まずは謝ること』と
『強がり』を捨てることをアドバイスします。
 彼女が欠けている『素直になる』ということを指摘するおじいさんは、
さすが親族で年の功と言ったところですが、
仲間である、たまこ達の取ったの行動は、どうだったでしょうか?
 まずは、史織が気付きます。そして、かんなが追及し、たまこが言葉で伝えます。
たまこの『格好悪いことなんてないよ』という発言で、みどりの恐怖心は払拭されました。
 ここで『守る・守られる』という関係の逆転現象が行われます。
たまこは『守られる』性質を維持したままで、みどりは『守る』性質を維持したまま、
その状態で、たまこが守りみどりが守られることになります。
 この『変化』が起きた理由は一体なんだったかというと、それは友情によるものです。
 かくして、彼女は捕らわれていた『プライド』から解放され、文化祭は成功。
さらに友情を育むことになりました。
 
 牧野かんな 

 『究極の不変』

 かんなは、最初からバトン部という、内部の人間であり『不変』の象徴です。
彼女は『不変』の擬人化と言ってもよく、人間味は薄い人物です。
その代わり、不思議な人物として味が出ているので、それはそれでいいことでしょう。
 彼女は『商店街』を主体としたときは、外部に位置する人間です。
6話は、5話と同じように、内部の人間は外部の干渉に弱いことを表す話で、
かんなの策略に、商店街の大人たちは、揃いもそろって困惑しました。

 9話では、彼女の『不変』の性質は、デラの家として姿を現します。
彼女の作った家を、デラが無理に受け入れようとするならば、
デラの体の方が、その姿を変えなければなりませんでした。
 彼女は、ことごとく『不変』であるのですが、
それは、彼女が確固たる信念と価値観の持ち主であることは疑いようもありません。
しかも、それが世間とずれているので、それがさらに強調されています。
 彼女の行動原理は、風変わりながらも理論的です。
肝試しは、彼女のおかげで成功しましたし、10話で『トイレ発言』を話題に持ち出したり、
みどりの部屋のゴミ箱の中から振付け案の紙を探り、それを提示して追及したことは、
一見すると、心ない行動に見えますが、ここは直球でいかなければ、
何も解決しないという彼女の判断だったように思えます。

 朝霧史織

 『外部からの視点』

 史織は『外』から『内』に入った人物で、望む、望まずに関わらず、
新たな環境を受け入れることは、勇気が必要であることを身を持って体験した人物です。
彼女は、かんなとは逆に『変化』を表しています。
 彼女の『外』から『内』の変化する役割は、3話で終了していますが、
6話では、商店街の『外』の人物として、『外』の視点で持って、
怪奇現象の正体を暴きます。
 11話では、『特別』なことに想いを馳せながらも、たまこの気持ちを忖度しています。
 彼女が、勇気を持って違う環境へ足を踏み入れた経験者だからこそ、
「怖いよね」という台詞がいっそう説得力を持ちました。

 チョイ・モチマッヅイ

 『伝統からの脱却』

 彼女も、わかりやすい『概念の擬人化』という役割を担いながら、
『グローバルからローカル』へ変化することによって、その役割が破壊された人物です。
 彼女は、当初は『伝統』『規律』の擬人化として登場しました。
妃探しをしないで、ぶくぶくと太って、占いができない体になったデラを、
これでもかというくらいに、叱りつけます。
そんな彼女は、商店街というローカルでの交流、
そしてみどり、かんなたちと友達になったことで、新たな価値観が生まれます。
それは『伝統』『規律』に反するものでした。

 彼女は、伝統を重んじて、自分の『鳥占官』という役職を務めるために
自分の感情を押し殺します。
その感情とは、王子に寄せる淡い恋心です。
 そこに、商店街で、ある出来事がおきました。
それは、7話で、銭湯『うさ湯』の一人娘、さゆりさんがお嫁に行くことです。
そして、チョイは、さゆりさんに恋心を抱いていた清水屋さんが失恋したことも悟ります。
問題はここからです。その清水屋さんは、チョイの占いのおかげで、
さゆりさんは、不安なく結婚することができると言い、チョイに感謝の言葉を伝えます。
 自分の恋が叶わなかったことよりも、自分の愛する人が幸せになれることに感謝する。
そのように、優しく利他的な人物と出会ったことが、チョイに衝撃を与えました。
 『自分は、本当に王子の結婚を祝福できるのだろうか?』
さゆりさんを王子に、清水屋さんを自分に置き換えて考えます。
風呂の中で考え過ぎてのぼせたチョイは朦朧とした意識の中
『波の音が聞こえない』と呟きます。
 さゆりさんの占いで『縁』『波』で表現したことを鑑みれば、ここでの『波の音』は、
自分が、王子と深い縁を持つことができないことに悲しんでいることを意味します。
 たまこは、チョイがホームシックであると思い、波の音がするレコードを聴かせます。
このたまこの行為は、たまこが(故郷のとは違うが)
新たな縁を運んできたことを意味します。

 7話は、これだけのメッセージがあり、
それをモノローグを一切使わずに、フラッシュバックのような僅かな回想と、
比喩表現によって伝えているのですから、作品の質の高さは測り知れません。
その完成度は、全12話通しても、トップクラスでしょう。

 8話では、制服を着て学校に通ったり、プレゼントを貰ったりして、
『ローカル』に染まっていきます。
「初秋」という言葉を用いたように、新鮮な経験をしたチョイからは、
本来持っていた『伝統』『規律』の性質が抜けていきます。

 10話にて、チョイは『王子の妃になる人の婚礼衣装を手がけるのは私の夢』と言います。
これは、7話での出来事を悩みぬいた上での回答となります。
この段階では、ふっきれたのか、強がっているだけなのかは判別できません。
私は、10話の時点では、思うところがあって、ふっきれたのだと思っていました。
(11話を見たら、怪しく思いましたが)
 チョイは、自分以外の人が妃になることは、すでに覚悟していたのでしょう。
しかし、その妃がどんな人でも構わないとまでは、ふっきれてなかったのです。
 占いの結果、どんなに自分が気に入らない人が妃になったとしても、
それでも婚礼衣装を喜んで作ることができるのか? と問われれば、
彼女は本心から肯定することはできなかったでしょう。

 (まったくの余談ですが
  『自分の愛する人が、自分の嫌いな人と結婚するかもしれない』という仮定で、
  とある物語を思い出しました。リドルストーリーというジャンルに
  『女か虎か』という話があります。チョイなら、これを読んでどう感じるでしょうか?)
 
 チョイは最終的には『規律』を無視し、役職を悪用します。
占いを行わず、私欲のために、たまこを妃に仕立て上げようとします。
 彼女は、2,3の信ぴょう性の薄い『妃の要素』を、たまこに見つけると、
チョイには、ある感情が生まれたのです。『たまこが妃だったらいい』という感情です。
 チョイは、たまこが妃候補でないと発覚してしまうことを恐れたがために、
彼女は占うことすらしませんでした。

 ここに、彼女から『伝統』『規律』から脱却し、
自分の意志を反映させるまでに至ったことが描かれているのですが、
この『変化』の原因は何だったのでしょうか?
 役職の悪用は悪いことですが、彼女が『規律の擬人化』ではなく、
人間的な感情を押し殺さずに、一人の少女として行動に移すことができたのであれば、
それは、進歩と呼んでもよいでしょう。
 チョイがこうなった原因は、商店街や、バトン部の仲間たちと
出会い、交流したことにあるのは疑いようありません。

 最終話にて、王子は『占いをしなくてよいよ』と言ったことは、
チョイの『鳥占官』としての役職が(全てではないが)崩壊したことを意味します。
しかし、それでも王子は、チョイに自分の傍にいてほしいと言います。
プロポーズとまではいかないまでも、王子は、
『鳥占官』ではなく『チョイ・モチマッヅイ』として、彼女を求めていることがわかり、
これは、チョイにとって、とても喜ばしいことでしょう。
 
 ところで、チョイには、首にホクロがあるでしょうか?
あってもいいし、なくてもいいのですが、
それによって、このシーンは、二通りの解釈ができます。



 まず、無かった場合。
 たまこにとって、首のホクロは、母親から受け継いだものですが、
チョイにとっては『妃の証』です。
これは『伝統』ではなく、いままでずっとそうだったという『統計』によるものです。
ですから、『占いによる妃探し』が廃止されても『首のホクロ』は、また別問題です。
 たまこを妃にする計画がご破算となった以上、王子の妃は別の人となります。
王子は、占いによって妃を決めることを辞めましたが、
かといって、誰とも結婚しないと言っているわけではありません。
チョイは、たまこと別れることで、まだ見ぬ妃を想い、首を触ったと考えられるのです。

 次に、チョイにホクロがあった場合。
 チョイの首にホクロがあった場合、彼女は統計的には妃になりやすいのかもしれませんが、
『波の音が聞こえない』通り、『伝統』によって、王子の妃になる可能性は0です。
鳥占官の仕事内容を考えれば、チョイは規律的に妃になれないのでしょう。
 そう考えれば、チョイがホクロを隠すようにして首環をしているのも、
気持ちとしてわかるような気がします。
 しかし『占いの結果』『伝統』『役職』というものが、取り払われた最終話では、
残されたのは『王子の妃は、皆、首に徴がある』という過去100パーセントの統計です。
これは、チョイが「もしや」と、期待していることを意味するでしょう。
 
 商店街の人々

 『無自覚の提供者』

 商店街の人々は、集団で意味を持っていました。
 大らかで優しく、全てを許容する人たち。
若者もいれば老人もいて、老若男女どころか、性別不明の花屋さんもいますが、
そんなことに関係なく、皆が温かく、交流をしているのです。

 そんな彼らは、11話、最終話にてデラと比較されることになりました。
もち蔵をはじめとする商店街の人々は、どうして、重要な場面で
たまこの心情を理解せずに、たまこを憤慨させてしまったのでしょうか?
どうして、よそ者であったデラに、その重要な役を譲らねばならなかったのでしょうか?

 商店街の人々と、たまこの認識の違いは『日常』に対する価値観です。
商店街の人々は、日常の生活は、当然であると考えています。
(当然なものが日常と呼ばれるのですから)
人との温かい交流も、毎日繰り返されているから、当然のことのように思っています。

 たまこも、その商店街の一員ですが、それは毎日、普通に行われる、
当然なことであると同時に、かけがえのない『宝物』としても認識していたのです。
 商店街の人たちが欠けていたのは、その認識です。
その上、彼らは、たまこの幸せを願っていました。
ですから、彼らは『たまこには宝物を見つけてほしい』と願い、自由でいられるように、
『南の島だろうとどこだろうと、商店街の外へ行ってもいい』と振る舞うのです。
 もちろん、皆はたまこと離れることは寂しいと思っていますが、
たまこを留めるようなことをしてしまえば、それはエゴイストです。
 たとえ、自分が寂しくなってしまったとしても、たまこには幸せになってほしい。
そんな痩せ我慢が、商店街の人たちの総意でした。
(そのようにして、幸せになっている前例、さゆりさんの影響もあったのでしょう)

 しかし、たまこからしてみれば、そんなのは面白くありません。
すでに宝物を手にしている状態で、周囲が『宝物を見つけてね!』と言ってくるのですから。
その上、商店街を離ても構わないよ。と暗に勧めているとなれば、
彼女の価値観からすれば矛盾と言ってもよいでしょう。

 『自分の望む宝物を手にいれてね。
  そのために、商店街を離れても(宝物を手放しても)かまわないから』

 これが、たまこの憤慨の理由であり、戸惑った理由でした。

 もち蔵についてもここで述べますが、彼は、そんな痩せ我慢の代表人物です。
そのせいで「しつこいな!」と、たまこに言われる損な役回りです。
そんな彼も、最後の最後には、大役を司ります。
デラが、花屋からたまやに戻る展開は強引なシナリオと言えますが、
そこを論うのはナンセンスです。
 ここは概念として捉えるべきです。
もち蔵がたまこに誕生日プレゼントを渡す行為が、デラとの再会となり、1話をなぞります。
1話をなぞるということは、これから先も『日常』が続いていくことを暗に示しています。
 デラと過ごす生活は、すでに、たまこの『日常』となっていました。
もち蔵は『日常』を運んだこととなり、『日常』を望んでいたたまこにとっては、
最高の贈り物となりました。
 もち蔵は、最後の最後に、商店街の一員として、埋め合わせ以上の働きをしました。

 デラ・モチマッヅイ

 『発見する者』

 自由気ままで、自意識過剰。図々しい反面、情に厚い。
そんな彼は、商店街の中で様々な人たちを眺めていました。
彼は参加者ながらも、傍観者、語り手の役割も担っていました。
彼が一歩引いた視点を持っていたことは、重要なことです。

 たまこが生まれてきたときから一緒にいた商店街の人々が、
11話にて、たまこを憤慨させてしまった理由については、
商店街の人々の項目で書きました。
 では次は、どうしてデラが、最終回でたまこの気持ちを訊くことができたのかを
考えてみます。
どうして、商店街の人々にも為しえなかったことが、デラには為しえたのでしょうか?

 まず、デラが図々しい性格であったということもあるでしょう。
商店街の人が、たまこに交渉しようとすると、
それが、たまこを束縛してしまうのではないかと忖度したために、
彼らは遠慮していたのかもしれません。
 私が思うに、一番の理由は、デラが、たまこの宝物が
なんであるかを理解していたということでしょう。

 11話で、たまこが『商店街のメダル』を手に入れたときに、デラはその場にいました。
その際に『王子の妃候補』と『商店街のメダル』が比較されてました。
たまこは、自分の言葉できっぱりと『商店街のメダル』の方が大事であることを、
その理由とともに述べているのです。
その理由はデラにも理解できました。メダルそのものではなく、
彼女が小学生のころから貯め続けたこと、その経緯に価値があることは、
デラにも理解できました。

 これは、そのときの表情なのですが、いかにも悟った表情をしています。



商店街の人々は、当たり前に過ごす日常を大事にしており、それに満足していますが、
『たまこの幸せは、私たちと過ごす日常であるに違いない』なんて考えは、
ちっとも思いませんでした。
そして、どちらかといえば、『王子の妃』に代表されるようなロマンティックで、
非日常的なことに魅力があるのではないかと思っていました。

 童話『幸せの青い鳥』は、チルチルとミチルが、幸せの青い鳥を探す旅に出ますが、
結局見つからず、帰ってきた自分の家で青い鳥を見つけるという物語です。
 
 幸せを『青い鳥』に喩えるならば、
『たまこまーけっと』の商店街の人々は、こう言っています。
 
 「『幸せの青い鳥』は、おそらく、どこかにいるから、自由に探し回っておいで」と。

 しかし、彼らには自覚がないのです。自分が『青い鳥』であることに。
商店街の全てが『青い鳥』であり、
毎日、青い羽根が舞っていることに、彼らは気付かないのです。

 もし童話の『幸せの青い鳥』が、チルチルとミチルだけの話でなく、
世界中で同じ認識をされていたとしても、
『幸せ』=『青い鳥』であることに気付かない者がいます。
 それは『青い鳥』自身です。
彼らは生まれたときから『青い鳥』で、
幸福・不幸に関係なく『青い鳥』として生きてきました。
そんな鳥は『貴方は幸福そのものです』と伝えられたとしても、
『え? どうして?』と思うことでしょう。
商店街の人たちの盲点とは、つまり、そういうことです。

 一方、デラは『青い鳥』ではなく『白い鳥』です。
南国で生まれ、一年間『商店街のデラちゃん』であったとしても、
少し離れた視点から、商店街を見ていました。

彼は最終回で豆大に行ったように、
ずっと、商店街が『青い鳥』であったと認識していました。
 だからこそ、デラはたまこに本心を訊くことができたのです。

 「王子の妃となったら、この商店街にいる『幸せの青い鳥』に
  別れを告げなければならない。そのことをどう思っているのか?」と。

 『たまこまーけっと』は、童話『青い鳥』と絡めることは、こじつけに近く、
制作者の意図したところはわかりませんが、意図しなくても、
そのような解釈は面白いと思います。
商店街の中心にいるのは『鳥』ではないものの『青い魚』であり、
王子メチャの『青い鳥』をあしらった留め具が、
彼の肩に乗っているものの、視点からは死角になっているのは興味深いです。


 デラの傲慢な態度は、鳥だからこそ、許されているところがあります。
『飼う』と言われることを嫌い『仕方なく居てやる』と、上から目線だったり、
5話からも、歓迎されて当然という認識をしていることが窺えます。
 彼が傲慢なのは、王家の鳥であり、施しを受けることに慣れているからでしょうが、
そんな彼も、最後には、たまこを守るために王子に頭を下げますし、
別れる際には、傲慢さはなくなり、とても潮らしくなります。
 デラにとって施しを受けることは、昔から慣れていることでしたが、
「ずっと、このあたりが温かかった」と言ったことは、
商店街の施しに特別なものを感じ、嬉しく思ったことを意味しています。
 施されて当然の暮らしをしていたデラが、このように感じることができた理由は、
デラが基本的には人情を大事にしていて、人の本心を悟ることに長けていることも
あったでしょうが、何よりも、その施しが『伝統』『身分』に基づくものではなく
『博愛』に基づくものであったというのが、最もな理由でしょう。


 最後に

 『たまこまーけっと』の感想は以上です。
昔のブログで書いてたように、1話、2話……と各話の感想を書いていくのではなく、
各、登場人物ごとに振り返ったことは、私にとって、大きな収穫となりました。
というのも、書いている途中で気付いたこともあったからです。
 『たまこまーけっと』は、編み物のように、時系列という縦糸と、
登場人物の交流という横糸がよく編み込まれている作品だからこそ、
違った見方で挑んで、新たな発見に出会えるのでしょう。
 
 『たまこまーけっと』は、とても不思議な物語でした。
 登場人物を概念で捉える、純文学的な見方ができてしまう『作品』であり、
純文学にしては、あまりにも登場人物を大事にしすぎる『作品』でした。
この物語の人々は、私の周りの人々には似ていないし、
架空の世界であるとはっきりわかるのに、それでも命を感じます。
それは、作品愛を持った制作者が、その技術を駆使し、
熱意をもって情を吹き込んだ結果でしょう。
 私は、そのような作品に敬意を払いました。普遍的なテーマを見つけようとするときも、
登場人物の人間味を損なわないように書かねばならない。
……と、気合いを入れるまでもなく、どう取り扱おうとも、
人を繋ぐ優しい気持ちが、どこでも重大な影響を及ぼしているので、
普通に書いていれば、それだけで人間味は失われませんでした。

 今回は、構成や登場人物の魅力を中心に、文学的視点で感想を書いてみました。
 『たまこまーけっと』の魅力のほんの一部でも伝われば幸いですが、
どうだったでしょうか?
 それとはまた別の視点で『舞台芸術』と絡めても、この作品について
描いているところです。
 同時進行で書いていたので、『作品』に対するスタンスとか、
内容が被っているところもありますが、よろしければ、そちらもお願いします。


 引用した本
 『完全なるワーグナー主義者』バーナード・ショウ  高橋宜也 訳   新社館
 『ファウスト』       ゲーテ        相良守峯 訳   岩波文庫


コメント

mera
No.14 (2013/09/14 19:23)
単なる京アニ信者やん
くれふぁ。
No.15 (2014/06/09 03:07)
これを読んだ上でたまこラブストーリーを観ればもっと違うものが見えたのではないか、と少し悔しい気持ちです....。
vantakuto
No.16 (2018/01/29 19:47)
遅くなりましたが、一挙も見ました
非凡な日常の中に様々な考察が垣間見れる隠れた名作だと思っています

「敵」を作る事も、波を立てる事も簡単に出来るが、正直この作品にこれらの要素は必要ないと思うんですよ

出来ればたまこラブストーリーも是非視聴して感想を伺いたいものです
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