新連載

侠貌

六天 舜

初めに

 この物語は私の青春の蹉跌の記録であり、一つのフィクションも入っていない。当時は自分で意識をしていなかったが、男とは強くなければならないという事が、完全に行動に表れていたような気がする。だから、根性がない等という言葉は一番忌避していたし、喧嘩に勝ことと、泣きごとを言わないという事が至上であり、私たちの目指す所でもあった。今振り返り見れば赤面の至りである。本当に強い男は喧嘩ばかりではなく精神的に強くなければならないし、優しさも持たなくてはいけない、時には薄情に成れる事も強い男には、必要である。この頃の私たちは今思うと本当に子供であったと思わざるを得ない。でも、この様な人生の一部があり、今があるという事を私は忘れない。言い換えればこの頃の私がいたから現在の私がいるのである。

 青春それは無軌道な事ばかり、それが本当であると思い行動した。だから、後悔は一つも無い。禅の本を読むと『随処に主となれば立つ処皆真成り』とあるが、私たちの青春は誰が教えたのでもなく自分で考え、自分で行動していたのだから、皆、真即ち、本当の事であったに違いがない。

 平成二十五年 三月 一九日        六天 舜


侠貌あらすじ

 埼玉県深谷市は赤城颪が吹き荒ぶ様に、侠風が近隣の他市に比べて頑固なくらい強い場所である。そのような街で生まれ育った主人公は、負けん気の強い性格に生まれた。この物語は深谷中学校を卒業して、県立本庄高校に通い退学をしヤクザに成らず愚連隊として、喧嘩三昧な日々を送っていた頃のものである。愚連隊の友情や漢気とは何であるか書かれていて、命がけの喧嘩をした者のみ表現できる臨場感ある場面が克明に描いてある。そしてこの物語は六天舜が、後に書きあげる男の友情とは何か。という事を考えさせる「中間平」へと続くのである。

不良少年

 深谷市の唐沢堤の桜が散り、若葉が眼に染みる頃。深谷警察から黒塗りのセドリックに乗せられて、刑事に貰った煙草を両手錠のままで吸いながら、当分この街には帰ってきられないと思いながら、着いた先は浦和少年鑑別所であった。

 罪名は傷害と恐喝、どっちにしても少年院に送られるのは確かで、不良の先輩達に少年院の事は聞かされていたので、好奇心満々であった。

 古い事なので今は忘れたが、入所に対しての注意や鑑別所の規則・生活に付いて鑑別所の職員に、いやになるほど聞かされ雑居房の一室に入れられた。共犯の岡野秀雄は三室であったと記憶している。

 岡野は元稲川会相之川一家岡野組の組長である。

 一九六〇年だから山口乙矢が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した年である。

 入室する時不良は不良の仁義が有る。

 「深谷から来ました。高田宰夫です。宜しく頼みます」

 「おう、深谷ねぎか」

 四人いた先室者の内部屋長らしき者が、鷹揚でありながら、威嚇心丸出しで鋭い目つきをわざとして、私を観ら見ながら応えた。

 この頃の私は、喧嘩が強く切れるのも早かった。

 「何を張ったりを掛けているのだ。喧嘩ならいつでも上等だ!」

 一勢に部屋の者が立ち上がったが、わたしは既に、部屋長と思しき者の襟首を掴んで引き寄せていた。透かさず右パンチを左頬に浴びせてやった。其の儘、後ろに部屋長は倒れてしまった。

 それを見ていた三人は急に闘志を失った様に、下を向き眼を伏せてしまった。そして、聞こえるか聞こえないかの声で一人が言った。

 「失礼をしてすいません。一応罪名は、誰にでも聞くことに成っているのです」

 「解った」

 私は微笑んだ。

 するとパンチを見舞われて倒れていた部屋長は起き上がり、正座をして私に謝った。

 「深谷の高田さんですか。噂では聞いていたのですが、部屋長の立場として、言った事でしてお許しください」

 私が前部屋長に代わり浦和少年鑑別所の一室のボスになったのは、たった十分、騒ぎに気が付いた職員が早々扉を開けて補導課に連行をした。

 「高田、ここで入所して直ぐに喧嘩をしたのはお前が初めてだ。これで少年院送りは間違いがない」

 大きいデスクに座っているのだから、偉い人なのだろう。デスクの上には何とか課長と書かれた札が置いて有った。

 デスク前に立たされた。

 「手を後ろに組め、歯を食いしばれ!」

 デスク越しにいきなり左頬へ平手打ちが飛んできた。

 私は、ウスラ笑いを浮かべて左頬を偉いと思っている者に突きだした。

 「左の頬を殴るなら右の頬も殴ってくれよ」

 課長は一瞬、躊躇の色を浮かべたが、私を恫喝した。

 「高田、お前は必ず特別少年院送にしてやるからな。ここでも確り面倒を見てやるからな」

 何を脅しているのだろうと思い。笑いだしたくなった。

 「有難うよ。態々特別に面倒を見てくれるとの事ですが、どうせ俺は特別少年院に送られるのは覚悟してきている。特別に面倒を見て貰わなくても結構」

 「生意気な奴だ。後で鳴きを見るな、これから少年院に送られるまで独居で生活しろ」

 「上等だぜ!何を言ったってここに居るのは二十八日間だけじゃねーかよ。やれるもんなら俺に何でもやってみろよ」

  私と課長をやりとりを一部始終見ていたのが、私と同じく三房で暴れて補導課に連行れて来ていた岡野秀雄である。

 課長に対する不貞腐れている態度と行動を見ていて思ったという。

 (俺はこの男とは必ず兄弟分に成りたい・・・)

 後年、本当の兄弟分なってから岡野が、鑑別所での思い出をしみじみ語ったものである。

  その後、独房に入れられて二十六日目に家庭裁判所の審判が有った。

 私は在宅試験観察になり、岡野は委託試験観察となった。だから私は家に帰る事が出来たが、岡野は茨城県にある保護施設に送られた。

 二ヵ月後、岡野は草加の豊田を連れて保護団から逃走して、豊田と共に私を頼ってきた。それ以来。岡野が堅気になるまで岡野と豊田そして私の友情は固く結ばれていた。豊田は住吉会高橋組の豊田組長であり、岡野は元稲川会相之川一家の岡野組組長であった。

 何かの折、岡野は私が浦和少年鑑別所で何をしたか、つくづく話した。

 「兄弟、浦和鑑別所で課長に締めれた時、兄弟はキリストの言葉を知っているのかと思った。キリストは右の頬を打たれたら左の頬を出しなさいと言っている。今になり、あの当時、兄弟がキリストの言葉を知っている訳がないと思うと、兄弟に凄さに魂消たよ」

 私は小学五年の時に、女の子を虐めている同級生を見て、女の子を助けようとして女の子を引っ叩いていた板倉を引っ叩いてやった。

 それを見ていた宮川元帥を言うあざ名が付いている軍隊帰りの先生から、革のスリッパで嫌になるほど引っ叩かれた。それ以来、先生に対する不信感が出来、勉強は大嫌いになった。只、剣道だけは誰にも負けたくないという気持ちがあり、一意専心して励んだ。喧嘩は腐敗神話を創っていた。

  不良少年・愚連隊・ヤクザを重ねて五十年、思い起こせば感慨深いものがある。それぞれ脳裏の深く刻み込まれている。

  特に、この年の十一月に同世代である山口二矢が、社会党の委員長である浅沼稲次郎を刺殺した事件は思い入れ深き事件として、脳裏に刻み込まれている。

 この事件を知り、同世代でもあった山口二矢に共感できた。

 千早ぶる神の大御代とこしえに仕えまつらん大和男は

 一七歳の少年がこの歌を詠みこの歌を詠みながら浅沼委員長の左わき腹を刺し更に、短刀を水平に構えて左胸に差し込んだのである。

 山口は東京練馬少年鑑別所で独房の壁に歯磨き粉で右翼としてのメッセージを書き残した。

 「七生報国・天皇陛下万歳」

 そして、シーツを破いて鉄格子に下げて自分の首を掛けて縊死したのである。

 従って、山口の勇気と潔さは後年やくざとして生きてきた私の心の中に何時までも忘れられない思い出であり、影響力を与えたと自覚している。  (続く)

著者:六天 舜

六天舜オフィシャルウェブサイト

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僕の過去は、「阿修羅のような生き方」という以外表現する事ができません。

その所為で刑務所生活を何年も強いられてきました。

僕にとって最後の刑務所生活は12年という長い懲役を受け、東京拘置所では4年間「接見禁止」という仕打ちを受けました。

誰とも話せない4年間というのは僕にいろいろな勉強をさせてくれました。

僕は、神や仏は信じていない「無神論者」ですが、先祖や神仏を「敬う」ことにはとても良いことだと思っています。

それは、お寺にある仏像などではなく野に咲く名前もわからない花を見て「綺麗だな」と感動する心、即ち自分が持って生まれた

「善性」が「仏性」であると考えています。

僕も動植物も、地球上で生きとし生けるもの全ては、大自然の恵みを受けて生かされているのではないでしょうか?

よって、僕が信じているものは大自然即ち「天」なのです。

天に恥じないように生きるというのが僕の生き方であり、自分に恥じることは行わないということにも通じます。

天を信じ、自分を信じて毎日を精一杯生きていれば、自分の「死」が訪れた時に後悔することは無いと確信しています。

六天 舜