記憶って何だろう。
なぜ人は記憶するのだろう。
同じ時期のことでも、記憶が鮮明な場合とあいまいな場合があるのはなぜだろう。
幸せな記憶も辛い記憶も、同じように心に残り、時々取り出して見つめてしまうのはなぜだろう。
記憶は人生に何をもたらしているのだろう・・・。
テキストはもちろん、映像や音などあらゆるデータがデジタルで記録されるようになって、記憶にまつわることが大きく変わった気がする。
大学を卒業するまでの僕の姿は、モノクロを含めた100枚に満たない写真とわずかなフィルム動画にしか残っていない。
おそらく最近生まれた子どもたちは、スマートフォンや撮影用のガジェットによってより手軽に撮影ができることから、遊んだり走ったり笑ったりする様々な姿が、親や周りの人達の撮影する動画と静止画といったデジタルデータとして膨大に保存され、いつか本人がおとなになった時には、まるでそこにいるかのように鮮やかな自分の過去の姿を、いつでもどこでも取り出して観ることができるだろう。
やがて将来的には技術の進化に伴い、撮影という行為も必要なく瞳と耳が捉えた情報がそのまま記録媒体に転送され、データを映し出すデバイスも3Dが当然となり、あたかもそこに記憶した頃の様子全てがリアルにそのまま再現される・・・そんなことが現実になるのかも知れない。
そう考えると、これまでも記憶というものの在り方そのものが、こういった技術の進化に伴って大きく変わってきたのだと思い知らされる。
現に、僕がこのブロマガや書籍で描いてきた「Xという物語」については、僕の記憶以外に目で見ることのできる資料やデータはごく限られたものだ。
だからこそ、僕の書く文章は僕自身の記憶がとても大きな役割を担っているわけで、もしも30年前のメンバーやファンの様子が鮮明なデジタルデータとして膨大に存在していたら、僕が文章を書く役割は相当変わっていたはずだ。
そう考えると、30年前の記憶を文章にするという行為は、大きな責任を伴う行為なのだと改めて思わざるを得ない。
ただ、記憶というのは鮮明なデジタルデータと違って曖昧である分、良いところもある。
それは、想い出す人間の気持ちや感情によって、現実に何らかのフィルターがかかるところだ。
そのフィルターによって、記憶は写真に対する絵画やアニメーションのように、実際よりも少し誇張されたり美的な効果が施され、結果として芸術作品のように観る人聴く人読む人に、夢や幸せを与えることができる。
それに何より記憶には、想い出す人の気持ち次第で現実にあるとても大切なものが付加されて再現される。
それは「愛」だ。
世の中に流布されて多くの人の涙を誘う、大切な両親、こども、あるいはペットとの記憶に基づくストーリーには、紛れもなくそこに「愛」が付加されている。
ストーリーを心に落とした人たちが泣くのは、そこに「愛」が含まれているからだ。
きっと、記憶にはデジタルデータにはない、何か別の力があるのだと思う。
先ほど書いた通り深く責任を感じているので、僕は「Xという物語」について書く時、当たり前だけれど決して嘘やあいまいな記憶は書かないように気をつけている。
その代わり、少し記憶が曖昧な時には記憶をそのまま書かずに、その時の僕自身の気持ちや想いを書くという風に表現方法を変えることはある。
気持ちや想いは絶対に変わらないから、安心だ。
そうして文章を書き進めていくと、逆にその気持ちや想いが誘発して、全く忘れていた別の記憶が蘇ったりする。
記憶の持つ、不思議な力だと思う。
例えば・・・。
1989年に行われた「Rose & Blood Tour」で名古屋へ行った時、ライブ後の打ち上げで二次会に繰り出す際、プリンセス大通りを歩いていたHIDEが「僕のぼうし〜」と歌い出した話は、過去にも文章にしたことがある。
その時、HIDEが歌いながら手にしていた帽子はツバの広い黒い帽子だったのだけれど、その次の店がどこのどんな店だったのか、どうしても思い出せない。
思い出せないけど、歌うHIDEの姿がピュアな少年のようだったことが幸せだから、お店の記憶は諦めてその代わりにHIDEを想う気持ちを文章にしようとする。
そしてぼうしの歌を歌うHIDEの姿を心の中で反芻していると、突然蘇るのだ。
コメント
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津田さん 素敵な文章を
ありがとうございます!
津田さんの記憶にある知らないXの
面々を教えてくれて、ほんとに嬉しいです♡*゜
Hideちゃんの帽子の歌を
今度 ピアノで再現して下さい
ペコリ(⋆ᵕᴗᵕ⋆).+*
きっと 天国でHideちゃんが苦笑いしてますよね(ノ∇≦*)(*ˊᵕˋ*)♪
いつも 素敵なブログに感動です。
マロンより