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「サントス・リペスケル」って誰?

2018/01/14 10:45 投稿

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サントス・リペスケルはアルゼンチン共和国サンタ・フェ州ロサリオ市出身(1918年10月10日生誕~1978年6月30日没)のオルケスタ指揮者・クラリネット奏者・バンドネオン奏者・サクソフォン奏者・複数ジャンル作曲者・音楽プロデューサー・ミュージシャン育成者。本名「サロモーン」。アンドレー、ヴィンセント・モロッコ、ヴァレンティノ、ロイ・ベスト、チコ・メンドーサ、パスカル・ヴァレンティ、ガスパリーン、ジャン=ピエール、ロナルッ・ボン&ハシント.W等の芸名を用いた。

 ロサリオ市で帝政ロシア支配下のオデッサから移民したユダヤ系夫妻、ホセー・リペスケルとアナ・ドビンの間に6人兄弟の4男として生まれる。全員幼くして音楽教育を受け、うち4人-フェーリス、レオーン、フレッディ、サントスがプロになった。教育は過酷で機械的かつスパルタであり、近所でも有名であった。

 サントスは少年楽団のクラリネットから音楽を始めた。若干12才で自分の個性を反映したオルケスタ団体「パラティーニ・ロマーノ」を結成。1934年、兄レオが獲得した別のオルケスタ団体のバンドネオン奏者ペドロ・マッフィアと協働する機会を得て、彼からバンドネオンの演奏技術を学ぶことが出来たのは大きな幸運であった。これが無ければ彼が有名で成功した演奏者となり、多彩な楽器を正規教育無しで操る事など無理であったろう。
 時は流れ、サントスはJazzとシンコペーション、特にサクソフォンに傾倒し始める。それはタンゴを疎かにする程だったが、完全に放棄はしなかった。1939年、ピアノ奏者セバスティアーン・ピアナ、前述のペドロ・マッフィア、ギター奏者アベル・フレウリイとコントラバス奏者アルフレード・コルレトと歌手アルベルト・ゴーメスの5人と悲情系ミロンガを軸に活動する楽団を結成。

 1940年代、ブエノスアイレスのパレルモ宮殿を本拠地にしていたサクソフォン奏者サム・リーベルマンの主宰するJazz系オルケスタ団体を吸収合併。以来、サントス自身は再び本職クラリネットを担当しつつ流行に追いつくため高音Saxoもプレイした。彼は自身多くのポジションを経験したが、同時にその万能さは他の楽団からも好評で、エドゥアルド・アルマーニ、ルディ・アジャラ、ロベルト・セーサリ、ロス・コットン・ピッケルス・デ・アウメッ・ラティプ、ラ・ジャズ・カジノ、ルディ・マチャド&ルイス・ロレロ、その他多数に招かれ共演した。

 1950年代。サントスはラジオ局「エル・ムンド」に腰を落ち着け楽団を指揮運営。そして別の局、より風通しの良い「カナル9」へ移籍。このラジオ時代に彼はサインによる無言の演奏指揮力を非常に高め、自分達の看板番組を動かせる主導権も持っていた。1967年1月5日から1969年までカナル9でTV放送された「土曜日が終わらない」という番組では特に音楽面で強い監督力を保持。1965年にアントニオ・カルリソ、1966年にエミリオ・アリニョと同時代の最も人気の高いニューウェイヴ系歌手も視聴率アップに貢献。競合番組「氏族倶楽部」さえも凌駕する豪華な顔ぶれであった。

 やはりカナル9の人気番組であった「エル・エスペシアル」でも同様の工夫が見られた。パンチョ・ゲッレーロの音楽監督&ホセー・シブリアーンの指揮、さらに映画スターであったパウレッテ・クリスティアンとバレエ界のベアトリス・フェッラーリの出演も実現している。 1966年に入るとカナル9内でのサントスの指揮する音楽番組は更に増えた。スペイン出身のデュオ「ピリ&ミリ」、アルベルト・アデジャチ脚本構成の笑劇「ピリミリビム」などは、放送期間も再放送も少なく今となってはレアである。米国人ニール・セダカ監修及びブラッキイェの指揮・制作番組のほか、「ブエノスアイレスの聖レモ」はピンキイ指揮&アリシア・ノルトン作詞、ウィルフレード・ノルラーン音楽監督、アレハンドロ・ドリア製作にくわえイタリア人歌手ミーナの出演など極めて豪華であった。

 作曲者としてのサントスは数百曲を残している。タンゴに関して歴史的に有名なのは悲嘲系タンゴ「ボレロ」、1947年レイナルド・ジソ(※ブエノスアイレスっ子の世代的断絶への反抗を盛り込んだ)作詞、オスヴァルド・プグリエセ楽団演奏とロベルト・カナル歌唱もあり大ヒット。1953年に人気詩人エークトル・ガフリアルディの作詞で完成した「欲望」は率直に言えば、貧困地区について語る交響曲と表現できるだろう。1938年に旧友ペドロ・マッフィアとも協働歴のある歌手マルティーン・ポデスター作詞で完成した「数々の悲しみ」は知識人向け浪漫タンゴ。このように指揮者である一方、楽団内の多くの同僚の助けを得て作曲を完遂した。「単なる言の葉」は1940年にカルロス・バアル作詞で完成した。

 レイナルド・ジソとの共作「街角の偉丈夫」は1948年作の悲劇性タンゴであるが、歌詞はフアン・ドミンゴ・ペロン政権のイタリア系移民の悲哀を過剰に強調した、政治的宣伝に使用され評判は良くなく、第2次大戦後のひどい財政破綻を隠蔽し国を美化した作品と見られている。1955年の「貧民街区のコンシエルト」はヴォーカル無しのインスト曲。1956年から制作が始まった「ペティテロ」、いわゆる戯画的かつ罵倒的に時代と流行を風刺あるいは批判する作品であるが、これにはオルケスタ楽団持ちのフアン・ダリエンソ演奏&収録、美丈夫のサンタ・フェのプチ・カフェ及びカジャオの主演で完成した。

 他ジャンルでは、ボレロ、クンビア、ヌエヴァオレロ系の曲「一体何の為に」、1948年の国家の難局を歌った「アルゼンチン人である事に福音を感じる。さらなる美と幸あふれる国に生きる」等のヴァルスがある。ディヴィトへのオマージュを捧げた曲「ディヴィト・ブーギェ」については、ディヴィト氏がロス・コットン・ピッケルスの翻訳カヴァーやボカ・ジュニオルスの公式行進曲の作者、「リコ・ティポ」なる社会現象の生みの親である理由から有名だ。

 1957年、御笑い芸人アルド・カッマロータと役者・物真似芸人デールフォル・アマラントの人気漫才番組の為に作られた曲はラディオ・スプレンディッの「ラ・レヴィスタ・ディスロカーダ」で放送された。「エル・タンゴ」の呼び声もあったハコボ・ゴーメスが繰り返した唱えた訴えの歌詞「頼む事さえ出来ないのか」は、自分の娘がユダヤ人であるために結婚できない絶望性を描いた。しかし最終的には超宗教的に認められる結末を盛り上げる装置となっている。1920年代以来欧州から来て間もない、イディッシュ話者系ユダヤ人ネタの御笑いタンゴがヒットしており、このみっともないジャンルの跳梁跋扈を食い止める他の強力な音楽もまた足りていなかった。

 サントスはその場その場で必要とされる曲を完成させる為に、自分の楽団のメンバーに離合集散を繰り返し起こした。「偉大な実績を持つ」と大ウソを吹いて募集してきた男や、音楽的評価が低く超一発屋であろうとも現時点でヒットしていれば商業上戦力になると判断し採用した。例えば、アンドレーとその仲間達(タンゴとフォルクローレに特化)。音楽水準が間違いなく高かったウバルド・リーオ&ダンテ・アミカレッリ。ヴィンセント・モロッコと彼のオルケスタ。ブラジルを題材にした多彩で完成度の高い曲をヒットさせたマラカンガーリャ。ジャズ系ジャンルの制作に定評のあった「ジョニーの小闘士達」。「トゥルルー小夜曲楽団」などである。

 G.Gとゴー・ゴーは、とても長い曲「ボレロスとGo-Go」を制作。オルケスタ学習塾A.マティアスとそのSaxoは「渚の眠気」を複数ヴァージョンで出して成功を収めた。アパチェ。ロス・クラウディオス。御悪魔達。オパンチョの旦那。ルチョの旦那とアメリカのリズム。ガストーンとその仲間達。バンダ・エスパーニャ。ロス・カンドンベロス。チコ・メンドーサ。御港のカルテット。ガスパリーンとその仲間達。ジョージ・ベスト。ロイ・バクスターと五人組。ヴァレンティノとトロピカル・バンド。ロナルド・ボン。煙草のミュージカル。L.Sとその仲間達。メチコロ。ラフエンテとその仲間達。パスカル・ヴァレンティ。ジャンピエール。オルケスタ・ロス・マドリレーニョス。よく焼けた7つのリズム。マリンバ・ソノラ。ロス・ケルビネス。ロス・ロッケルスとトリーオ・バルヴァネラ。

 疑いなく音楽的才能に恵まれていたサントス・リペスケルは、経済的な大胆さも危険性も持ち合わせており、稼いだ金の大半は即時に浪費してしまうクセが治らなかった。ルイス・ルビステイン並みのパンタグルエルである彼は、大ヒットが出る度にウルグアイのモンテヴィデオに船出に出て、貸し切った行きつけのレスタウランテで豪勢な祝勝会を毎回のようにやりまくっていた。





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