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[記録に見る第二次大戦]原子爆弾の誕生と投下決定 後編

2015/05/26 16:42 投稿

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前回からの続きです。

1945年5月、ついにドイツが降伏し、残った枢軸国は日本のみとなりました。連合国による本土空襲の激化と、4月から続く沖縄戦での連敗を味わった日本は、本土決戦を準備しながらも、ソ連仲介による和平への道を模索していました。しかし一方、これまで日本に対して中立を保っていたソ連側は、ヤルタ協定を受け、対日参戦する方針を固めていました。
米国による原爆開発は、この間も着実に進められ、完成が間近に迫っていました。


□史上初の実験が成功
1945年7月16日、ニューメキシコ州のアラゴモードで史上初の原爆実験が成功しました。
真昼の太陽が数個も並んだ明るさに匹敵する巨大な火の玉が生じ、高さが四万フィートにも達するキノコ雲が発生、その威力はTNT火薬一・五万トン以上にも達すると推定された。

ー 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中公文庫刊 
  著:油井大三郎/古田元夫 
4万フィートは約1万2千メートルで、エベレストの山頂(8千848メートル)を超える高さです。爆発の規模と周辺に及ぼす影響の範囲が伺えます。

実験成功の知らせをポツダムで受け取った米国のトルーマン大統領は、にわかに元気づきました。1945年7月18日の彼の日記には、「ロシアが参戦する前に日本は倒れると確信。マンハッタン計画が日本の本土に出現すれば、そうなるのは確かだ」と書かれていました。


□莫大な力を手にしたら・・・
原爆実験が成功したあたりから、トルーマン大統領は以前ほど熱心にソ連の対日参戦を求めなくなり、また、その態度は強気に転じました。トルーマンの姿勢の変化には英国のチャーチル首相も気付き、
「これ(実験報告書)を読んだ後で会議に出たトルーマンは、まったく別人のように変わっていた。彼はソ連に対して――イギリスに対しても、というべきであったろう――指図めいた発言をし、会議全体を牛耳った」

―前掲書
という感想を書きました。

強気になったトルーマンでしたが、ソ連にまったく知らせないで日本に投下することにはさすがに躊躇したのか、1945年7月24日の会談のあとで、

「われわれは異常な破壊力を持った新兵器を完成した」

と、それとなくスターリンに伝えました。これに対し、スターリンは、

「それは結構なことです。日本に対して有効に使用するよう望みます」

と、トルーマンにとっては意外と思えるほどあっさり答えたそうです(セリフ出典:シャーウィン、加藤幹雄訳 『破滅への道程』)。このスターリンの平静さは、原爆の威力を知らないためではありませんでした。

スターリンは、ロンドンに亡命していたドイツ人科学者K.フックスからの情報を得て、原爆実用化の可能性を確信していました。米国に比べて遅れてはいましたが、この頃、ソ連でもすでに原爆開発を推進していたのです。研究所を設置して、資金に制限を付けずに開発を急がせていました。トルーマンの話を聞いたあと、スターリンはただちにソ連の原爆開発責任者であったクルーチャトフに、開発を急ぐよう指示しました。

科学者たちが憂慮していたとおり、米ソ間の核軍拡競争の幕が切って落とされようとしていました。ソ連が原爆開発に成功したのは、戦後1949年になってからのことでしたが、それ以降は米ソ間の核軍拡競争が展開されました。


□対ソ交渉、和平は蜃気楼の如く
1945年5月半ばから、日本政府と軍部は一致して対ソ交渉を進めようとしていました。軍部が対ソ交渉に反対しなかったのは、ソ連参戦の防止こそが本土決戦の不可欠な条件であったためです。交渉内容の原案作成は東郷茂徳外相が担当することになり、交渉人には当時有数のソ連通であった広田弘毅元首相が選ばれました。

こうして6月3日、対ソ交渉として「広田・マリク(駐日ソ連大使)会談」が開始されるに至りました。ただしこの時期になると、東郷外相や外務省員をはじめとする推進者たちにも、ソ連を仲介とした和平がかなり困難であると認識されていました。

広田・マリク会談:
マリク大使は、東郷外相に交渉の具体案を作成するよう要求しました。東郷外相が作成した案は次のとおりです。
日ソ両国間に長期にわたる東亜平和維持のための相互支持および不侵略にかんする協定を締結することを本義とし、右につき、

(一)満州国の中立化、
(二)漁業権の解消も石油の供給があれば辞するものではない、
(三)その他ソ連の希望する諸条件についても論議してよい、

日本の歴史25 太平洋戦争』 中公文庫刊 
  著:林茂 
6月29日、広田元首相からマリクにこの案が渡されました。マリクはこの案を本国にとりつぐことを承諾し、回答が到着し次第、さらに会談にはいろうと答えました。

しかしその後、広田の再三の会談申し入れにたいし、マリクは病気を理由にこれに応じませんでした。日本政府は、ソ連側がこの提案にきわめて消極的であることを感知しました。追い討ちをかけるかのように、この頃、日本軍の沖縄守備隊が全滅し、戦局の悪化は加速していました。

近衛特使の派遣:
戦局が刻一刻と悪化する中、国内での広田・マリク会談がすすまないのを見て、東郷外相は対ソ特使の派遣を決意しました。東郷外相は、特に米、英、ソの三国ポツダム会議に先立って和平工作をを進めようと、鈴木首相と協議し、1945年7月8日には近衛文麿元首相に特使に就任するよう依頼し、内諾を得ました。7月12日、天皇陛下から親しく命を受け、近衛が正式に特使に就任しました。

派遣に臨む近衛の意向は、次のとおりだったようです。
近衛の意向は、

無条件降伏以外には戦争終結の道は無い、また名誉ある講和、交渉による講和はもう手遅れだ、モスクワに行ったらソ連にたいしてなんらの条件も提示せず、スターリンと話し合って決めた条件を直接電報で天皇に伝えて、勅裁を仰ぐ決意であり、訓令も不要であり、白紙で臨みたい、

ということであった。

かれは、
「このことを特に陛下からお許しを得た次第であった」
と述べている(近衛文麿『失われし政治』)

―前掲書
1945年7月13日、佐藤尚武駐ソ大使は近衛特使派遣を申し入れるため、ソ連のモロトフ外相に面会を求めました。しかし、モロトフ外相はベルリンへの出発をひかえ多忙で会見できずとのことで、ロゾフスキー外務人民委員代理に面会して申し入れました。

7月18日になって与えられたソ連側の回答は、
「日本の提議が具体的でなく、近衛特使の使命がはっきりしないから諾否を答えられない」
というものでした。

7月21日、東郷外相は佐藤駐ソ大使に
「近衛特使派遣の目的が対米英和平(無条件ではない)の斡旋をソ連に依頼し、日ソ関係の強化にかんする事項を商議しようとするものである」
とソ連側に伝えるよう訓電しました。

ところがこの電報は、7月24日にようやく佐藤大使に到着し、佐藤大使がロゾフスキーに伝達したのは翌7月25日でした。そして時すでに遅く、翌7月26日、日本に無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」がとうとう発表されました。

ソ連当局の真意:
トルーマンの通訳ボーレンによれば、7月18日の会談の席上で、スターリンは近衛特使問題にふれ、トルーマンに次の旨を述べたようです。
「日本を安心させて眠りに誘っておくため、近衛公を特使として出すとの提案の内容がよくわからないことを指摘して、一般的な具体性のない返事をしてもよい、
さもなければ、それを無視して返事をださないか……」

―前掲書
トルーマンは最初の案がよいと答えたそうです。この時点で、ソ連側は対日交渉に応じるつもりはなかったのです。外務省のソ連にたいする期待は、希望的観測にすぎないものでした。


□「ソ」の署名なきポツダム宣言
「ポツダム宣言」の発表を受け、軍部は鈴木首相に対し、「この扱いは前線(日本軍の兵士)と銃後(前線にいない日本国民)の士気に関係する(ため、容易に受け入れるべからず)」と強く迫りました。結果、7月28日の記者会見で鈴木首相は、「ポツダム宣言」を「黙殺」する旨を述べました。これが、「ポツダム宣言」に対する日本政府の初の公式見解の発表でした。

鈴木首相の記者会見での発言は、次のとおり記録されています。
「私は三国共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としてはなんら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである」

ー前掲書
1945年7月26日に発表された「ポツダム宣言」には米、英、中華民国の名前はあっても、ソ連の署名がありませんでした。このことから、日本政府は宣言の発表後も対ソ交渉に期待をかけていましたが、一向に進展しませんでした。7月30日、佐藤中ソ大使は、
「スターリンは米英がポツダム宣言を一歩も譲歩しないであろうと判断しているらしく、そうであればソ連にとっては今日本と協定をなす必要はまったくない。それゆえ近衛特使問題はほとんど実現不可能であろう。また、そもそもポツダム宣言自体が日本の対ソ交渉を失敗さすために行われたものと思われる」

―前掲書
という報告を東郷外相あてに送りました。それでも東郷外相は、佐藤大使に「なお一層、対ソ交渉に努力する」よう要請しました。

8月1日には加瀬俊一スイス公使から、8月4日には佐藤駐ソ大使から、「ポツダム宣言」受諾の勧告が東郷外相に提出されました。

加瀬公使は、
米国が対ソ関係から事実上の緩和をしても早期対日和平を望んでいる

ー前掲書
として、また佐藤大使は
ソ連の仲介により条件が緩和する見通しはない

ー前掲書
として、それぞれ意見を述べました。しかし国内では、鈴木首相は軍部の意向を受け入れ強気一点張りの発言をするばかり、東郷外相は対ソ交渉に没頭するのみで、宣言受諾はまったく考慮されていませんでした。


□原子爆弾落下す
政府首脳部が空しくソ連の回答を待っていた1945年8月6日の朝、一度出された空襲警報が解除され、市民がそれぞれの生活にもどったときのことです。二機のB29戦闘機が広島市上空に姿を現しました。ラジオでは「偵察らしい」と放送されたため、人びとは防空壕へ避難しようとはしませんでした。

朝8時15分、落下傘で投下された原子爆弾が、広島市中心部にあった病院上空570メートル前後で爆発、ものすごい閃光を発し、「直径百メートル、表面温度九千~一万度の大火球」となって、広島市を一瞬のうちに飲み込みました。そのあと、不気味なキノコ雲が一万メートルの上空にまで巻き上がりました。

無警告に、かつ老人や幼児の多い市の中心部で投下されたため、驚くべき数の死傷者がでました。特に爆心地から半径五百メートル以内の人びとは、ほとんどが即死しました。市内の生き残った人びとは爆風で地面に叩きつけられ、閃光を浴びた皮膚は、顔といわず手足といわずベタリとはげ落ち、やけどやガラスの破片などで全身血まみれになりました。


□トルーマンの声明と日本の反応
混乱が収まらぬ翌8月7日朝、トルーマンは声明でこの爆弾が「原子爆弾」であるとし、続けて
「われわれは今や、日本国内のどんな都市の機能でも、さらにあますところなく迅速かつ完全に抹殺する準備を整えつつある。われわれは日本中のドックといわず、工場といわず、交通網といわず吹きとばすだろうし、疑いもなく日本の戦争遂行の能力を根こそぎ粉砕するだろう」

―『太平洋戦争秘史』
と述べました。原子爆弾が日本政府に与えた衝撃はすこぶる大きく、東郷外相や近衛元首相、木戸内大臣などは、戦争をすぐにでも終結すべきとの考えに至りました。一方、陸軍首脳部は、未だ戦争終結を考えないどころか、より頑固に本土決戦を主張するようになっていました。


□それから
1945年8月8日、午後5時のことでした。交渉についての回答を得るため、佐藤駐ソ大使はソ連のモロトフ外相を訪ねていました。ここにきて、モロトフはようやく、ソ連の公式な回答を伝える旨を示しました。佐藤大使が受け取ったのは。。


[参考にした図書]

コメント

(著者)
No.26 (2015/06/01 20:51)
ロランさん、

連絡ありがとなのぜ! 1ヶ月後の新たな記事待ってますのぜ! いつでも好きな時にコメントくださいのぜ!
ワイも、写真を使う時には気を付けますのぜ。
トレーシー
No.27 (2015/06/12 02:02)
ただの破壊、ただの災厄、ただの殺戮、そこには戦いの美学なんてまるでない。
まあそんな軍事ロマンチシズムの入る余地がないような兵器だから抑止力たり得たのかもしれませんが
(著者)
No.28 (2015/06/14 22:52)
トレーシーさん、

コメントありがとですのぜ!
現代の職場で無理に例えるならば、敵対する人物の超重要書類の上に酔ったおっさんの吐しゃ物を撒き散らすような感覚やろかね? クサイし、後始末が大変やし、仕事どころじゃないよ~勘弁してくれよ~せめて議論で決着付けようよ~みたいな。。
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