じゆうちょう

[記録に見る第二次大戦]原子爆弾の誕生と投下決定 前編

2015/05/22 10:24 投稿

コメント:16

  • タグ:
  • 記録に見る第二次大戦
  • 原子爆弾
  • 原爆
このカテゴリでは、第二次大戦を振り返ってみます。今回のテーマは原子爆弾です。いつ作られ、どういう経緯で日本に投下されたのでしょうか。


□ドイツ、続いて米国で核分裂の実験が成功
大戦直前の1938年12月、ドイツの研究所で、核分裂によって莫大なエネルギーが発生することが実証されました。翌年1939年3月、同様の実験と実証が米国コロンビア大学でも為されました。これは、火力に替わる新たな発電方法の基になると同時に、恐るべき兵器にもなりうる発見でした。

米国コロンビア大学で実験を成功させたのは、ナチス政権の成立直後にドイツから亡命した物理学者レオ・シラードでした。シラードらは、「ナチス・ドイツが核分裂を利用した爆弾の開発に成功した場合、人類の生存が脅かされる」と考え、同じくドイツから米国に亡命していた物理学者アインシュタインに働きかけて、「ドイツに先行して米国が原爆を開発する」よう、ルーズベルト大統領に進言させました。


□ドイツの脅威に構える米英
1939年の開戦六週間後、進言の手紙がルーズベルト大統領に届きました。手紙には次のように、ドイツの原爆開発を示唆する内容が含まれていました。
「この種の爆弾一個を船で運び敵港湾で爆発させれば、港全体およびその周辺地域の一部を壊滅させることができる」

「ドイツはすでにチェコスロヴァキア占領地域からウラニウムの移出を事実上禁止した」

― シャーウィン 加藤幹雄訳 『破滅への道程』
進言を受け、米国で原爆の実用化が可能かどうかが調査されました。技術開発に莫大な費用が掛かることが予想されたことから、米国での開発は一時凍結されることになりました。

一方、ドイツと直接交戦していた英国は、原爆に対し、米国よりも切実な関心を寄せていました。委員会を設けて調査を重ねた末の1941年初夏、英国から米国の国防科学委員会に、「二年以内の実用化」を示唆する報告書が提出されました。


□史上最大の軍産学協同プロジェクト「マンハッタン計画」
報告書を見たルーズベルト大統領は1941年10月、英国チャーチル首相に原爆の共同開発を提案し、合意を得ました。この上に、日米開戦による米国の参戦が決定したため、米英共同による原爆開発のスピードが上昇しました。

1942年8月、米国側では陸軍省を所管とする軍産官学共同の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」が発足しました。マンハッタン計画は、3年間で20億ドルもの予算が投入され、12万人もの科学者や技術者が動員された、文字通り史上最大の軍産学協同プロジェクトになりました。


□学者の不安と政治の対応
核物理学の常識からすれば、原爆製造の理論や技術は早晩ソ連によっても独自開発されるのが明らかでした。核物理学者の間では、原爆情報の米英による独占がソ連の不信感を招き、将来、際限ない核軍拡競争が始まることを恐れる声が高まりました。

相互不信感による核軍拡競争を抑止するためには、むしろ米英が率先して原爆開発計画をソ連にも通知し、戦後に核の国際管理体制を築いたほうが世界平和に役立つ・・・と、核物理学者たちは考えました。

デンマークの理論物理研究所の所長であったニールス・ボーアは、核の国際管理案を最も熱心に提唱した一人でした。ボーアは、米国の最高裁判事で、ルーズベルトと親交の深かったフェリックス・フランクフルターの仲介を得て1944年8月、ルーズベルト大統領に直訴しました。

ルーズベルト大統領はボーアに、翌9月に予定されていたチャーチル首相との会談で協議することを約束しましたが、原爆情報の対ソ提供には否定的でした。それどころか、9月19日に交わされた米英首脳の覚書では、「ボーア教授がソ連に対していかなる情報も漏らさないような措置を取るべき」ことが合意されました。


□原爆投下対象日本に決まる
ボーア教授についての合意もなされた1944年9月19日の米英首脳の覚書には、もう一点注目すべき合意が交わされていました。
しかも、この覚書の中では、「爆弾」が最終的に使用可能になった場合には、「熟慮のうえ、日本人に対して」事前通告してから使用することも合意された。

― 世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ 
    中公文庫刊 著:油井大三郎/古田元夫
原爆開発は元々、ナチス・ドイツによる開発の脅威から始まったものでしたが、この時点ですでにドイツの敗戦が目前になっていました。また、ドイツの敗戦までに原爆を開発させることは困難という見通しが立てられていました。当時の日本に原爆開発の能力があるとは米英も考えていなかったため、「核爆弾を先制使用される危険に対処する」という大義名分は、この時点でなくなっていたのです。

しかし、使用自体が断念されることはありませんでした。むしろ、「莫大な予算と人員を投入して開発した兵器を実戦使用するのは当然」とする意識が形成されていました。

1944年末になると、米国陸軍長官のもとに、「原子爆弾が翌1945年の8月には完成する」との報告が入りました。そして、ドイツ敗北直前の1945年5月4日には、実戦使用や戦後の核政策を検討するための暫定委員会が発足しました。

暫定委員会は、1945年5月末の会議で、次のことを決定しました。
  • 原子爆弾は、日本に対して早期に無警告で使用すること
  • 原子爆弾の投下目標としては「労働者住宅に囲まれた軍事工場」地帯とすること
軍事目標だけでなく、一般国民の戦意喪失を狙った決定となりました。

つづきます。

[参考にした図書]

コメント

(著者)
No.14 (2015/05/23 05:43)
ロランさん、

コメントありがとうですのぜ!

>自分は当時福島にいたので、
びっくりした、一瞬、終戦の頃から生きてる人かと思ったけど、3.11のことやね。 それは、大変やったね。 
福島も、必ず復興して良くなると信じますのぜ。広島や長崎がそうなったように。
トレーシー
No.15 (2015/05/24 21:38)
アメリカが大好きなわけではないし、風通しの悪い大日本帝国はなおさらごめんですが、
アメリカの手が入り生まれ変わった日本は住み良いじゃあありませんか。
好意的に受け取るならば、彼らは自国で実現できなかった理想の壮大な実験をしていたのかもしれませんね。
(著者)
No.16 (2015/05/24 22:34)
トレーシーさん、

同意ですのぜ! マッカーサーさんも、戦中、一度日本軍にフィリピンを追い出されながらも、戦後日本に好意的でいてくれて、とても良かったと思いますのぜ。
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事