あなたのいないその場所で。

基本的なドグマの確認。 その2

2018/09/02 21:46 投稿

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わたしたち人間は、なぜ自分に自信がないのだろうか。

意識が高い系でも良いし、tiktokでも良いのだが、自分/他人に言い聞かせたり、自分を他人に評価させたりする。

なぜ、意識高い人は自分を言葉に差し出し、SNSにハマる人は自分を他人に差し出すのだろうか。

ラカンは、この疑問にひとつの仮説を提案している。

ラカンは言う、「言葉」がそれらの犯人なのではないかと。

君に自信がないのは、「言葉」を使うからだと。

「言葉」が君にそうさせるのだと。

ラカンがこう言い切るのには理由がある。私たちは何かを考えるときに「言葉」を使わざるを得ない。そして困ったことに、自分自身=「わたし」について考えるときでさえこの「言葉」という怪物の胃袋を通過しないことには始まらない。

さらに言ってしまえば、

「わたし」とは、「言葉」のなかの一概念に過ぎないのではないか

「言葉」が、「わたし」を生み出したのではないか。

ラカンがイメージしているのは、こうだ。

「言葉」という大いなるものを通して、たとえばクラウドを使ったゲームの通信技術のように、「わたし」とはその時その時で、生成されては消えていくものに過ぎないのではないか、と。

私たちがそれなしでは生きられないであろう、「わたし」。それは、「言葉」という道具が使用者に与える一つの効果に過ぎないのかもしれない。

「言葉」に与えられた「わたし」を私たちは誰よりも慈しみ、時に憎み続けてきたのかもしれない。

ラカンは、「言葉」を、「大文字の他者」と呼び、「大文字の他者」が存在する場所を「象徴界」と呼んだ。

「わたし」が「言葉」の一効果でしかないのならば、みんなは「言葉」という大いなる父を持つ兄弟ということなる。それならば、怖いものなど一つもないのではないか。全ての「わたし」は神(言葉)のご計画の一部だ。何も不安になる必要はない。宗教、そしてナショナリズムにハマる人々のように。(大いなるものに「わたし」を囚われてしまっている妬みはあれども)

しかし、現実のクラウドゲームにもサーバーやラグの問題があるように、カルト宗教や独裁国家にも栄枯があるように、我らが父である「象徴界」も問題を抱えている。

その構造的欠陥とは、言われてみればごく単純なことだ。「象徴界」の外側がないということである。たとえば医師免許は国家が与えてくれるが、国家の資格を与えてくれるものはないように。(それが国連だとしても、その国連の資格を与えてくれるものはない)

「象徴界」を保証してくれる外側がないとしたら、何をもって私たちは「言葉」を信じることができるだろうか。「言葉」を信じることができないとすれば、いったい私たちは何を信じることができようか!

外側がないゆえに「言葉」は困難を抱えている。「言葉」のなかだけで全てを行わなければならないからだ。たとえばそれは、レゴブロックだけで名古屋城は表現できるが、レゴブロックだけでレゴブロックを表現することが非常に困難であることに似ている。もしくは、「その名古屋城がただのレゴブロックであり、本当の名古屋城はこうだ」ということをもレゴブロックで表現しなければならない困難に近いかもしれない。

「わたしが思うわたし」「恐ろしいと思うことが、恐ろしい」「自らを載せないカタログをすべて載せたカタログ」

さて、上記の文をどう考えるだろうか。同じ文のなかで二回「わたし」「恐ろしい」「カタログ」という単語を使っているが、果たして同じ「わたし」「恐ろしい」「カタログ」だろうか。

同じであ
るならば、自らを載せないカタログをすべて載せたカタログには、自分が載ってなければならないのではないか。しかしそれでは、自らを載せないカタログではない。「カタログ」という単語が指示する対象が別々だと考えればすっきりするのだが、ラッセルは指示対象の同一性を保ったまま階層を分けることを提案した。自己言及において同一性が保てないのであれば、言語の論理的正確性が破綻してしまうからである。

「私が見たことを私は見た」
という報告を基に科学は成り立つのであるから、前後者の「私」が別人であれば、デカルトよろしく実験の観察結果を疑わなくてはならなくなる。論理学者が探しているのは、後述するように真理を保証する「外側」なのだ。ラッセルは「外側」の代わりに無限に上昇し続ける上位階層への運動にそれを求め、フレーゲは現実との一致(真理値)にそれを求めた

上記の文は、ウロボロスの輪を構成してしまう。そうならないために、私たちはラッセルのように上位の存在を置こうとする。不毛な口喧嘩を終わらせるのは、いつも父や先生、そして科学、法律ではなかっただろうか。しかし、先生同士が喧嘩をしていたら?科学者同士が喧嘩をしていたら?憲法学者が、原発学者が、、、。結局は大きなウロボロスの一部なのではないか。

この屁理屈のような構造的欠陥が「象徴界」には致命的になる。繰り返すように、「象徴界」は「真理性」によって支えられなければならない。「言葉」は真理性を確保できると信じられているからこそ「わたし」=「主体」=「責任」が生まれ、そのおかげで法が存在可能であり、科学も然りなのである。しかし逆説的に考えれば、完全な論破ができない場合の方が多いからこそ、検察と弁護士のほかに裁判官という上位存在が必要なのであるし、科学は数字だけでは表現しきれないからこそπや√を使うのであるし、微積分が必要となる。

ラカンに言わせれば、論理学が現実と完全に対応した言語を求めること、科学が世界を語りつくそうとすること、それらがひとつの症状なのである。「象徴界の欠如の否定」。

ところで、さきほどから「言葉」「言葉」と連呼しているが、人間には明らかにそれ以前の段階があるのではないか。「言葉」によらない領域があるのではないか。

ラカンはそれを「想像界」と読んだ。あえて正確性を欠く表現をすれば、「象徴界」が三人称の場であれば、「想像界」は二人称の場のようなものである。

正確には「想像界」には第三者=「象徴界」がないのだから、「わたし」も「あなた」も存在しえない。「わたしにとってのあなた」「あなたにとってのわたし」しかない閉じられた二者関係の場として捉えてほしい。乳児にとっての母がそうであるように、天敵に出会い死線を繰り広げる動物同士のように。

後述する「対象a」は、まずこの「想像界」で生まれるのかもしれない。「想像界」はその名のとおりイマージュのみが浮遊する空間である。鏡のように。「あなたが笑えば、ぼくも笑う」「あなたが殺そうとすれば、僕も殺そうとする」。

「想像界」はお互いがマウントを取ろうとし続け、快不快を押し付け合い、愛憎まみえる世界である。お互い自分に都合の良い像を相手に映そうとするからだ。相手を動かし、相手に動かされる。

いったんここで考えたいのは、そもそも自分に都合の良い像とは何だろうか。乳児にとっては、衣食住や安心感を与えてくれる存在がそれであろうが、成人においてはその限りではない。「享楽」を求め始める。何かを恋い焦がれ始める。

まず乳児は全能感に支配されている。その全能感は胎児の頃の名残りである。へその緒で栄養が補給され、すべての悩みが存在しないであろう母の一部であった頃。しかし一度分娩されてから成長していくにつれ、その全能感は現実世界に合わせて薄れて行くことになる。中2病や大2病等々を経て、世界(他者)が自分の思い通りに動かないことを学ぶ(現実原則/抑圧)。父の名としての「象徴界」が「想像界」に侵入するのである。

このとき初めて「享楽」が生まれるのではないのだろうか。逆説的ではあるが、享楽はそれを得ることを諦めたときにのみ生まれる。

ゆえに「想像界」だけならば、「享楽」は存在しないことになる。「享楽」とは、決して手に入ることのない彼岸にある快楽のことである。それと同時にラカンの言を借りるならば、「それがなければ宇宙がつまらなくなる」ものであって、人間の原動力でもある。

すぐに/いずれ到達できるであろう快楽は「享楽」にはならない。思い通りにならなかった経験が、後悔や挫折こそが、つまり「抑圧」が象徴界の助けを借りて「享楽」を生むのだから。アイドルやアニメキャラに憧れるのは、それらの舞台に学生時代が関係するのは、それが決して手に入らない快楽だからではないか(逆に現代社会にニヒリズムが蔓延するのは、手に入るもの/再生可能なものばかりだからではないか。物であれ情報であれ)。

「享楽」が「享楽」であるためには、主体は「享楽」を得ることを先送り続けなければならない。

さて、次に「享楽」とする対象の作り方である。何/どれを享楽とすればよいのか。さきほど見たように、自分の頭のなかにある到達可能な快楽イマージュをいくら押し付けたところで、「享楽」にはならない。人間が一番恋焦がれる「享楽」にはならない。

繰り返すように「享楽」を得るためには、相手を彼岸に置けばよい。遠くに置けばよい。しかし、「想像界」ではそれは適わない。「想像界」では、都合の良い≒知っていること≒到達可能な快楽を元にしか想像できないからである。それでは自分と「享楽」の距離が近すぎる。それなら、自分の外側にある「象徴界」を使えばよい!「言葉」を!

『「かわいい」/「男らしい」/「理想の生き方」が、あの人だ!!!』

ということにしてしまえば手っ取り早い。象徴界の助けを借りてイマージュを投影すればいい。「かっこいい」など説明できない、「女らしい」なんていくら聞いてもしっくり来ない、ならば「あれこそがそれだ!!!」としてしまえばいい。

こうして象徴界の助けを借りて創り出された、存在しない/経験したことのないイマージュをラカンは「対象a」と呼んだ。

この「対象a」というイマージュは釣り糸に下がってぷらんぷらんしている釣り針のようなもので、引っかかるきっかけさえあればどこにでも引っかかってしまう。引っかかった途端、「あれこそがそれだ!!!」と享楽像を被せて自分と周囲に言い聞かせ始める。

もちろん「あれこそがそれだ!!!」と言ったところで、それがうまく行くことはありえない。プラトンがメノンのパラドクスで言うように、正解を知らないものの正解を知ることは永遠に出来ないのだから。

いざ付き合ってみれば、思ったより「男/女らしくなかった」なんてことは日常茶飯事である。それは、彼/彼女が「男/女らしくなかった」というよりも、評価する側が「男/女らしさ」を知らないことに起因していると言える。「幸せ」も然り(ゆえに享楽を餌に資本主義は回る)。

しかし「対象a」は何も人々を「享楽」の森に迷い込ませるウサギというだけではない。なぜなら、この「対象a」を通して人々は象徴界を適切に受け入れること(社会の一員になること)ができるからだ。浮遊しているシニフィアンに具体的なイマージュ、つまり「生きた言葉」として命を吹き込むのは、他でもない「あれこそがそれだ!」の力なのだから。あなたは今、夢中になってるものを通して、何かを得ようとしているのかもしれない。何かを知ろうとしているのかもしれない。みんなに紛れる術を、みんなから浮き出る術を探しているのかもしれない。

「想像界」の欠如が、その外側である「象徴界」を要請し、「象徴界」の欠如が「現実界」を浮き彫りにする。

初期のラカンは、想像界と象徴界よりも先に訪れるもの、まず訪れるもの、として「現実界」を定義した。性に無知だったハンス少年が経験した勃起のように。

しかし、後にラカンは上述したような「象徴界」の欠如として「現実界」を記述した。それはつまるところ、どの網の目でも掬い取れない、語ることのできない場所を示したことであり、時間的順序は関係なく、どの時点においても存在し続ける暗闇が人間世界にはあるということを強調した形となった。

この暗闇が常に人間を揺らがせ、わたしたちを不安の底に突き落とすのである。

そしてその不安の底で「わたし」が目を覚ますのである。

ここで勘違いしてはいけない。「現実界」というものは、動物には存在しない。「言葉」を使うものにだけ訪れるのである。上述したように「象徴界」の構築を可能にする条件が人間にあったからこそ、「想像界」といった動物的世界が記述され、また「現実界」という記述不可能な領域が記述されたのだ。

ラカンが示すのは、「言葉」を手に入れたそのときから、「現実界」という底なしの暗闇から逃れることは絶対にできないということである。それをまず、受け入れなければならない。そしてそれこそが人間に底知れぬ不安を与え、「私」を得る喜びを与え、「享楽」を生み、冒頭で触れた何かに駆られる人々のように、人間をあらゆる方向へ突き動かし続けるのである。

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