あなたのいないその場所で。

凶悪犯罪が増えたのならば、道徳教育はしないほうがいい。

2016/10/17 21:16 投稿

コメント:3

  • タグ:
  • 哲学
  • 精神分析
  • 社会
  • 批評
  • 道徳
  • 犯罪
  • 攻撃
  • 炎上
  • twitter

メディアや年配の人が言うように、

昔と比べて猟奇的な犯罪が増えたとして書いていこう。

実際増えたかは私にはわからないし、もし増えていないのだったら以下の文章はただの詭弁となる。


さて、増えたとするならば、そこには原因を見出さなければならない。

一般的には、権威的なもの、たとえば神/親/先生などが絶対視されないようになり、法や倫理の拘束力が弱まったためだといわれている。

神が死んで、親が人生に迷い、教師の不祥事も明るみに出て、子どもを大切に扱えという過保護な言説もあいまって、世の中ゆるゆるになったということらしい。


ここから一歩進んで分析する必要がある。

それは、「死んだ権威はどこに行ったのかという問いである。

この問いを言い換えれば、

ほんとは死んだのではなくて、どこかに逃げ隠れただけではないか」となる。

そう考えるのは、どう考えても今の若者のほうが、礼儀正しくて、節度をわきまえていて、空気を読めるからである。大学抗争をやっていたり、尾崎豊に共感していたおじさん方が若者に情熱を語るならまだしも礼儀を語るのはあまりに滑稽といえる。

まとめよう。凶悪犯罪は増えている←→若者は大人しい。この対立をどう処理するか、という問題。

だからまず私はこう応える。「権威は死んだのではなくて、みんなの心の中に入ったのだ」と。

つまり、神/親/先生、はたまたメディア/政治家が役に立たないなら、僕らがしっかりすればいいじゃないというやつ。というか、それが民主主義でもある。

2chやTwitterの正義感による炎上を見ていても、メディアはクソ、政治家はクソ、警察はクソ、老害ばっか、「だから僕らが」論理である。

実際、けっこうな活躍をしている。それの是非はさておき、ネット住民にはネット住民なりの正義感がある。尾崎豊世代みたいに縛り付けるものをすべてぶち壊せではなく、きちっとした秩序を構築しようとしているように見える。とても真面目。

やっぱり、権威はみんなの心のなかに逃げ込んだのだと思うほかない。というよりも、絶対者がいない今、秩序を維持するため(=自分が生きるため)にはそれしかなかったのだろう。

ではなぜ、猟奇的犯罪が増えたのか(実際に増えたのかまだ疑問ながら筆を進めているが)。

それは、フロイトの攻撃性の仮説を参照するとわかりやすい。

フロイトによれば、道徳も攻撃性も同じ母親を持つ、兄弟のような存在なのである。その母親が「死の欲動(タナトス)」だ。

「死の欲動」については、「記録する時代。見せる時代。」も合わせて参照していただきたい。

簡単に言えば、①死の欲動は、1つのエネルギー
       ②外に向ければ、攻撃性に。
       ③内に向ければ、道徳に。

  上の補足、①死の欲動は、自己保存の欲求。
       ②身を守るために、他者を攻撃する。
       ③他者への攻撃をやめれば、自分を攻撃する。(=道徳心)

 これに従えば、とりたてて問題なのは、自己保存欲求の強さであって、他者を攻撃するか/自分を攻撃するかは、その次の段階の問題となる。

たしかに、道徳家というのは自分だけではなく他人をも攻撃する。道徳的なことに厳しい人が身近にいれば息が詰まるのは、誰もが納得することだ。完全な道徳的社会であるディストピアに暴力性や恐怖を感じるのもここからくると言える。

 
さて、最初の問いに戻ろう。なぜ、凶悪犯罪が増えたのだろうか。

それは、みんなが道徳的になったからだろう。

ネットによる炎上という正義が、しばしば行き過ぎるように、正義には攻撃性が常に孕んでいる。歴史的な弾圧/革命にせよ、しばき隊にせよ、である。

みんなのなかに権威が入ったからこそ、昔は神/親/先生に託していた道徳性と攻撃性を、みんなが溜め込み、時に発散しだしたのだろう。

こう考えると、普段は大人しい子が急にキレるのにも合点がいく。結局、大人しいのも、攻撃的なのもフロイトに言わせれば同じようなものだからである。

社会は成熟してみんな大人しくなった。若者は節制をし、社会秩序を遵守し、清く正しく生きている。しかし、清く正しく生きれば生きるほど、攻撃性のエネルギーを使用しているのだから、潜勢力として同時に攻撃性が高まってくる。

自分への攻撃がふとしたときに外に向けられてしまえば、猟奇的な大事件へと発展する。(礼儀正しさ/慎ましさが古来より売りの日本人には、特にこの死の欲動のエネルギーが強いように思われる。努力家が多いのも、戦争時に異常な強さを発揮するのも頷ける。)

アニメ『魔法少女 まどか☆マギカ』でソウルジェムが黒くなるのは、そこをよく描いていると言える。世の秩序のために力を使うほど黒くなっていく魂という矛盾。

だから、凶悪犯罪を減らすために「道徳教育をしっかりしろ」というのはお門違いだろう。むしろ、子どもたちには適度にハメを外すような機会、両津勘吉のように走り回り、遊びのなかで攻撃性を発散させる機会を設けることこそが肝要になる。

「死の欲動」とは、保守的で自閉的な力のことである。それに対向できるのは、「生の欲動」という開放的で自己破壊的な力である。他者(友人/恋人/大人)との間で起こる、敵対的交流こそが攻撃性を減少させる。

今よくある、空気を読みあうような友達、友達のような親、モンペを怖がる無難な先生、との交流はもってのほかである。他者ではないから。異質な存在との交流、それにより傷つき傷つけられることが、攻撃性を減らすことに繋がるのである。同属の人ばかりでいると、その連帯(=道徳)の裏で攻撃性が高まる。それがカルト/原理主義的な人々だろう。カルト/原理主義的な人々は極めて道徳的な人々といえる。

だから、相手を傷つけないようなコミュニケーションとかを学んでいるうちは、小さな傷は減らすが大きな傷を増やすばかりである。ケンカをしないやつは加減をしらないと同じようなものだろうか。

結局我々は、自分のなかにある攻撃性やどうしようもないエネルギーの存在=悪を認めて、それを適度に発散させていくしかない。それをないものとして清く正しく生きれば、鬱のようになるか、取り返しのつかないほどに自分/他者を傷つけてしまうことになる。




コメント

KK
No.1 (2016/10/18 14:08)
まどマギだと凄く分かり易い例が「さやか」の存在ですね
彼女は正義を貫こうとするあまり、周りが全く見えていない
その状態がまさにそれではないでしょうか

0か1かで考える道徳は道徳ではたり得ない訳で
もはや単なる基準でしかなく
一度悪意をもつと全てが悪なのも同じ傾向ではないかと
個人の受け取り方一つで随分変わるものですね
ホーリー (著者)
No.2 (2016/10/19 09:29)
>>1
コードギアスの枢木スザクもそんな感じでしょうかね。正義もエネルギッシュになるほど、フランス革命や共産主義のような末路を辿るわけです。だってそのエネルギーはどこからきてるんだって話なので。正義のエネルギーなんてものはないんですよ。そんなアメコミのヒーローにすぐなれるような、自己正当化の便利なエネルギーは。
善悪で議論するのは、卑怯者のすることですね。
Daiki
No.3 (2017/06/22 16:38)
大変納得させられる内容でした。
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事