品陀リウキのブロマガ

哲学随想を試しに書いてみる。47

2015/11/11 11:47 投稿

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さて、ここにきてようやく、前世紀において猛威をふるった無神論や唯物論、相対主義、現実主義、権威主義、加虐(被虐)主義…
 そして何より、
 それらのおおもととなった、
 虚無主義、
 の核心を語れる運びとなってきた。

 今こそ、ことの起こりとも言うべきニーチェの、


 「神は死んだ。」


 に向き合う時である。

 この有名すぎる命題…ニーチェの言葉で言えば箴言(しんげん)、は拝火教(ゾロアスター教)の開祖と言われるゾロアスターすなわち、ツァラトゥストラを主人公とした寓話形式で語られるニーチェの主著、
 「ツァラトゥストラかく語りき」(『ツァラトゥストラはこう言った』)
 に出てくる主題的命題なのだが、それが出てくる箇所を列挙すると以下のとおりである。



  ―1―

 「それにしても聖者は森の中で何をしておられるのです?」とツァラトゥストラはたずねた。
 聖者は答えた。「わしは歌をつくって、それを歌う。歌をつくるとき、わしは笑い、泣き、唸る。こうしてわしは神を讃えるのだ。
 歌を歌い、泣き、笑い、唸ることによって、わしはわしの神である神を讃える。ところで、あなたはわれわれには何の贈り物をしてくれるのかね?」
 この言葉を聞いたとき、ツァラトゥストラは聖者に一礼して言った。「あなたにさしあげるような何物があるでしょう!いまはあなたから何物も取らないように、わたしをさっそく立ち去らせてください!」こうしてこの老者と壮者とは、さながら二人の少年が笑うように笑いながら、わかれたのであった。

 しかしツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。「いやはや、とんでもないことだ!この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。


 神が死んだということを。」


      (第一部 ツァラトゥストラの序説 超人と「おしまいの人間」たち 第二節)      



  ―2―

 あなたがた(民衆)のなかのもっとも賢明な者も、植物と幽霊のつぎはぎか、あいのこにすぎない。だがわたしはあなたがたに幽霊になれ、もしくは植物になれと命じるだろうか?
 いや、わたしはあなたがたに超人を教えよう!
 超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発してこう言うべきだ。「超人こそ大地の意義であれ!」と。
 わが兄弟たちよ、わたしはあなたがたに切願する。
 大地に忠実であれ、
 そして地上を超えた希望などを説く者に信用を置くな、と。かれらは、みずからそれと知ろうが知るまいが、毒を盛る者たちなのだ。
 かれらは生命の軽蔑者だ。大地のほうで飽き飽きしている死にそこないの、みずからも毒にあたっている者たちなのだ。さっさとこの世を去ってくれればいい!
 かつては神を冒瀆することが、最大の冒瀆だった。


 しかし、神は死んだ。


 したがってこれら神の冒瀆者もなくなった。いまや最も恐るべきことは、大地を冒瀆することだ。究めることのできない者を設定し、そのえたいの知れない臓腑を、大地の意義以上に高く崇めることだ。

                                  (同上 第三節)


  ―3―

 あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見いだすことになった。信仰者とはいつもそうしたものだ。だから、信仰するといってもたいしたことはない。
 いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見出せ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。
 まことに、わが兄弟たちよ、そのときはわたしはいまとは違った眼でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう。
 そして、いつかは、またあなたがたがわたしの友となり、同じひとつの希望の子となる日がくるだろう。そのときは、わたしはみたびあなたがたを訪ねよう。大いなる正午をあなたがたとともに祝うために。
 大いなる正午とは、人間が動物から超人にいたる道程の中間点に立って、夕べに向かう自分の道を、自分の最高の希望として祝い讃えるときである。それは新しい朝に向かう道でもあるからだ。
 そのときは、没落する者も、かなたへ超えてゆく者として、自分自身を祝福するだろう。そのとき、彼の認識の太陽は、かれの真上に、天空の中心にかかっているだろう。


 「すべての神々は死んだ。


  いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う」―これを、いつの日か、大いなる正午の到来したとき、わたしたちの遺言としよう!―
 ツァラトゥストラはこう言った。

              (第一部 ツァラトゥストラの教説 贈り与える徳 第三節)


  ―4―

 ああ、わが兄弟たちよ、わたしには誰のことでもわかりすぎるほど、わかっている。多くの人間が、わたしには透き通って見えてしまう。しかし透明だからといって、彼らを通り抜けることはできないものだ。
 人間たちとともに生きるのがむずかしいのは、口をきかないでいるのが、むずかしいからだ。
 わたしが自分でもっとも不当な態度をとっていると感じるのは、わたしの気にくわない人間にたいしてではなく、何ひとつわたしの関心をひいてない人間に対してである。
 だが、もしあなたが悩んでいる友を持っているなら、かれの悩みを休ませる憩いの場所になってやるがいい。それも、言うならば、堅い寝床、野戦用のベッドとなってやるがいい。それによって、あなたはかれにとって最も有益な存在となるだろう。
 また、もしある友が、あなたに何か悪いことをしたら、こう言うがいい。「あなたがわたしに対して犯したことを、わたしは、許す。しかし、同時に、あなたは、それをあなた自身に対しても犯したのだ。―どうしてわたしに、それを許すちからがあるだろう!」

 すべての大いなる愛、超人への愛は、このように語る。それは許しも同情も超えたところにある。
 ひとは自分の感情を抑えなければならない。感情に流されれば、やがて頭脳も流出してしまう!
 ああ、同情者のしたような大きな愚行が、またとこの世にあるだろうか?また、同情者の愚行以上に、大きな害悪を世に及ぼしたものがあろうか?
 およそ愛する者で、同情を超えた高みを持っていない者は、わざわいなるかな!
 悪魔がかつてわたしにこう言った。
「神もまた、その堕ちる地獄を持っている。それは人間への愛だ。」
 ついこのあいだも、わたしは悪魔がこう言うのを聞いた。


 「神は死んだ。人間への同情の為に、神は死んだ。」―


 だから、同情には、くれぐれも油断をしてはならない。いまに人間にむかって重苦しい雲が同情から、押し寄せてくるだろう!まことに、わたしは天候を読むのに長けている!
 さらに、このことばもあなたがたの心に刻んでおくがいい。すべての大いなる愛は、すべての同情を超えているが、それは大いなる愛がその愛の対象をも―創造しようとするからだ。
 「わたしはわたし自身の愛をわたしに捧げる。そしてわたしとともに、わたしの隣人をも、わたしの愛にささげる」―すべての創造者はこう言う。
 すべての創造者は過酷である。―
 ツァラトゥストラはこう言った。

                               (第二部 同情者たち)


 ―5―

 昨夜、私は庭の石塀ののそばで、古い話題をめぐって、五つとおりのことばが交わされたのを聞いた。そうした年取った、わびしい、率直な夜番たちの口から出たものだった。
 「かれは父親としては、子どもたちの世話を十分にみていないよ。人間の父親のほうがよっぽどましだ!」―
 「なにしろ年をとりすぎたのだ!もう子どもたちのことなんか、さっぱりかまわなくなった」
―と、もうひとりの夜番が答えた。
 「いったいかれには子どもたちがあるのかね?誰にも証明できない。かれ自身が証明しないかぎりは!わしはとうから思っているのだ、かれがそれをいちど徹底的に証明してくれたらなあ、と」。
 「証明だって?かれがかつて何かを証明したことがあるとでもいうのかね!証明するのは、かれには苦手だ。信じてもらうことが、だいじなのだ」。
 「そうだ!そうだ!信仰はひとを幸福にする。信仰してもらうこともだ!われわれだって、そうだ!」―
 ―ふたりの年寄の夜番、この光から遠い者たちは、たがいにこのように語り合った。そして悲しげに角笛を吹いた。これは昨夜、庭の石塀のほとりであったことだ。
 しかし、わたしの心臓は、大笑いのため身もだえした。身のおきどころがなくなって、まごまごしたあげく、ひどく腹の皮をよじらせてしまった。
 まったく、驢馬が酩酊しているのを見たり、夜番たちがあのように神を疑ったりしているのを聞けば、わたしは、笑いがとまらず、窒息して死ぬかもしれぬ。
 およそこんな懐疑は、とっくにかたづいてるはずではなかろうか?あんな古い、眠りこけた、白日の光を忌みはばかる事柄を、誰がめざまそうとするのか!
 古い神々は、もうとっくに、かたがついた。――それにしてもかれらは、めでたい、愉快な最期をとげた!



 神々は「たそがれ」て、亡びたのではない、――あれは嘘だ! そうではない、かれらは笑
いこけて――死んだのだ。



 それは、神のひとりによって、このうえなく神らしくないことばが発せられたときに、起こった。、
 ――「神はただひとりである! あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない!」――
 年老いた、髭のある怒りの神、ねたみ深い神が、そう逆上して言った。

 そのとき、すべての神々は大笑いし、椅子を揺さぶって叫んだ、

 「神々はある。しかし、ただひとりの神などはいない。


  それでこそ神聖なのではないか?」



 耳のあるものは、聞くがよい。――

                           (第三部 脱落者たち 第二節)



   ――引用 : 『ツァラトゥストラはこう言った』 氷上英廣 訳  岩波文庫――



 整理の為に強いて表題のようなまとめを付けるとするなら、

 ―1―
 森に満ちる神性=精霊(アニマ)と、それにミュトス(詩歌)で接する詩人的な「聖者」への否定―

 ―2―
 大地・生命の意義としての超人の規定、および、大地や生命の逆である、虚空の幽霊や枯れ木のような迷妄・虚妄としての「神」の否定―

 ―3―
 無自覚、かつ無節操な信仰への批判、およびその超克と回帰として現れる、動物→人間のさらに延長上にある超人、の概念提示―

 ―4―
 (一神教の)神を殺す情念である同情、そして感情の批判、およびそれを超える創造の契機としての高き情念―愛、の提示―

 ―5―
 (多神教の)神々を殺す(一神教の)神の情念である妬み(ユダヤの神ヤーヴェの情念)および怒り(イスラムの神アラーの情念)への弾劾、および再び「たそがれた」信仰への批判―


 …といったところだろうか。さすがに根本命題だけあって、超人や永劫回帰、さらには多神教と一神教の確執および一神教への弾劾などニーチェの思想の極めて核心的な主題と関連付けられているのがよく解る。

 かなり引用が長くなったが、野暮を承知で解説すると、
 ニーチェの文章は、それ自体がひとつの逆説である。

 「ツァラトゥストラはこう言った(かく語りき)。―」

 という決まり文句は、詰まるところは聖人君子である孔子の「論語」における

 「子、曰く(し、いわく)。」―

 や、キリスト教の聖典、聖書の

 「主、給わく(しゅ、のたまわく)。」―

 仏典の

 「世尊、偈を説いて言もう(せそん、げをといてのたもう)。」―

 などなどといった、聖者の教説の前置きの決まり文句と同じものであり、それはそのあとの内容も含め、宗教的な教説の形式を取る・・以前に使った言葉で言えば、聖典の音律、韻律とも言える宗教的ミュトス(詩歌)の形を取った文体、とも言えるのだが、


 ニーチェの文章の最大の、逆説、は、そうした神仏や神聖なものを語る筈の、教説、の形で、その当の、神、や、天、を否定することにあった。


 以前、このブロマガでは、虚無主義のことを、それに先行する懐疑主義と独我(自我)主義の流れにおいて、
 懐疑主義や独我主義では疑いえない、懐疑しえない、とされた、
 自我、
 すらも懐疑する、懐疑の盲信・狂信、ないしは盲信的・狂信的な懐疑である
 盲疑・狂疑である、
(※この『盲疑』『狂疑』というのは筆者の造語)
 と表現したが、

 実の所、ニーチェに先立ち、感情や情念の領域にも干渉する詩歌・ミュトスの趣きを含んだ、文学、の形式で虚無主義を描出し尽くしたロシアの大文豪・ドストエフスキーの虚無がまだそうした全てを否定しつくす懐疑だったのに対し、
 ニーチェのそれは、そうした、神、や、天、という対象をもったことが異なっており、さらには、そこに救いや新たな可能性を見出せたりもするのである。


 存在論の基本中の基本、というより、言葉そのもののあり方として、

 ある、とは、ない、でないものである。
(逆もまた然り。ない、とは、ある、でないものである。)

 これは、かつてヘラクレイトスの論理に既に現れ、ソクラテスの対話において実践され、学問の根本であるアリストテレスの矛盾論理を踏み越えた、ヘーゲルの逆説論理の弁証法で言うところの、

 対立者の同一、

 という存在論および本質論における、最大の逆説的根本命題でもあり、

 般若経の

 色即是空 空即是色

 に等しい表現でもあるのだが、


 この場合の大事な着目点は、
 これが狂疑や盲疑の混沌・カオスから一歩踏み越えた秩序・コスモスを導く、
 というところである。

 ニーチェの超人の意義を見ても解る通り、ツァラトゥストラは、神≒天、を「ない」、と言いつつ、その逆、つまり神≒天で『ない』ものである、超人≒大地、を、「ある」、と言っているのである。

 繰り返しになるが、ある、は、ない、でなく、ない、は、ある、でない。
 ある対象の否定とはその対象の対立者の肯定であり、
 ある対象の肯定とはその対象の対立者の否定である。

 哲学の命題は常に「~である。」という表現を取るが、その「ある」はこのように解さねばならず、畢竟、「神は死んだ」の「死んだ」もまた、この「ある」の裏返しの、
「ない(死んだ)」もしくは「なくな(成)った。」として、解さなければならない。

 こうした弁証法的智見(※智見は意見の対義語)によらずに、感情や情念で「神は死んだ。」を解するのは、デカルトやキルケゴールが考究し指摘した、幼児期および老年期に特に顕著な情念である、不安、やその行き着く果ての感情を根こそぎ失う情念である、絶望、を契機(モメント)として虚無に向き合うことに等しいが、それは極めて危険なことである。
(たとえば、先の敗戦直後の我が国・日本にこの「神は死んだ。」がどれほど蠱惑的に響きえたことか、は想像に難くない。)


 そしてなにより、神に代替される超人の意義がはっきりと、大地、つまりガイア、と語られていることから見ても、ニーチェが否定したかったのは、その逆の、天空(ウラノス)、つまり虚空の、それも大地と対立するのみならず、大地を「冒涜」し、「究めることのできない者を設定し、その得体のしれない臓腑を、大地の意義以上に高く崇めること」だったと言える。
 この天空、ウラノス、に対する大地、ガイア、とは、前回も考察したとおり、精神に対する物質(物体)、形而上的事象に対する形而下的現象、超自然に対する自然・・・といったものということができ、たとえば自然保護によく使われる「地球は生きている」とか、「地球に優しく」とかいったスローガンで用いられるときの『地球』の語のニュアンスもこれにかなり近い。

 カントの「物自体」や、現実主義や唯物主義でいうところの「現実」や「物」もかなりなところが、これである。

 つまり、大地とは感覚や経験で把捉されるものの総体であり、それは現象であり、現実であり、自然であるため、同じく自然物でもその骸である枯れ木などよりは、動物、で喩えるのが相応しく、だからこそニーチェの、超人、とは動物と人間の延長上にある(「人間が動物から超人にいたる道程の中間点に立って~」)のである。
 (ちなみにニーチェに先行する虚無主義の文学者ドストエフスキーは、『悪霊』において、新人、という言葉で同様のことを表現しており、
作中人物キリーロフに、「ゴリラ(動物・類人猿)から神の撲滅まで」とこのあたりの事情を表現させている。)

 前回もいったとおり、大地・自然には善悪はなく、天空・罪性とは善悪二元そのものである。

 そのあたりで、同じく絶望を契機とした虚無を追っていたニーチェとキルケゴールでも見解が分かれるのだが、(キルケゴールは感性・習性を知性に飛躍させる罪性・霊性の観点から人間と動物を隔絶された存在と捉える)
 これこそは、ニーチェが虚無を、善悪の彼岸、と喝破した所以でもあるのである。

 霊性の次元の精神性・罪性・悪魔(シン)には善悪があるが、
 感性の次元の物自体・習性・鬼(もの)には善悪はない。

 よって、神の死、は必然的に人の人たる所以たる善悪=倫理の喪失をもたらし、自我が善悪の地平である罪性を前提として存在する事情により、必然的に、自我の喪失、をももたらし、
超人間であるのと同時に超動物でもあるところの、超人、の概念を発見しつつもそれになることの出来なかったニーチェは、

 ひとつの物自体、ひとつの自然、ひとつの動物、ひとつの現象、と化し、
 発狂することになったのである。


 皮肉なことに、ニーチェはその人生の顛末でもって、デカルトの自我、とキルケゴールおよびキリスト教の教説の人間と動物の隔絶の自明、を覆し、


 そのことでもって、われわれ近現代人・人類・人間、に大地を踏みしめせしめたのである。






 さて、神や自我を代償に大地を踏みしめた近現代人の展開・発展・活躍はその後の歴史や現代の世情のおおいに語るところであるが、ここで残る問題は、
 そもそもの神の死の発端・契機である、

 森の神性=精霊(アニマ)の死、
 および、

 悪魔がツァラトゥストラに告げた、一神教の神Godを殺した情念 ―同情―
 と、

 その一神教の神Godが多神教の神々Deitiesを笑い死にさせた情念 ―妬みと怒り―
 であるが、
 
 精霊(アニマ)の死、については過去の記事で人類最古の物語の主人公にして人類最初の自然破壊者であるギルガメシュ、や現代の「ギルガメシュ叙事詩」といえる映画「もののけ姫」の生みの親である宮崎駿氏などを引き合いにして論じたのでそれを参照して頂くこととし、

 あとの二つの考察はまた次回に持ち越すこととしたい。

コメント

まろんの君
No.1 (2015/11/14 11:23)
どうも、お久しぶりです(^ω^)

難しい内容なので僕の理解は怪しいのですが、記事を拝読して興味を抱いたので、拙いながらもコメントします(^^;

キルケゴールやニーチェの時代のキリスト教は、もっと限定して言えば教会組織は、政教癒着と権威主義とでやはり腐敗しきってたようで、免罪符のインチキ商法などが世間でまかり通っていた時点でもその腐敗ぶりが窺えます。キルケゴールの父親も高い金払って買わされたそうです(笑)

一方、近代科学の発達によって、それまでの伝統的・慣習的な価値観が相対化されて迷信が迷信として、まだ知識人のレベルにおいてではあるけれども、それが民衆にも自覚されるようになった。

こんなことをわざわざ付け加えるのも我ながらおこがましい気がして恐縮ですが、
「神の死」すなわち「それまでの絶対的な価値基準の無価値化」にはそういった背景があったと思います。


「『ツァラトゥストラ』は聖書のパロ... 全文表示
品陀リウキ (著者)
No.3 (2015/11/15 08:02)
いえいえ^^
いろいろと面白いお話をどうもありがとうございます。まろんさん。

「デミアン」について軽く調べてみましたが、今の若い人たちが見たら
確実に例の「意識高い系」「厨二病的」なんてネットスラングで形容しそう
な内容ですねw
 ただやっぱり哲学が扱うところでもある時代精神に鑑みて、当時のそれに
合致するようなものが大いに感じられることから見ても、存外、今、ゲルマン
民族の流入をも思わせるようなアラブ難民の流入と、ヨーロッパの工業の
扇の要だったVWの激震に加え、日ごろの行いが祟ってTPPからハブられた
中国の経済的侵入、と主にドイツを中心として大きくうねってるヨーロッパ
ではかえって新鮮に捉えられそうな内容でもありそうですねー。

 そして、「ツァラトゥストラ」ですが、彼には大地を代弁する「地上で
最も賢い動物」の蛇と、「地上で最も誇り高い動物」である鷲、がお伴する
ことから見て... 全文表示
ロランP
No.4 (2016/04/30 04:51)
正反合で今日は。
さて、私がいろいろとぶん投げた記事を書いた後からぱったりと更新がされなくもなれば、あれが原因だったかと疑いもするもので。
そうすると私に出来る事があるとすれば何かと考えれば、戻ってきてなどと嘆願するより、この記事の続きを勝手に書いて、そんな内容で纏められて成仏出来るかと化けて出られる方が楽なもんです。
という訳で、次の機会があれば私の記事にて。
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