言葉は希望である。
それ自体が価値である。
しかし、ではどうしてロゴスのプラトンは「国家」において、哲人の王国からミュトスのホメロスを排除しなくてはならなかったのか?
それには、詩というものがさらに論理性を持って展開した形式である、
物語、
についての言及が必要になる。
物語(StoryもしくはTail)とは「誰か(Who)」すなわち、人格(キャラクター)を扱う学問である文学、にカテゴライズされはするものの、その人格の論理構成は虚構(Fiction)も含み込み得るものであるため、飽くまでもノン・フィクションの人格(HeもしくはShe)を扱う歴史(His+Story=History)とは違い、そこに出てくる人格・キャラクターの実存・実在性が問題とはならない。
それはすなわち、物語はそうした虚構のキャラクターの行為・営為が実存・実在性において真であるか偽であるかが問題ではないということであり、
とうぜんながら、純然たる物語とは実在・事実に即して・・・
嘘でも本当でもどうでもよい。
・・ということになる。
それはテレビでも雑誌でも漫画でもネットでも、毎日毎日無数に生まれ来るところの「作り話」を思えば容易に知れることであるだろう。
ただ、物語もその中心中軸がその主人公の人格(Who・Ego)、という一つの論理(ロゴス)の形式の一貫性において成立するミュトスである以上、主人公がたとえ誰にでもなれるような悪魔やジョーカーであろうと、多重人格者であろうと、ちょうど、前もって「自分は嘘吐きだ。」と断りを入れた「嘘吐き」の「嘘」がもはや本当の、嘘、ではない、という『嘘吐きのパラドクス』のように(そんな『嘘』のことを冗談、という)、そのことについて何らかの断りを入れないことには、物語として成立しえない。
そうした断りを入れないものは欺く悪意があるものを虚偽、それが自覚されない場合で虚妄と言い、完全に規定・秩序(コスモス)を持たない叙述は単なる混沌(カオス)の呟き・独白に過ぎないものに堕すため、そうした「誰か」の真なる規定秩序・人格の論理に物語は支えられている、とも言える。
物語の嘘とは嘘は嘘でも括弧付きの「嘘」である。
真実とは、実存や実在のレベルにおける真実である、事実、のみを必ずしも示すわけではない。
そして、哲人プラトンの詩人ホメロスら物語の語り部に対する批判の主題は、そうした規定の中の、とりわけ・・・
無限者である神、
・・・の扱いについてのものに重点が置かれていたのである。
物語の「語り」は「騙り」にも通じる。これを先の「嘘吐きのパラドクス」同様、文学の側の良識から逆説当為表現すると、
文学者は嘘で真実を語らなければならない―
と、なる。
文学者はたとえ虚構や「嘘」であったとしても、実在や実存・現実性とは異なる位相における真実は語らねばならない、ということであり、
これに背いたとき、文学者は詩人ホメロスたち同様、その知性や悟性の驕りによって、理性や本質・真実在にもまた、背を向けることになり、哲人の国家から追放されることになる。それは現代において物語に携わる者にしても同様である。
(念のために補足すると、この『国家からの追放』とは、国家の何らかの権力が何らかの作品・危険思想を排除する、といったような現象的な話ではない。我々日本人のやまとことばにおいては古くは「国」家の、国(くに)=地(くに)、であり、そういう具合に、国、は大地の目に見え手に触れられるものの秩序のすべてを指すものであり、プラトンの『国家』もそうしたものであるのであってみれば、ここでいう『追放』とは、精神がそうした地上の秩序から遊離し、空想・幻想・夢想・妄想に迷い込み、そこから「現実」に帰ってこれなくなるような事態・事象を指すのである。)
さて、では、詩人ホメロスのいかなる叙述が、無限者・真実在者としての神についてのそれとしてそぐわなかったのか?
それは、神についての根源的存在論や、今なお世間において見られるそれについての謬見にもまつわることなので、また次回で慎重に扱っていきたい。
それ自体が価値である。
しかし、ではどうしてロゴスのプラトンは「国家」において、哲人の王国からミュトスのホメロスを排除しなくてはならなかったのか?
それには、詩というものがさらに論理性を持って展開した形式である、
物語、
についての言及が必要になる。
物語(StoryもしくはTail)とは「誰か(Who)」すなわち、人格(キャラクター)を扱う学問である文学、にカテゴライズされはするものの、その人格の論理構成は虚構(Fiction)も含み込み得るものであるため、飽くまでもノン・フィクションの人格(HeもしくはShe)を扱う歴史(His+Story=History)とは違い、そこに出てくる人格・キャラクターの実存・実在性が問題とはならない。
それはすなわち、物語はそうした虚構のキャラクターの行為・営為が実存・実在性において真であるか偽であるかが問題ではないということであり、
とうぜんながら、純然たる物語とは実在・事実に即して・・・
嘘でも本当でもどうでもよい。
・・ということになる。
それはテレビでも雑誌でも漫画でもネットでも、毎日毎日無数に生まれ来るところの「作り話」を思えば容易に知れることであるだろう。
ただ、物語もその中心中軸がその主人公の人格(Who・Ego)、という一つの論理(ロゴス)の形式の一貫性において成立するミュトスである以上、主人公がたとえ誰にでもなれるような悪魔やジョーカーであろうと、多重人格者であろうと、ちょうど、前もって「自分は嘘吐きだ。」と断りを入れた「嘘吐き」の「嘘」がもはや本当の、嘘、ではない、という『嘘吐きのパラドクス』のように(そんな『嘘』のことを冗談、という)、そのことについて何らかの断りを入れないことには、物語として成立しえない。
そうした断りを入れないものは欺く悪意があるものを虚偽、それが自覚されない場合で虚妄と言い、完全に規定・秩序(コスモス)を持たない叙述は単なる混沌(カオス)の呟き・独白に過ぎないものに堕すため、そうした「誰か」の真なる規定秩序・人格の論理に物語は支えられている、とも言える。
物語の嘘とは嘘は嘘でも括弧付きの「嘘」である。
真実とは、実存や実在のレベルにおける真実である、事実、のみを必ずしも示すわけではない。
そして、哲人プラトンの詩人ホメロスら物語の語り部に対する批判の主題は、そうした規定の中の、とりわけ・・・
無限者である神、
・・・の扱いについてのものに重点が置かれていたのである。
物語の「語り」は「騙り」にも通じる。これを先の「嘘吐きのパラドクス」同様、文学の側の良識から逆説当為表現すると、
文学者は嘘で真実を語らなければならない―
と、なる。
文学者はたとえ虚構や「嘘」であったとしても、実在や実存・現実性とは異なる位相における真実は語らねばならない、ということであり、
これに背いたとき、文学者は詩人ホメロスたち同様、その知性や悟性の驕りによって、理性や本質・真実在にもまた、背を向けることになり、哲人の国家から追放されることになる。それは現代において物語に携わる者にしても同様である。
(念のために補足すると、この『国家からの追放』とは、国家の何らかの権力が何らかの作品・危険思想を排除する、といったような現象的な話ではない。我々日本人のやまとことばにおいては古くは「国」家の、国(くに)=地(くに)、であり、そういう具合に、国、は大地の目に見え手に触れられるものの秩序のすべてを指すものであり、プラトンの『国家』もそうしたものであるのであってみれば、ここでいう『追放』とは、精神がそうした地上の秩序から遊離し、空想・幻想・夢想・妄想に迷い込み、そこから「現実」に帰ってこれなくなるような事態・事象を指すのである。)
さて、では、詩人ホメロスのいかなる叙述が、無限者・真実在者としての神についてのそれとしてそぐわなかったのか?
それは、神についての根源的存在論や、今なお世間において見られるそれについての謬見にもまつわることなので、また次回で慎重に扱っていきたい。
コメント

No.16
(2015/08/02 06:13)
あと、リウキさんが話題に出した、永遠の0、の大まかなストーリー、ネタバレを調べてきました。
うん、いい作品ですね。
自分の命を懸けてでも、本当に守りたい大事な、大切なものがあって、それを覚悟するってことは、並大抵の人間にはできない事だと思います。
うん、いい作品ですね。
自分の命を懸けてでも、本当に守りたい大事な、大切なものがあって、それを覚悟するってことは、並大抵の人間にはできない事だと思います。

No.17
(2015/08/04 01:14)
永遠の0の作者の百田さんはあの独特なキャラクターでこの
ニコニコブロマガでも有料のほうで顔を出した広告をされて
ますね。
実は自分は原作は読んでいないのですが・・^^;;)
これは「永遠の0」を扱った記事です。
blomaga/ar688568
blomaga/ar692600
まあ、特攻隊員が主人公である以上その最期は必ず死を
もって終わるのは当然なので、ネタバレを見るのもいいかもし
れないのですが・・・
自分は百田さんも「三回見て三回泣いた。」という映画の
「0」こそはこの作品の真価を発揮してると思いますので、
とにかくその特攻の死という「0」にどう物語が集束していく
かはぜひ確かめてほしいですね。あれには家族を守りたい思い
のみならず、友情・師弟愛・運命・絶望・贖罪・自己犠牲・希望・
救済・・・
等々、これでもか、てくらいいろんなものが込められてますから。
岡田准一くんの鬼気迫る演技に加え、山崎監... 全文表示
ニコニコブロマガでも有料のほうで顔を出した広告をされて
ますね。
実は自分は原作は読んでいないのですが・・^^;;)
これは「永遠の0」を扱った記事です。
blomaga/ar688568
blomaga/ar692600
まあ、特攻隊員が主人公である以上その最期は必ず死を
もって終わるのは当然なので、ネタバレを見るのもいいかもし
れないのですが・・・
自分は百田さんも「三回見て三回泣いた。」という映画の
「0」こそはこの作品の真価を発揮してると思いますので、
とにかくその特攻の死という「0」にどう物語が集束していく
かはぜひ確かめてほしいですね。あれには家族を守りたい思い
のみならず、友情・師弟愛・運命・絶望・贖罪・自己犠牲・希望・
救済・・・
等々、これでもか、てくらいいろんなものが込められてますから。
岡田准一くんの鬼気迫る演技に加え、山崎監... 全文表示

No.18
(2015/08/04 02:09)
ますは、
ちゃんと作品を見たうえで語らないといけなかったですね。申し訳ない。
しかし、本当にこの世の中、学ぶものが多すぎて時間が足りないなんて思うものです。
本当、一か月会社休暇してた時の自分に、色々みとけ、学んどけって言いたいいものです。
あとは今の自分も、時間は大事に使わなきゃ、と。
ちゃんと作品を見たうえで語らないといけなかったですね。申し訳ない。
しかし、本当にこの世の中、学ぶものが多すぎて時間が足りないなんて思うものです。
本当、一か月会社休暇してた時の自分に、色々みとけ、学んどけって言いたいいものです。
あとは今の自分も、時間は大事に使わなきゃ、と。
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技量、特に作家が経験を積んでいけば、高度な「嘘」をつくこともでき、100年以上も通用する真実だって見出せるかもしれない――が、実際はキツイだろうし、むずかしいんでしょうなあ。