品陀リウキのブロマガ

哲学随想を試しに書いてみる。42

2015/06/03 20:15 投稿

コメント:12

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知性の認識は実存と観念の往復である。

 外の世界に見い出される実存が、内なる精神に焼き付いたものが観念であり、そうして生じる雑多な心象がある程度自然的にまとまったもののことを悟性、というのだが、
 悟性はいまだ、理解、ではない。

 理解は知性の上の領域にある、理性の次元・地平における営為なのだが、その知性と理性の間にあるのが悟性、というわけで、これを自覚しない人は多い。

 悟性はヘーゲルがもっとも批判したもので、ソクラテスがソフィストに自覚を促したものもこれなのだが、当然「悟」とはいうものの、これは仏の悟り、とは全く似て非なるものである。
 そもそもこれを避けるためにこそ、禅では

「『仏』に遭うては『仏』を殺せ。」

 とまで言う。
 この『仏』、悟性とは、ある意味あの平家を滅ぼした、驕り、にも等しい。


 かくして、精神・思惟の飛躍の段階は以下のようにまとめることができ、思想は規定性・理性的なのであってみれば、前のものほど思惟的、後のものほど、思想的であるとも言える。


 <思惟的>         ⇒          <思想的>

      感性→習性→霊性→罪性→知性→悟性→理性
《物・鬼的》       《魔・人的》       《神・仏的》

物質(モノ)   ⇒     魂(タマ)    ⇒    精神(ココロ)


      <動物  →  人間  →  超人>    (※この行はニーチェの規定)


 古くは鬼を鬼(モノ)、と呼んだことの真相がまさしくこれであり、人外でも未だ善悪の此岸にある魂の魔、悪魔、などが人間的なのも以上の規定による。物、は当然、鉱物植物動物でもあり、そこのところは、全てが物思う命、であるとするアニミズムにもかかる。

 一般的に、人の教育による成長や生物の進化の方向性が上述の→、の方向なのだが、中央の罪性、を境として、
 霊性以下から見た知性以上に、不安、
 知性以上から見た霊性以下に、虚無、
 が、
 付随することはすでに見たとおりである。

 さらに以前にニーチェの虚無とキルケゴールの絶望は同じもの、と言ったのであってみれば・・・


 絶望とは、この矢印⇒・→が、・・・⇐・←、へと、反転することだ、と、言えるのである。

 (逆もまた然り。希望、とは物鬼が神仏に至る⇒・→の指向であり、これこそ虚無の反対の、充実、である。)

コメント

とまと船
No.10 (2015/06/07 12:54)
ゆ、ゆんやぁぁぁああああああー
どぼじてごんなめにあうのおぉぉぉぉぉおおおー
和尚さんは、ゆぎゃく鬼威惨なのぉぉぉぉおおお???
品陀リウキ (著者)
No.11 (2015/06/07 15:07)
 喝!!

鬼の愛は深いのじゃ!
深い愛は痛いのじゃ!
仏は鬼より深いのじゃ!
痛みを超えるが仏!
痛みを超えて悟ってみせい、未熟者!!
そもさんそもさん・・・

修行が足りん! かーーーーーーーーーーつ!!!www




 禅でも哲学でも真理を求める道は何よりも痛いのですw
まあ、でも達磨大師の髭同様に、
「禅は、どういうわけで痛く無いのか?」
  ・・・ですがw


 さて、    そもさん!!
ロランP
No.12 (2015/06/14 11:14)
やっとこ、記事を読んで、なるほどって思えるくらいにはなったのでコメント。

ほんと、人が事象、ことごらを理解して

ちゃんと人にもそっくりそのまま伝えたりするのには

死ぬほど苦労するんですねぇ。
自分がわかったつもりでも、
それを人にも寸分たがわず
伝えることができないと、

伝える側は
理解してたことにはならないでしょうし。
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