品陀リウキのブロマガ

哲学随想を試しに書いてみる。40

2015/05/15 11:36 投稿

コメント:24

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キリスト教は知ってのとおり、イスラム教やユダヤ教同様、偶像(アイドル)の崇拝を、建前上は、禁止している。

 が、やはり知ってのとおり、そのキリスト教徒である欧米人はエジプトやギリシャ・ローマの異教の神々の偶像をあのイスラム過激派のように破壊してはいないし、そもそもそれを命じた十字架のキリストはもとより、その弟子をはじめとする数多の聖者(セイント)の偶像を造って教会に掲げたりもしている。

 そうした原則へのはた目から見ての矛盾は、かの地の神学や教義学の問題なので、キリスト教徒でも欧米人でもない、神仏習合の普通の一日本人の筆者には扱い兼ねる問題なのだが、ヨーロッパに遺る数多の偶像の数々がキリスト教の原則への不徹底というよりは、ひとつの寛容さや大らかさと受け取って差支えないものと見るのは許されることだろう。

 事実、件の絶望の哲人・キルケゴールはキリスト教への深い信仰とその神学や教義学、さらには心理学への造詣をも持ちつつも、臆面なく、はっきりと、自らを

「偶像(アイドル)崇拝者」と断ったうえで、

 あの「死に至る病」の絶望の前段階の情念と言うべき、不安、について考察した
 「不安の概念」を書きあげている。

 むろん、偶像とは、即座に連想するであろうギリシャの大理石像や日本の木造仏のような彫像、さらには絵画などのみを言うわけではない。

 偶像とは、神、という本来形而上的な存在、つまり、形、形式を超えた存在、を敢えて形而下の形、つまりは現物にしたもの全てのことをいうのであって、そういう意味では、この日本の最重要神・天照大御神の永遠のお孫、すなわち、天孫、であらせられる累代の天皇陛下(神が永遠不変である以上、初代神武帝も、今上陛下も等しく、天孫、であらせられる。時代が下るにつれ、例えば天照大御神の血が薄まる、などということは本義上、有りえない)もまた、生き神か、偶像(アイドル)か、といった議論が可能では、ある。
 とはいえ、さすがに一日本人としてあまりに畏れ多いので、その議論にこれ以上踏み込むことは出来ないのだが、しかし、身近なところで我々が触れられる偶像(アイドル)ならば、

 やはりとうぜん、
 通常通念的に思われるとおり、
 あの、普通に「アイドル」と呼ばれる可愛らしい芸能の少女たち、女性たち、であろう。

 陛下をアイドル、と呼ぶのはさすがに憚られるとしても、たとえば、神に神楽の舞と祝詞を捧げ、神をその身に降ろす巫女さんたちをアイドル、と呼び彼女たちのルーツと見ることは許されるのではないだろうか。テレビや動画の中で舞い、歌う彼女たちが神、とまでは言わないまでも、何らかの神性を有する、ということならば、彼女たちアイドルを愛するファン諸兄の同意を得ることも出来るのではないだろうか。

 神に仕えるものは純潔、すなわち、無垢、でなければならない。
 神性とは無垢、である。

 この無垢、とはミヒャエル・エンデが「果てしない物語」で虚無に対抗するものとして描いた「幼な心の君」そのものであり、同様に虚無と対峙していた、ある意味で「オタク」諸兄の方々の愛好する「萌え」の開祖とすらも言える宮崎駿氏が、その一連の作品群で描いた少年幼児少女幼女たちの姿、でもある。

 キルケゴールの始まりの「無」とは、この、無垢の概念、である。

 この無垢が、完全に無垢なる存在だったアダムとイヴが、「知恵の実」を食べたこと・・

 すなわち、人が「智」を知ってしまったこと、神性・無垢が知識や知恵で汚されること、つまりは、人が人であるかぎり絶対不可避な何かを知ることその事態自体そのものこそ、が、

 人類すべての罪の起源である、原罪、なのであり、不安と、絶望の、最初の第一歩、なのである。
 智自体が罪なのである。

 翻って、
 哲学(フィロソフィア)、とはフィロ(愛)ソフィア(智)・・・つまり、
 智を愛することである。
 
 とうぜんながら、そうした智と原罪の関係の問題は智そのものを考える上で避けられようはずもなく、キルケゴールはそれと真っ向から衝突した。
 デカルトにおいては感情の問題だったものが、哲学のアイデンティティーに関わる問題として、そもそも智の「動物」たる人間存在の根源的問題として、立ちはだかったのである。

 これは哲学者だけの問題ではない。
 智の問題は悪の問題にも繋がるが、何人たりとも悪の問題から逃れえないように、智・知識・知恵が人を人たらしめている以上は、何人たりともこの無垢の喪失としての智の問題からは逃れえないのである。

 無垢の側から眺められた智、
 それが、不安、なのである。

コメント

ロランP
No.22 (2015/05/18 07:27)
救世主症候群を克服できた時には力になるとは聞きますが
まだ、振り回されていて
時間もかかるし
心の修行も
文章も
ぜんぶ追いついてない、そう感じました。
品陀リウキ (著者)
No.23 (2015/05/18 18:41)
何もかも救おうとするからいけないんですよ。

人が有限で人の力に限界がある、というのは、
歯がゆいものである一方で救いなんですよ?

 権力財力武力・・人間、自分の無力を嘆くと
すぐそうしたものが欲しくなったりしますけ
ど、そうしたものだって、それが人の手にす
るものである以上、必ず限界はありますし、
それが苦悩のもとになるのだから、

 やはり、一歩一歩目の前の限界を乗り越え
ていくことだと思います。

 「るろうに剣心」の「手の届く範囲の人を
助ける」とまではいかないまでも、
「今日、関わった人をちょっと楽しくできた。」
とか、
一生かけて一人の人を救えた、とか、

 人間ですし、出来ることはそんなささやかな
ことでもいいように思います。
ロランP
No.24 (2015/05/18 19:05)
リウキさん、
はい、自分の心からおもうことを
記事にかいていき
すこしだけ、心が暖かくなれば
いいなって
思えました。

どうもです。
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