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哲学随想を試しに書いてみる。39

2015/05/12 21:29 投稿

コメント:5

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よって、虚無が無そのものでないなら、虚無とは量的に例えるならば、極限小数・涅槃寂静のような、無に限りなく近いが無そのものではない極限小者、である。

 虚無が何であるかについては、虚無単体で考えようとすると、『果てしない物語』などのようにややこしくなるのだが、以上のようなことから対になる概念を抑えておけば、判然とする。

 虚無、の対義語は、充実、である。

 絶望が虚無なら、とうぜん、希望は充実であり、
 絶望が極限小なら、希望は極限大、である。

 むろん、このように虚無と充実がなんらかの量的概念により連結することへの疑念は論を俟たないだろう。が、果たして精神というものが、虚無が虚無でしかないこと、絶望が絶対に絶望でしかないことに、果たして耐えうるものなのだろうか?という疑問もまた、一方で有り得るはずである。
 ニヒリズムを克服した、我が国の知られざる超人・埴谷雄高の創作の動因である「自同律の不快」とは、突き詰めれば絶望が絶望でしかないこと、虚無が虚無でしかないことであった。
 ならば、その不快の克服が希望であり充実で有り得ることは言うまでもない。

 鍵は、純粋無たる真の無、と、定有としての「無」の違い、である。
 そして、前者は前に見たとおり、有限に対して負の方向に絶対たる無限小であり、後者は上に見たとおり、負の方向に極限ではあるがいまだ有限である極限小であった。


 1÷0=∞、で見たとおり、無で有を測れば、いかなる有も無限大である。
(ト・パン・アペイロン『万物は無限である』)
 ならば、
 無に限りなく近い「無」たる極限小で有を割り、測れば、いかなる有も、
 極限大、「有」である。

 実のところ、虚無主義の意義はそこにあった。

 「自己を空しうする心は世界を掴む。(小林秀雄)」

 自己精神を極限小に近づければ近づけるだけ、その心は極限大の世界精神と合一する。
 無限者たる神はひとまず置いたニュートンの科学精神や唯物論の世界認識にもこれに通じるものはある。
 自己をいかに極限に小さくしていこうとも、懐疑主義を乗り越えたデカルトの自我論では自己は消えることはないはずだった。極限小はいかに小さくなろうとも無にはならないし、極限大もいかに大きくなろうとも無限大にはならないはずだった。

 が、

 周知のとおり、ニーチェは、極限小、虚無が無となりそんなデカルトの自己・自我を消滅させてしまいうることを、その身を以て証してしまった。
 さらに先立ってキルケゴールはそれを絶望、と既に予見しており、ヘーゲルなどは
「悪無限」、などという表現を既にしていた。

 実は、そうした精神は有から無への飛躍を仏に見る我々アジア圏の者には決して珍しくはないのだが、真の意味で精神が無になる・消えることができない以上、絶望と虚無で失われた自己は極限小と極限大、つまりは無と有、相反する方向に向かって真っ二つに張り裂け、果てしなく漸近していくことになる。
 それは自己・自我が奈落の底に堕ちていくのと同時に果てなき天空に上昇していくことであり、ビッグバンで生まれ今なお光速で膨張する宇宙に溶け込みそれと完全に合一してしまうことにも等しい。なんにせよ、もはやそれは人間精神と呼べるような代物ではない。


 翻って考えてみよう。
 絶望は、虚無は本当にたとえば「まどか☆マギカ」のQBが言っていたように不可逆なのか?
 「現実的には」有から無に転化したものを再び無から有に転化させられるのは神の創造の奇跡だけである。奇跡は信じるしかない。
 だが、本当にそれだけなのか?

 次回はキルケゴールの絶望からその前段階、不安に遡って考えてみよう。
 不安は「無」から始まるが、その「無」とは無垢と原罪であり、それは哲学者の愛するところの知、である。

コメント

とまと船
No.3 (2015/05/13 17:59)
これまでは、希望が「∞」としたら、絶望は「-∞(マイナス無限大)」のようなイメージを持ってましたのぜ。個人的に「絶望感」に捉われた時は、なんというか「底なし」といった感じで、例えば普通の状態を「地表」として、ゼロの高さとすると、「底なし」の深さは無限で測定できないのでマイナスの無限大(-∞)なんやろかと。でも、底の存在が「無い」というように、「無い」を強調して考えると、やはり0で表すほうが良い気もしましたのぜ。

プラスもマイナスも、数直線上のただの方向に過ぎない(数値の正負は良し悪しの区別ではない)と考えると、「∞」も「-∞」も「0からひたすら遠い、無限の量」であって、虚無というのは「0」だと思ったのぜ。

>「自己を空しうする心は世界を掴む。(小林秀雄)」

これを見て、金子みすずさんの詩である「蜂と神様」が思い浮かんだのぜ。
「蜂はお花の中に」「お花は花瓶の中に」から続いて、「日本は世界... 全文表示
品陀リウキ (著者)
No.4 (2015/05/13 18:11)
>>1
そういう謙虚さはちょっと量的概念にまだ縛られていて、
精神の無限性がまだ自覚できていない。とかなんとか、
批判も出来るのですが、その後のは完全に自分が前に
上げたソクラテスの「夢を見ない眠り」ですねw

 ただ、まだまだ考えが足りないな、と思うのは、
「自分が死んだ後の世界」も今、自分の中にある、
ということです。

 ようは、自分が死んだ後の葬式に子供たちが困ら
ないよう生きているときから万事整えておくお年寄
りの良識、ですね。

 人は死んだら確かに無くなります。
 が、自分の死に方や死の結果で他人や社会が困るの
は嫌、という形で死んだ後の「未来」は今、ここに
あります。
 つまり、「後生が悪い。」の後生、ですねw

 過去についてはヘーゲルなんかは「止揚されたもの
として、消えつつ在る。」なんて表現してますが、
やはりそれもまた、今、ここに有る、と言えますね。

 何をやってもいい、というのはそのとおりですが、
今、ここにある「過去の人」や「未来の人」の目には
それなりに気を付けましょうねw
品陀リウキ (著者)
No.5 (2015/05/13 19:06)
>>2
どうかお気にしないでくださいね、あれで良かったでしょうか?
>>3
 ー∞は正負の定義のもとで0から反転した∞の反照であって、
そうして展開された数直線象限上の0は絶対不動点ではあって
も一つの通過点となってしまい、ここの存在論的な自然数の1
とあまり変わらないものになってしまいますから、そのへんは
ややこしいですねー

 まあ0も数学概念上の「無」であって、完全な無ではないか
らこのへんは飽くまでもひとつの喩えですね。もとがそもそも
表現不可能な事柄ですがw

 もとは「国土草木悉有仏性」で、それが道元禅師の
「山川草木悉有仏性」を経て「山川草木悉皆成仏」と
なり、日本的な多神教・アニミズム的な境地を示す
言葉になった、と聞いたことがあります。
 インドの詩人・タゴールもそんな世界を表現してた
と言いますが、自我の強い欧米人にはショッキングな
境地だったでしょうね。本当に大事なのはそこを経て
なお残る自分、というものなはずですが。
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